みずうみ2023

暮らしの中で出会った言葉や考えの記録

失敗から学ぶ

昨日は娘氏のやっている居場所で、年末企画として対話の場を開いたが、あまりに進行が下手すぎて、終わった後はしょんぼり自己嫌悪に陥ってしまった。

 

やってみたいんですよね、というつぶやきから、「じゃあ、やりましょう!」と突然引っ張り上げてもらってしまい、場を作ってもらって「対話のひと」の活動があれよあれよという間に始まってしまったわけだけれど、まずは自分がどんだけへなちょこであるかを噛み締めるいい機会になった。

別段スキルがあるわけでも才能があるわけでもない。小学生から中年まで、年代も考え方もばっらばらな生身の人たちを前に、どう振る舞えばいいかが自分の中でうまく定まらなかった。

交通整理もできなかったし、より深く潜る呼び水にもなれなかった。

沈黙がつきものの哲学対話で、あの場で一番沈黙を気まずく感じて焦ってしまっていたのは私だったんじゃないだろうか。

もっと学ばなければ、と思ったことだった。

 

娘氏からのアドバイスでとてもためになったのは「対話では、ファシリテーターは肯定の相づちをしなくていい。何かを肯定することは、誰かを孤立させたり否定することになるから」というもの。

子育てでの幼い子供への接し方に端を発している気もするが、私は普段から相手をエンパワメントしたいし、安心してもらいたいという思いから、ほめるような肯定の相づちをわりに良かれと思ってしてきたくちである。

でも、一対一の会話ではなく、複数の人がいる場で、特定の人に感心したり共感したりすると、その意見に加勢していたずらに特定の考えを強めることになってしまう。

それとは違った意見を持った人が居心地悪くなってしまう。

違う意見でも全然いいんですよ、といくら言葉で言ったところで、誰かを肯定すれば他の誰かは自動的に否定されてしまう。

パワーバランスが崩れ、公平性が失われる。

そこは誰もが安全に語れる場とはもはや言えない。

そんな基本的なことにも無自覚だった自分の未熟さが恥ずかしい。

 

参加者のひとりの女子高校生が途中参加だったこともあり、ディベート的にばちーんと言い切ってしまったり、小学生男子がひろゆき味を出して妙なマウントを取ってきたり、全く動じずJKとは5倍ぐらい流れる空気がゆっくりの大物感ある不登校15歳がいたり、更に常識感覚強めでソツない感じの40代男性、生き生き話しまくりの50代女性、哲学者風味で妙にシリアスな娘氏。なんか笑けるくらいばらばらだった。

 

夫氏に「こんなんだったよ、収拾付かなくって、ぎこちないままで私全然だめだったんだー」と報告をすると、「いいじゃない!」と夫。

「うわーまじ?全然考え違うんだけど、みたいな人が集まってぎくしゃくするのが対話の醍醐味でしょう。それでこそやった甲斐があるんじゃない?逆に、とってもいい対話になった、いい時間だったって満足してるようなのはうさんくさく思うよね」

とのことだった。

 

なんか、そう言われると救われる。

たしかに、万全に準備をして、逸脱なく和やかにまとまるのが良い対話か?というと、多分違う。

それよりは、不格好でも軋轢や食い違いがその場に可視化されること。

普段、波風立たぬよう隠されている、でも「あるものはある」ということが、そのままに提示されること。

予定調和で終わるよりは、そのほうがわざわざ対話の場をしつらえるだけの意味があるのかなあとは思う。

じゃあ、まあ、あれでも良かったのかあ。

あのムズムズする時間が、考えるきっかけ、違うということを感じるきっかけになり、それぞれなりの何かを持ち帰ってもらえたのだとしたら。

 

普通、調和や平和や笑顔があることが良きこととされる。

でも、対話の場合、それは必ずしも良きことではない。

通常、失敗とされるネガティブな反応が逆に値打ちになったりするのだ。

私やその場の誰かの言動の不器用さや、自分では恥ずかしいと思ってしまうような要素がむしろ、誰かの気付きや新たな思考につながっていく。

なんか自虐的だし、今後も対話をする限り、気まずさや恥ずかしさに耐えていくってことか。

何を好きこのんで、マゾですか?とも思うが、その価値観の逆転味たるや、ある意味無敵だなとも思う。

 

各々違う考えを持った他者と、当たり障りのないことを超えて、思っていることを本当に話すということは、難しく怖いことなのだ、当然。

それを、どう面白みとしてその場にいる人たちが共有できるか。

簡単ではないけど、取り組みがいのあることだと思う。

 

そして、夫氏からはもう一つとてもためになるアドバイスをもらった。

以前、アメリカの犯罪現場で活躍するプロのネゴシエーター(立てこもり犯を説得したりする人)が言ってたらしいのだが、

相手の言ったことに「あなたが言っているのはこういうことですか」と聞き返すということが、考えや言葉の通じにくい相手とのコミュニケーションにおいては、極めて有効にはたらく、という。

共感や肯定ではなく、あなたが言った言葉を、歪曲せず、間違えず、正しく受け取っていますよ、ということを、「聞き返し」によって示す。

聞き返しを適切に挟むことで、犯人は納得するし、落ち着くそうだ。

 

それって犯人に限らず誰でもそうだよね、と夫氏。

3歳の末っ子だってそうだもの。

彼はまだまだ訳の分からない日本語で、日々一所懸命何かを訴えてくるんだけど、生返事では納得せず、壊れたレコーダーみたいに、何度でも繰り返し訴えてくる。

でも、彼の言葉をおうむ返ししてやると、わりとすっと落ち着く。

そういうことを私たちは経験的に知っていて、日常的にやっている訳だが、それを対話の場でも共感や肯定のリアクションの代わりに取り入れてみるといいんじゃない、と。

 

聞き返しはオープンダイアローグでも紹介されていたことで、頭では分かっていたけれど、全然身に付いていなかった。

自分の下手さにしょんぼりしていたが、失敗したことで色々考え、良いアドバイスを家族からもらえて学べたから、良かったな。わりとすっと持ち直せそう。

 

明日は、忘年会!

一品持ち寄り・一芸披露という趣向で、最初はギャラリーのつもりだったが、勇気を出して、娘氏(ボーカルとハモニカ)私(ウクレレとハモり)でハンバートハンバートを一曲やることに。

ここ一週間二人で練習するのが楽しい〜。

何をやってもへたっぴだが、恥ずかしいを乗り越える経験って、自分のことを好きになれる近道な気がする。

 

明日が終わったら、2023年もおしまい、というかんじだな。