みずうみ2023

暮らしの中で出会った言葉や考えの記録

母になる

近所の直売所で無農薬の菊芋を一袋100円でゲットできたので、昨日は大量にポタージュを作った。

冷蔵庫の色んな残り野菜(玉ねぎ、蕪、人参、椎茸など)も適当にどんどん刻んで入れて、煮込んでブレンダーでペースト状にして、豆乳でほど良い感じにのばす。

塩だけと思えないくらいに美味しくなった。

菊芋は、ポタージュにするとごぼうのような独特の土くささが何とも滋味深く、とてもおすすめ。

タンドリーチキンを仕込んでいたが、肉好きな夫は出張でいないし、娘氏が最近働き始めたパン屋さんから素晴らしく美味しいパンを持ち帰ってくれるので、パンとスープだけですっかり満足してしまって、チキンは冷蔵庫に置いたまま。

 

昨夜は末っ子に邪魔をされながらも、娘氏と二人でゆっくり、のびのびと話せた。

最近の娘氏は、どんどん経験を積み、話す毎に思索を深めていると感じる。

もちろんセブンティーン!だから、それなりの視野の狭さも、何かと白黒決めつけがちなところもあるとは思う。

でも世慣れていない分、本質的な深いところにすっと至る思考には、いつもはっとするようなきらめきがあって、心に沁みる。

情けないみたいだけれど、私にはもうあんまり教えてあげられることはないみたい。

むしろ、色んな悩み相談や素朴な質問なんかをどんどん投げて、返って来る答えにいちいち感服してしまうみたいなことも最近は多くて。

ずっと夫が私のメンターだったなあと思うし、今もそういう関係性ではあるけれど、娘氏の頼りになる率が近年密かに相当高まっている。

というか、夫の難しい部分を、私よりだいぶ賢く、彼の要素を多分に引き継いでいる娘氏が噛み砕いて話してくれるので、二人と違って何かと想像が及ばない私は本当に助かっている。

 

私は結婚をしてもう20年になるけれど、夫のことで色々真に受けて傷ついてしまう。

結婚当初からずっと、夫との関係性を確かなもののように感じていない。

何かの折に夫が私のことを「妻です」と誰かに紹介などしたら、内心(おお、妻!だって!)と驚くような嬉しいような不思議な思いになる。

結婚をしている友達や妹の話を聞いていると、どうも皆はそうでもないみたいで、夫婦の関係に安心して、すっかり慣れきっているように見える。

自分の不安について話すと「なんでそんな取り越し苦労をするのか」みたいに大抵呆れられる。

 

私は、自分が彼を幸せにできてないと思うと、とても辛くなるし、自分のせいのように思う。

もちろん私は彼にとって優先度が高い存在で、軽んじられているとは決して思わない、いつもしっかりと向き合ってくれると感じている。

だけど、彼といると時々、自分がひどくお荷物で、浪費していて、人間的に軽薄なつまらない、迷惑をかけているばかりな存在のように感じられてしまう。

基本的に、彼は社会の諸々に関して「ちゃんとしている」、私は「ちゃんとしていない」という感覚がある。

てか、ちゃんとってなんだよ。

ともかく、自分は基本は夫をずっと好ましく大事に思っているけれど、同時に彼といると自分が至らないみそっかすだと感じる、そういう感覚の中でずっと夫婦をやっている。

書いてひとごとのように眺めてみると、これって多分、モラハラの範疇って言われるのかもしれないな〜と思う。

これまで特に誰にも言わずに来たのだけど、最近なりゆきで、二人の人に「自分が夫にあんまり好かれていないように感じていて辛い」と打ち明けた。

自分としてはとても言いづらい、思い切った告白という感じであった。

で、二人ともから「なーんか、かわいいね♪」みたいな返しをされて、え、そうなのか?と思っていた。

 

昨日娘氏になんとなく話したとき、それはそもそも夫自身の問題なんだということが、ようやく腑に落ちた気がしたし、二人がなんでかわいいねと言ったのかもなんとなく分かった。

たしかに客観的に、好かれてるとか好かれてないとか、今更感でしかないわね・・・。

夫は、表向き克服したように見せているけれど、彼の複雑な家庭環境、親との関係、とりわけ精神を病んだ母の存在が彼に生涯影響を与え続ける歪みについて、娘氏は改めて考えるきっかけをくれたと思う。

そして、世の多くの男性が抱える強くしっかりあらねばならないという呪いを彼もまた抱えているのだろう。

さらに私との関係性が対等なパートナーシップではないことで、彼はより背負っているんだろう。

ただしここは考えどころで、私は実際に頼りない人ではあるんだけど、一方で「自分は彼によって無力化されている」と感じる部分がある。

だから、彼自身の抱える何かが私たちの関係性をそうさせているという風に見るべきなのかなあという直観がある。

 

つまるところ、多分、私が彼にとっての母になればいいんだろう。

自分の目から見て絆の深い夫婦ってかなりの割合で母と息子だし、人間的に大きいなあと感じる女たちって、人生のある時点で(象徴的な意味での)「母」になっていくと感じる。

彼女たちは、自分まるごと「母」という存在になり、母のように身近な人々から頼られるということを受け入れているように感じられる。

そして私は、母になんてなりたくないってもがいている人間なのだと思う。

いつまでも性的な存在でありたいとかそういうことではなくって(多少はあるのかな)、多分、役割を負いたくないと足掻いている子供なのだろう。

めんどくせー、やりたかねー、って。

女はあまねく母として存在する。それが人類の理(ことわり)だとある人々は説く。

身体性の上で嫌が応にも産んだ時点で母になるという部分も、もちろん動物ゆえにあるんだろうけれど、「母性を生きる」とは、ある種の覚悟と諦観を含んだ心性なのかもしれない。

 

まあ、とりあえず、自分が母になることで夫を幸せにできるんなら、もう少し気を入れて母になってみることにしてみようかと思った次第。

自分のような者が気の持ちようでどれだけ出来るか知らないが。