みずうみ2023

暮らしの中で出会った言葉や考えの記録

「落下の解剖学」を見て考えたこと

 

2023年フランス/原題:Anatomy of a Fall/監督:ジュスティーヌ・トリエ/152分/2023年2月23日〜日本公開

いつも通りほぼ予備知識ゼロで見に行ったのだけど、何も知らなかったからこそ夫婦で見られたよねーと思うくらい、夫婦の怖い話であった。

でも、結果的に夫氏と一緒に見られて本当に良かった。

 

この映画について話したことが、期せずしてこれまでどーうしてもうまくいかなかった「夫婦間の(パートナーシップの)話」のささやかなブレイクスルーのきっかけになったから。

本作の脚本が監督の夫との共作であるために、男女双方の視点で書かれた脚本であることも大きいと思う。

 

通常の話し合いにおいて、本音で話せと言われても、いろんな要素が本音をそのままに語ることを阻害するものだ。

相手への気遣いや負い目、見栄やプライド、長年かけて培われた互いの関係性のバイアスに基づく客観性に欠けた感情、傷つきやコンプレックス。

いろんなものがその人の表現を屈曲させる。

夫婦や親子といった密接な間柄では、近いからこそ絶望的に難しかったりする。

 

それが、自分たちがまともに向き合うのではなく、映画の中の夫婦(ザンドラとヴィンセント)の方を眺めながら、あくまで映画の夫婦についてお互いの考えやアイデアをぽつぽつと語り合う中で、私たちの本音が自ずと浮かびあがってくる。そういうことがはからずも起こった。

加えて娘氏が、ニュートラルな部外者の目線で、夫と妻ははそれぞれこういう風に見えた、自分は彼らを見ていてこんなことを思った、と語る。

そんなやりとりを通じて、私はこれまでより少しは客観的に冷静に、夫婦とりわけ男性の置かれた立場や心情について考えてみることができた。

映画の中の夫婦が自分たちであって自分たちではないという絶妙な距離感だったからこそ、自分ごと感はありながらも、自分の正しさを証明したい思いや、相手の攻撃に対する防御的な気持ちから、少し離れて考えられたのかなと思う。

 

おそらく、夫氏はこれまでも屈曲しながらも彼なりに伝えようとしていたのだと思う。

私が自分の正当性に固執して見えなかった、受け取れなかっただけなんだろう。

 

 

この作品を作るにあたって、最も影響を与えた作品のひとつとして、監督のジュスティーヌ・トリエは、イングマール・ベルイマン「ある結婚の風景」を挙げている。

私はベルイマン版を見たことはないのだけど、HBOがジェシカ・チャスティンとオスカー・アイザック主演のリメイク(ハガイ・レヴィ監督)を昨年見ている。

端正な撮影と緻密な心理描写、微妙な心のせめぎ合いに圧倒されるすごい作品だったが、あまりにも救いがないというか、結婚どころか人間をやめたくなるような気持ちになって、相当ぐったりもした。

当時のレビューを読み返してみると、「ここにあるのは人間の真実だという実感はあるが、あたしにゃどう考えればいいか今のところさっぱり分かりません」と書いてある。

この作品を夫氏に勧める気にはとてもなれなかったし、ましてやこれについて夫婦で話し合うなんて、致命的すぎてありえないと思っていた。

 

今回「落下の解剖学」で、これと似た地獄を夫婦で並んで見せられて、でも今、私はあの時とは少し違う感覚を持っている。

自分にとってもっとも大きかったことのひとつは、ヴィンセントのような考え方をする男性は、ある種定型的な存在なんだ、彼らはこの社会の落とし子なんだと改めて腑に落ちたことだった。

 

つまり、モラハラのような言葉による攻撃から、DVのような身体的暴力から、アルコール依存症まで、人によって出方は違うが、

「自分(夫)が不幸なのはお前(妻)のせいだ」

「自分は自分の人生の時間を十全に自分らしく自由に使いたかった。そうすればもっともっといろんなことが達成できた。でも、家族や仕事や経済の責任を負わねばならない成人男性という立場では、自分を犠牲にするしかなかった。自分は犠牲者なんだ」

