みずうみ2023

暮らしの中で出会った言葉や考えの記録

「ペトルーニャに祝福を」

毎年のことながら、確定申告が完了するまでは、経理のことがずっと頭の上にずーんと灰色の雲みたいにのしかかっている日々である。

ブログも当分は断片的で短いものになると思う。

 

お金の計算をすることが苦にならないように慣れるようにとあれこれ工夫してみたけれど、やっぱ無理。私は数字のことは、一生人並みにはなれないままだと思う。

基本、人は得意に磨きをかけることだけに集中した方が良い。

でも、苦手なことでもやらないとしょうがないことが人生にはある。

自分のポンコツさや「これくらい普通」とされてることの出来なさと向かい合うことの良さは、苦手への必死の努力は小さいことでも大きな達成感が得られることと、他者へのリスペクトや感謝の念を深くすることだなあと思う。

 

自分が苦もなくできていることって、自分にとってはあまりに当たり前のことだから、なかなか自覚ができないし、自分をいちいち誉めたりもしないし、それが出来ることへの喜びも薄く、何ならさらなる高みを勝手に設定して、不足してるところを探そうとさえしてしまう。

これってかなり傲慢な心だよなあ。改めて考えると嫌気が差す。きりがないし。

みそっかす状態を自覚して無心に努力している状態は、謙虚で配慮的な心もち。

で、習熟を目指して頑張るのだが、いざ習熟すると加害性を帯びてきたりする落とし穴もあったりして、やはり人間たあ・・・ヨルゴス師匠の言う通りなものである。

 

ま、つべこべ言ってないで、毎日こつこつやってくだけだ。

 

ペトルーニャに祝福を」

2019年北マケドニア・ベルギー・スロベニアクロアチア・フランス合作/原題:Gospod postoi, imeto i’ e Petrunija/監督:テオナ・ストゥルガル・ミテフスカ/100分

マケドニア映画を見たのは初めてだったけれど、かなり好きだった。

この作品の良さは、人物造形が複雑で見事ということに尽きると思う。

脇役に至るまで、ステレオタイプに安易に断ずることのできるような人物が誰も出てこない。

それぞれの人間がただ生きて醸している迫力みたいなものがある。

だから、どのような型にもはまらない映画になっている。

一見地味な映画なのに、人と人とのやりとりがとてもスリリングで、先がどうなるのか釘付けになる。

古い因習や男女差別を描いていても、フェミニズム映画って感じでもない。

社会正義や貧困を描いていても、社会問題の映画って感じでもない。

いろんないろんな要素が絡み合ってマケドニアっていう国の今のありさまがあって、そこで生きる人々の自尊心の低さや何とも言えないホープレスな感じが結果として立ち現れている。

そして、そこには自分ごとに通じる普遍性が明確に感じられる。

その絡まり合った毛糸玉みたいな現実を、うーーーむと唸りながらただ眺め、そんなしんどい現実の中で自分の尊厳を守り通したペトルーニャを心丈夫に感じた。

同時に、人が誇りを貫くのはいつだってこんなにも命がけのことにならざるを得ないという現実を思う。

それは誇りと勇気を貫けなかった者たちが「お前も理不尽に従え、共に泥に漬かれ、自分が目を背けたり踏みつけられている現実に気づかせるな」と、それなりに命がけで口を塞ごうとし、足を引っ張ってくるからだ。

 

自分の尊厳を守るには、どんなに気弱でも戦いたくなくても、尊厳が侵害された時には言うべきことやノーをきっぱりと言う必要がある。

「哀れなるものたち」のベラもそうだったけれど、いざという時の勇気がその人の真価に直結する。

でも、勇気は瞬発力では発動しない。

蓄えられた怒りや思索や悲しみ、自分がどうありたいかを日頃から自分に刻んでいる、そういう土台がかなりしっかりとしてないと、おそらく発動しない。

多分、毎日をしっかり生きることでしか勇気は生まれてこない。