みずうみ2023

暮らしの中で出会った言葉や考えの記録

きぼうのまち

ほうぼく(抱樸)の「きぼうのまちプロジェクト」のクラウドファンディングがあと6日になった。

抱樸 活動35年"ひとりにしない"支援の集大成「希望のまち」(認定NPO法人抱樸ーほうぼく 2023/10/04 公開) - クラウドファンディング READYFOR

 

3億円目標で、今2億8000万円まできている。

すごいすごい、あと少し。

我が家も少ない額だけど寄付をした。

 

奥田知志さん率いる抱樸の活動は、自己責任の蔓延するこの国における数少ないワンストップの力強いセーフティネットであり、その名の通り希望の存在だと思う。

彼らが存在していて、元気で活動してくれているということを時々見ては、ああまだ捨てたものではないと励まされている。

「きぼうのまち」は北九州のことだけにとどまらない。

これが実現したら、きっと他の地域にも広がっていく。

 

こんなの、本来は税金で作るべきもの。

国立科学博物館もそうだけど、なぜこれがクラファンなのですか?としか言いようがない。

この国の政府は、武器やしょぼい万博や誰も必要としていないマイナンバーカードやゴミみたいな布マスクには、何百億、何兆円もつぎ込んでいる。

本来国がやるべき仕事を放棄しているから、やむにやまれず公共の福祉を肩代わりしてくれている彼らが、今必死に集めている寄付金は、3億円。

自民党にしたら、たったの3億って感覚だろう。

あまりにおかしすぎるだろって普通に思う。

 

 

マヒトさんが抱樸に寄せたメッセージを読んだ。

どんな世界を生きたいか。

「きぼうのまち」がある世界とない世界、どっちがいいのか。

あったほうがいい、というか、あってもらわないと困る。

今のままじゃあまりに寄る辺なさすぎる。

 

苦しい時代を生きている。

 

人を殺すのに理由をつけ、その理由にカタルシスを感じた輩が暴徒と化し理由を倍速で加速させる。人が当然持っているべき尊厳を平気で奪う戦争は、海の向こうの遠くで起こっているという理由で視線を合わすこともなく、目の前の暮らしに埋没する。

 

仕方がない。

 

生きることで精一杯だもの。わたしの暮らしがただあることにささやかな感謝をしながら目をつむり、耳を塞ぎ、口を閉じよう?誰もこの沈黙に文句なんて言わないさ。だから息を潜めて過ぎ去るのを待てばいい。そんな歪んだ卑しい心が自分の中には確かにある。きっとあなたの心の中にも目を凝らしてみれば、そんな因子がカビのようにこびりついていることに気づくはずだ。

 

そんな世界を当たり前と呼ぶ冷たい世界の中で、希望について考えている人たちがいる。想像することを今一度喚起させる集団がある。希望が「まち」をつくっていく過程がわたしたちに横たわる。こんな奇跡みたい時間が目の前を通過していくことを、風が過ぎ去るのを待つが如く無視するのか?この痛みを引き受けた抱撲の姿に何も感じなくていいのだろうか?

 

別に選べない人を責めたりをするつもりはない。心と呼ばれる場所が自分のことでいっぱいになる時、何も感情が湧いてこないなんて体験は例外なく自分の中にもある。愛がいかに余白の中からしか生まれないか、その軽薄さに真夜中、肩を叩かれ問いかけられることがある。

 

でもこのままでいいだなんて思わないし、わたしは希望がある世界で生きていたいと思う。仕方ないとかそんなもんだとか、そういう言い訳じみた弁明には飽き飽きしている。とてもとてもシンプルなこと。こんな動きをしている抱撲が倒れるような世の中が正しいとは思えない。

 

そう、だからとても簡単なことを最後に問う。

 

あなたはどんな世界を生きていたい?

(マヒトゥ・ザ・ピーポー(GEZAN)寄稿文より引用)

 

人間は、誰もが老い、病み、死ぬ。

ほぼ全員が、どこかのタイミングで福祉を必要とする。

だから、オードリー・タンが言ったように、社会は、一番弱く貧しく困った者を基準に考えるべきなのだ、他ならぬ自分のためにも。

誹謗中傷している場合じゃない。

明日は我が身なのだから。