といったヴィンセントの台詞に象徴される家族への被害者意識や、

妻が自分よりも高い能力(金銭を稼ぐ能力や、世間に認められる才能)を発揮したり社会的地位を得ることに、夫が平常心ではいられないほどの劣等感や不安定さを感じること。

それらは、その人の性格や気の持ちようの問題ではないし、妻や家族のせいでもない。全く関係ないとは言わないが、おそらく本質はそこではない。

そして程度は違えど、こういう男性は珍しくはない。

こういう男性とは、語弊を恐れず言えば、「夫が妻から、広くは男性が女性から、当然与えられると思っているものが与えられない、得られない、もらえるべきものがもらえていない(ために自分の人生が不本意なのだ)と考え、相手女性へ怒りや憎しみの矛先が向かう」つまりミソジニーの思想を持つ男性、ということだ。

 

当然ミソジニーは改めるべき。表向きそういう認識で近代はアップデートを続けてきた。

でも、現実はもうすっかり過去のものになったとはいえない。相当先進的とされるEU諸国においてさえ。

女性の権利を広げるだけでは、本質的な部分は解決しないからだ。

どうして女性と公平な関係性になることがこれほど男性を不安定にさせるのか、ということに向き合わず、男性の傲慢と差別意識ゆえだと単純化してしまっている。

でも、そこにはもっと根深いものがあるはずなのだ。

本当はみんなそこに薄々気が付いている。

だからこそ、この映画がこれほど世界中で話題になっているのだと思う。

 

わが夫氏にも中年以降、ミソジニーの傾向がはっきりとあらわれてきていて、普段はそんなこと忘れたみたいに和やかに過ごしていても、口論になるとたびたびこのロジックで責め立てられるようになった。

私はここ数年ずっとそのことでいつも気持ちのどこかが塞いでいるような感覚だった。

でも、これは私が自分を責めて悩んで解決する案件ではなくって(自分なりに一所懸命考える必要はもちろんある)、社会構造込みで考えなければいけないことなんだなと今改めて思っている。

当然、妻である私にも、生い立ちから社会構造までいろんなものにさらされたゆえの歪みが大いにあって、だから割れ鍋に綴じ蓋でしかなく。

そんな不完全な二人が助け合い許しあってなんとかやっていくしかないよね、という気持ち。

 

 

話戻るが、そもそもヴィンセントは、妻とフェアな状態を「自分だけが過分に譲歩した不本意な状態」と認識している。

さらにザンドラが小説家として社会的に成功を収めていて、自分はずっと書けていないことで、激しい劣等感や嫉妬にさいなまれ、常に怒りを抱えた不機嫌な状態にある。

だから、この夫婦でフェアネスという正しさをいくら戦わせたところで、どこにも行けない。

夫婦が公平であること自体が、夫にとっては不公平なのだから。

 

ザンドラが「こうすれば公平だということで話し合って決めたことでしょう」「私もこんなに譲歩をしているじゃない」といくら主張してみても、彼女の負担や譲歩はヴィンセントの中で面白いほど透明化している。

夫には、妻の負担や譲歩をまともに認識しようとする気さえない。

それは「あまりに当然のこと」だからだ。

なぜなら彼女は妻であり母だから。

なぜかヴィンセント的価値観の前では、妻や母は、自分と同じ人間ではなくなってしまう。

自分自身の辛さと被収奪感、妻への嫉妬と劣等感だけが彼の中で巨大な雪だるまみたいに膨れ上がり、被害者意識のかたまりになっている。

 

この作品のハイライトである、夫が死亡する前日の夫婦の激しいいさかいのシーンを見ると、多くの人が妻に同情するだろう。

私もそうだった。

ザンドラは極力落ち着いて、もっともな反論をして、夫を何とか優しい言葉でなだめようとしている。

それに対して、夫は全く聞く耳を持たず、わめき散らして激昂する。

幼稚でひがんでいて、惨めでみっともない男そのものみたいに。

 

