みずうみ2023

暮らしの中で出会った言葉や考えの記録

しんどい冒険をはじめる

昨夜も喘息の具合が悪く、仕方なく吸入器の薬を使ってなんとか眠った。

5時前に末っ子に起こされ、暗がりで「絵本のなかへ帰る」(高村志保著)の続きを眠くなるまで読み進める。

素敵な本。息子が幼い頃に読んだ本が何冊も出てきてとても甘く懐かしい。

 

知らぬ間に再び眠っていて、普段滅多に見ないのに悪夢を見た。

直接の知り合いは誰も出てこない、なんだか支離滅裂な夢だった。

変な話で恐縮だが、思い出して書いてみる。

 

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何かのトークショーだか講演会みたいなところで、一番前のブロックではなく、通路を挟んだ次のブロックの最前列に私は座っている。

左側の壁から2人目で、隣にはどちらかというとひ弱で、頑迷そうな男性が俯き加減に座っている。

彼はすごく繊細で傷ついており、そして全てに腹を立てている。なんとも言えぬ近寄りがたいムードを醸している。

私はああ嫌だなあ怖い、と思いながら、ちょっと彼から体を離すみたいにして座っている。

反対側の隣には髪の長い、アイドルタレントみたいに分かりやすくきれいな若い女性が座っている。

その隣は、髪の短い中年女性、ちょっとよく思い出せない。

誰の講演かも、私のカメラアイには写っていない。

一通りの話が終わって、質疑応答みたいな時間があり、隣のタレント的な女性と登壇者とのハキハキとしたやりとりがある。

出来レースみたいなスムースさ。

その立て板に水のようなやり取りがなんかモヤモヤするしつまんねえと思いつつ、私はじっと俯いてそれを聞いている。

気がついたら、隣の女性も、その隣も、その隣も、みんな席を立って、私の右側のパイプ椅子はだいぶ遠くまでがらんと空席になっている。

ここはあらかじめ招待された人たちが座る席だったのだ、用が済んでさっさと彼らは去ったのだ。

そして自分は疎外された存在だ、私は好かれていない、と漠然と心細いような感覚で思う。

 

気付くとイベントは終わって、あっという間に会場の人が減っていく。

なぜかものすごいスピードで人がいなくなり、私と隣の男性が取り残される。

室内のはずなのに、とても変なことに、自分と隣の男性の傍らには自転車があって、それに乗って帰ることに決まっている。

 

私はもたもたしている。

隣の男性の自転車は、一番ぎゅうぎゅうに壁際に置かれているので、鍵を差し込んだり、自分の自転車にまたがったりする隙間がなくて、彼はそれにとても苛立って歯ぎしりするように唸ったりして怒っていて、とても怖い。

私は焦りながら自転車を後輪のリング型の鍵を開けて立ち去ろうとするのだけど、隣の男性がいきなりこちらに向き直り、無言で、でもものすごく怒って、全然目は合わせないまま、私の自転車を掴む。

彼は問答無用でリング型の鍵の金具を掴んでぐにーっと手で捻じ曲げてしまう。

私は心底驚き、恐怖を感じる。

この鍵を弁償してもらわなくては、絶対にこやつをこのまま帰すわけにはいかない、と私は思って、彼の首根っこの服の襟を必死で掴んで、会場の人に大声で助けを求める。

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そこで、夫に揺り起こされた。もうすぐ7時半だよと。

何この意味不明で後味の悪すぎる夢。

そして生理が始まっていた。ぐはあ。

ぐったりしながらリビングに降りていって、ソファでくつろいでいた娘氏に「滅多に夢を見ないのに、二度寝して悪夢見て、起きたら生理始まってた朝って結構さいあくじゃない?」と話しかける。

えーどんな夢?殺されそうになる系?と訊かれるも、上記の通りでその場では全く言語化ができず、皮肉な薄笑いを返すのみ。

「悪夢ってさ、『そのこと』に向かい合う心の準備ができた印なんだって以前信田(さよ子)せんせーが言っていたよ」

と娘氏らしい励ましの言葉をもらった。

 

私にとっての「そのこと」ってなんだろう。

この夢の全体のムードからは、疎外感、「他人は私を嫌っている」という感情、言葉の通じない分かり合えない頑迷な男性、そしてその男性は抑圧状態にある、理不尽で一方的な暴力(破壊)、「自分の弱さや無力さや手際の悪さゆえに甘んじて受けなければならないこと」への強い屈辱感や怒りといった要素がぶわっと浮かび上がってくる。

なんというネガティブさだろう。我ながらがっかりしてしまう。

 

しかし、なんかこうして改めて書き出してみると、私が全力で目を逸らしてきた要素たちそのものみたいな気がしてくる。

夢って不思議だ。

そして、私はそれらに挑むことになるのだろうか?

 

対話を始めることが、自分が辛さを伴いながら変わっていくことに繋がっていくだろうという強い予感がある。

だとしたら、やはりくぐり抜けるトンネルの中には、今朝の夢に象徴されるこうしたネガティブ要素が、怪物みたいに待ち構えているんだろうなと漠然と感じる。

どうにもしんどい冒険だなあ。億劫すぎる。

でもやらなくちゃいけない。

私は今こそ変わらなくっちゃいけない。

自分自身のまんまで生きたいと私が本当に望むなら。

そして私は、自分自身のまんまで生きることが、人が生きる上で一番納得性のあること、幸せなことだと確信している。

 

再びあの人のセッションを受けたことが、こういう展開に繋がってくるとは。

いささか呆然としている。

今はまだ細くて切れそうな頼りない糸。しっかり逃さぬよう掴んで自分にたぐり寄せていかなくちゃならない。

諦めて元の状態に戻ってしまうことは、あまりに簡単にできることだ。

でももう元の無力感に戻りたくはない。

このチャンスを逃したくはない。

 

いろんな本を読む自分にとって、素晴らしい言葉や思想を伝えてくれる人たちはたくさんいる。生きている人も、とうの昔に死んでしまった人も。

でも、私にとっての彼女の言葉の特別さとは、会って話した時には「なるほど、そんなもんかなあ」とするっと聞き流してしまっていたような平易な言葉が、何かのきっかけによって、時間差で迫力をもってぐっと立ち上がってくるところだ。

優しくて全く威圧的でも強制的でもないのだけど、ぼやかさずにしっかりと本質をついた具体的なことを、彼女はあの時、明確に伝えてくれていたのだ。

ということが、あるタイミングで時間差でがーん!と分かるのだ。

その才能を、こういう清らかな形で生かしている人が身近にいるのだということ自体が希望だ。

 

だから私は2ヶ月後とかにいきなり気がついてびっくりしておいおい泣いたりしている。

いろんなことがもう手遅れだと思っていたけれど、今、彼女に辿り着けてほんとうにラッキーだったなと思う。

平べったく言うと、救われた。

彼女の根気強い、嚙んで含めるように伝えてくれる優しさによって、なんとか大事なものをキャッチできた、そしてだんだんと受け取り始めている自分をひとまずよしよしと誉めてやりたい。

なんとか軌道に乗るまでしがみつく、頑張る。

この1ヶ月、自分のありようを変えていくことが心底めんどうだしきつい、でも胸の奥が静かに喜びに震えている。