みずうみ2023

暮らしの中で出会った言葉や考えの記録

人はひとりでは生きられない

毎日のように17歳の娘氏から議論をふっかけられている。

最近、あ、なんか話が面白くなりそうだなーと思った時は、ボイスレコーダーのボタンをぽちっと押す。

でも大抵は録ったきりで、どんどん溜まっていってしまっているのだけど(夕飯作りながら1時間喋ってるとかざらだから)、昨日は短く切りあがったので、試しにちょっと書き起こしてみた。

取りとめのない話だけど、私は結構面白かったので。

これは昨日の朝の会話。

 

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(娘氏、以下娘)

みんなさあ、「人間関係に悩んでる」って言うじゃん。

職場でのいざこざーとか、恋愛沙汰に巻き込まれたーとか。

そういうもののことを「人間関係」だとみんな思っている。

でもそうなると、人間関係っていうのは、めんどくさくて自分にとってなんの益もない、嫌なものでしかなくなるよね。

 

(私、以下母)

「人間関係=ネガティブなもの」になっちゃってるってことかー。

 

(娘)

「人間関係に悩んでます」とか「人間関係めんどくさい」とか、大抵そういう語り口になってるでしょ。

だけど、人間関係ってそれだけじゃなくて、他の人と人と繋がり方、ポジティブな人間関係はいっぱいある。

でも、こういうシステムの中で隙間なく年を重ねていくうちに、だんだん人間関係のポジティブな側面に気づきにくくなっていくのかもしれない。

私も人と関わり合いになりたくないなんてしょっちゅうだけど、でも自分は他者がいないと生きられないって切実に思う。自分は一人では何もできない存在だから。

 

(母)

今って「人は一人では生きられない」って言葉がすごく空虚に響く時代だよね。

きれいごとっぽく響く。

頭では分かっていても、体感としてどうも切実にそうは思えない。

「一人で生きていける」って感覚を持っている人は相当多いと思う。自分も含め。

家から一歩も出ずに生きながらえることができてしまう世の中だからさ。

 

でも娘氏は一人では生きられないって切実に思えるんだね。

どんな時に他者がいないと困るって思うの?

 

(娘)

ごはん食べてる時。

牛乳飲んでる時。

どこかの遠い地で、まず牛乳を生み出した生物がいて、それを人間が囲って、牛乳を瓶詰めするなどして、それを運ぶ人がいて、それをまた別の人に渡して運ぶ人がいて、それを並べる人がいて、それをお母さんが手に取って買って、そうやってようやく辿り着いたものを私は飲んでるだけなんだけど。

いろんなことが全部そうじゃん。

誰かがいなかったら成立しない。

考えたら辛い気持ちにもなるんだよ。

その人たちの労働によって自分が生かされている。

その人たちの労働が権力者をよりのさばらせてこの現状を維持させている。

その人たちの労働環境がいいとも思わないし、生物に対して人間が傲慢に振る舞うこともいいことだとは思わない。牛乳はおいしいけどさ。

 

何ひとつ自分一人ではできない。

それは精神的な面でもそうでさ。自分だけで自分を立て直すことは大抵できない。

パパとママと話したり、音楽を聴いたり、映画を見たり、何かしら人に触れて助けられている。

ただ、人の助けや親切に感謝を感じて、その記憶を大事に持っていられる人ばかりではなくて。

かつての自分がそうだけど、辛い経験は記憶を消すから、ポジティブな記憶も消えてしまいがちなんだよね。

でも、自分にとっての危機的な状況、ものすごく不快だった出来事、そういう記憶は生存に関わるから、選択的に強烈に刻まれる。

そういうことが積み重なっていくと、「人に助けられている」というよりは、「人に苦しめられている」と感じるようになると思う。

 

そもそも私が「人間関係=学校での友達や先生とのやりとり」という感じじゃなくなって、自分が親切な人に囲まれ、温かい人間関係に恵まれていると感じられるようになったのは、学校というシステムを抜けたからってことは大きい。

 

だから、学校に行っている友達と喋っているとすごい壁を感じる。

籠の中にいる人と喋っているみたいな感じがする。

それだけじゃないよ、こういう人間関係もあるよ、出ておいでよ、って言ってみても、「何言ってんの、ここから出られるわけがないじゃん、大変なことになるんだよ?そんなの当たり前のことでしょう」って絶対に出てこない。

 

(母)

なーるほどなあー。

一杯の牛乳を飲んでそこに思いを馳せられるようになったのは、パーマカルチャーでファームステイしてたことも影響してると思う?

