昨日の朝食の時、件の豪快さんについての今の自分の考え(前記事に書いたようなこと)を家人につらつら話す中で、やはり彼女は全くノープロブレムだとも言い切れないかもなあ〜と思い直したことだった。
有限なひとりの人生において、人それぞれキャパシティーに応じた優先順位があり、その中で自分にとって納得性のあるように暮らしをデザインしていくのが大事だというのはもちろんそう。
でも家人は「そもそも自分は人と守れないかもしれないような安易な約束をしない。また〇〇しましょう的な社交辞令も極力言いたくない。他人に何かを期待させて嫌な思いにさせたくない。自分は、約束を果たせなかったことはいつまでも忘れられないから、申し訳なかったなあと思い出し続けるのも嫌だから」と言っていた。
できない約束はそもそもしないか、他人を振り回さないよう思いやることは、やっぱり自分だったら確かにそうするなと思う。
私は例によって「他人に期待をする自分を改めなくっちゃ」とすぐ自責的に考える癖があるんだけど、「他人に期待させるような言動をする」という加害性もあるよな、と思い当たった。
そして私も安易に社交辞令ぽい言葉が口をついてしまうことはあるんだけど、調子がいいというのは考えものだなと反省した。
豪快さんを皆笑って許してるから、それで成立してるようにあの時私には見えたんだけど、
「皆、彼女が言うことは、全部話半分で聞いているってことでしょう。そういう関係性ってさびしいなと自分は思うけどね」と家人は言っていた。
そして「全員に対してそういう対応だったら、誰からも信頼してもらえないだろうけど、彼女は押さえるところはきちんと押さえているはずで、だから楽しく暮らせているんだろうね」と言っていた。
加齢とともに、ますます無理がきかなくなってきている。
だから、社会や他人の要請にいちいち答えるようなヒマもないし、義理もないと年々開き直る一方である。
そういう意味では、豪快さんはとってもお手本。
でも「自分の特性をよく分かって、無理がないよう対策・工夫する」ということは、他人だけでなく自分に誠実に生きる上でも大事なことだなあと思ったことだった。
ふむ。
さて、ささっとラーメンを食べてから、外出だ。