そんな夫婦のやり取りについて、夫氏は

「正しいことを言うことがどれほどのものか」

と言った。そして、

「自分が情けない男だということは、彼自身が一番よく分かっている。

ヴィンセントがこうなるにはなるなりの理由や蓄積があったはず。

妻は直接には夫を殺していないのかもしれない。

でも、長い時間をかけて、ある意味においては殺したんだ」と言った。

 

娘氏は「ヴィンセントは、激しい言葉で妻を責め立てている。

でも私には『苦しい』『助けて』って言っているようにしか聞こえなかった」

と言った。

 

私はそれらを聞いて、しばらくの間、言葉がなかった。

 

私も夫氏とけんかになると言葉は違えどお前のせいだと責められるので、映画の中のザンドラみたいに、自分ができてないことや自分の不幸がなぜ私のせいになるの、と反論してきた。

あなたが大変じゃないとは言わない、でもどうして「お互いに大変だよね」にはならないんだろう?

どうして私がやることは「別にいい」の箱に簡単に入れられて、その大変さや気持ちは無視できてしまうんだろう?

妻や母である前に、同じ人間なのに。

普段の生活の中で、夫はいつも親身になってくれ、尊重してくれていると確かに思うのに、言い合いになると当たり前みたいに人として軽んじてくるので、「本音ではこんなことを思ってたんだ」といつも悲しかった。

 

でも娘氏の意見を聞いて、少数の強者男性以外の多くの男性が、程度の差こそあれ、生きづらさを抱えて「苦しい、助けて」って言いたいような状況にあることをふと思った時。

「お前のせいだ」という言葉を額面通りに受け取るべきではなかったのかもしれない、

それが何を意味しているかをもっと考えるべきだったかもしれない、という思いがわきあがってきた。

 

だって普通に考えて、ヴィンセントのような不自然で矛盾だらけのロジックをおかしいと思えないことがおかしい。

一般的に、明らかな矛盾や突飛な言い分を、当人が全くおかしいと気付いていない時、その人の内面でなんらかの理由で表現が屈曲してしまっているということが少なからず起こっている。

通常のコミュニケーションから飛躍してまで、触れられたくないものがそこにはあるということだ。

男たちにとって、それはなんなのだろう。

 

 

ずっと女たちは苦しかった。でも男たちも苦しい。どちらも紛れもない真実。

今の状況、夫婦やあらゆるパートナーシップや性犯罪に至るまで、ジェンダーの問題を本当に良く変えたいと思うなら、女性や少数側の正しさからのアプローチだけでは難しい。

今、女性の公平を求めるあまりに、男性の生きづらさを無視してはいけない。そんなものは取るに足らないと矮小化してはいけない。

だってそれは確かにそこに在る痛みなのだから。

 

そして思い返す。

夫氏はヴィンセントを「彼は自分が情けない男だと自分が一番分かっている」と言った。

でも、私はあの男性(が置かれた状況)を別に情けないとは思わなかった。

だけど夫氏にとっては、彼が情けなさに苦しみながら生きていることは、あまりに自明のことみたいだった。

 

もちろん私は自分の夫のことも情けないとは思っていない。ほんとうに。

でも、彼は自分のことを不甲斐ないと思っている。

言葉の端々で、そういう思いを持っているんだろうなと感じることがある。

そんなことを思う必要なんてないのに。全然ないのに。

でも、私がいくら言葉でそう言っても、彼には届かないのだ。

この社会は「資本主義の勝者でない者は惨めな負け犬だ」と男たちを苛んでいる。

 

 

鑑賞後の話し合いで思ったことに終始して、映画の感想とは程遠いものになってしまった・・・。

でも、ヴィンセントという男性をどう捉えるかがこの作品の肝だとは思う。

この作品は、法廷ミステリー仕立てで、ストーリー自体もスリリングに面白く作られているが、その枠組みを使ってやっていることとは「一組の男女の関係性を解剖する」ことである。