 

(娘)

そだね、(ソーヤー)海さん、いちいち「そのエネルギーどこから来てると思うの」ってところから始まるからね。怖いんだよー(笑)

私はなんの自覚もなくこのエネルギーを享受していました〜!ってなったよね。

豆塚エリさんの本(「しにたい気持ちが消えるまで」)を読んだことも大きかった。

「あなたのその服は誰が作ったのか。自分で何を作り出してきたのか」って問われるような文章に出会った時に、「え、やば、自分何ひとつ作ってない」ってなって。

「買う」とか「家族に養育されてる状態」を「自分で生きてる」って思ってたけど、何も自分でやってなくない?って。

ただただ既存のシステムに乗っかっているだけ。

 

もちろん私も食事するたび毎回毎回そんなことに思いを馳せてるわけじゃないんだけど。

ひとりの限界というか、そういう風に思うようになったのは、(不登校の時期に)自分で動けなくなったっていうのも大きいと思う。

ベッドから体が動かないとか、人との約束が守れないとか。

今まである程度自分にはパワーがあるって思ってた、自分の生活を自分でコントロールできるって。

そのコントロールが乱れたからこそ、「これまで自分は何によって動かされてたんだろう」とか、「今、自分は何によって動かされているんだろう」といった視点が出てきたというか。

 

(母)

やっぱり「人は一人では生きられない」という実感を得るためには、弱者性の獲得みたいなものが必要になってくるということなのかな。

そういうものがないと、

 

(娘)

麻生太郎みたいな感じ?

 

(母)

ねー。だってあの歳まで何の弱者性も持たずに生きることが果たして可能なのかなって逆に思うんだよね。

誰だって生きてりゃ色々あるでしょう、って思うもの。

 

(娘)

弱者性よりも強者性の方が強いってことなんじゃないの。

自分の一言で人が動く、結果が変わる。

自分の言ったことを押し通せる。

それも国みたいな単位で。

 

(母)

ホリエモンみたいな人もいるよね。

数年でまた傲慢な人に戻っちゃったみたいな。

人間は忘れる生き物だからってことなのかな。

 

(娘)

私も記憶力悪いのは同じだけど、だからこそ書いたり音声で残している。

それを時々読み返すと思う。

2年前の自分の文章は、今の自分には書けない。

こういう言葉は、今の自分からは出てこない。

その時の自分しか持ってないものがあるんだよね。

その時はもう、手放したくて手放したくて、しょうがなくてアウトプットしたものなんだけど。

もう忘れてるわけ。

忘れてるし、身体的な記憶もなくなってきてる。その残された文章がなかったら。

読んで初めて、それが今の自分にはないってことを認識できる。

脆いよね。

 

幼少期からティーンエイジャーにかけての記憶って身体に刻まれる部分てあると思うんだよね。

写真の榊先生も「どうしてもあの時期見たものはのちのちまで響いてくる、それはもうどうしようもない。それがその人の人生のテーマになったり、繰り返し十代のことを描いていくということが多くの人にあると思う」って言ってたし、新海(誠)監督も「自分は全部十代の記憶で作品を描いてる」って言ってたし。

 

十代の頃は誰にも弱者性ってある、誰でもその期間に何がしかの無力感を感じている。心のどこかで。それはすごい大きいことだと思う。

 

(母)

強者性の加害性もある一方で、今人を殺しているのは、むしろ「人を雑に扱う」ということから起こっているのではないかという思いがある。

権力勾配とは違う、雑さって、忙しさや余裕のなさから生じる加害性なのかな。

 

(娘)

私は以前に比べたら今はだいぶ忙しくなってるとはいえ、まだまだ余裕はある方だと思うけど、「あ、雑に扱っちゃった」と思う時あるよ。

約束を忘れた時、返信が遅くなった時、相手の気持ちを考えなかった時。

自分に相手がどういうことを問うているのかを考えなくて、「あ、やば、返信しなきゃ」ってばばばって書いて、よしっこれでいいだろう、みたいな。

相手と会いたくて約束したはずなのに、いつの間にか、相手がタスクになっている。

そうなった時は雑にしたって思う。

人間を数字にするみたいな感じで。

「通知」って、人間を数字にしてしまうよね。

人は数字になりやすい。