「本が語ること、語らせること」
「その道の向こうに」
今年は、気持ちを静かに保ち、ささやかなヴォイスに耳を澄ませる一年にしたい。
大声や威圧や想像力に欠けた無粋な語りは、もうたくさん。
傷つき怯え、自信のなさを抱え、本来なら表舞台には上がらなかったような人たちのおずおずとした語りには、合理的で自信満々な語りのような華麗なレトリックや、スムースさや明快な断定はない。
弱々しく、煮え切らないかもしれないけれど、自分を安全な高みに置かず、つかえつつ思索しながら話すような、誰かを思いやりながら言葉を慎重に探すような、謙虚さと緩やかさと優しさをもつ。
その場しのぎのいい加減なことを言わない誠実さは、今の世の中ではとても貴重に思える。
私が近年、弱く控えめな語りにより魅かれるようになったのは、もうノリやスマートさや映え(ばえ)みたいなものが心底どうでもよいし、不器用さやもどかしさを乗り越えて相手の話をじっくりと聞く構えが、以前よりは多少備わってきたせいもあるかもしれない、だとしたら嬉しい。
もちろん、時代の様相を切り離すことはできない。
近年の世界の映像作品の潮流として「Invisible people(見えざる人々)」は欠かせない重要なテーマで、「その道の向こうに」もそういう映画。
寡黙な女性帰還兵リンジーを、ジェニファー・ローレンスが演じている。
アメリカ社会がどのようにリンジーのような貧しい若者たちを社会的に幅寄せするようにして戦争に取り込むのか。
戦場では、替えのきく部品のように兵士を次々送り込んではいとも簡単に人間が壊され、なんとか生き残って帰っても、深い傷つきと恐怖を抱えた状態から、再び自分の人生を立て直していくことがいかに困難で時間のかかることか、希望を見いだすことがいかに難しいのか。
そんな彼女の孤独な道のりと彼女を救うことになるささやかな友情のさまが抑制的に描かれていた。
「本が語ること 語らせること」の著者は、厳しく早い日本社会の価値観に適応できなくて、心を病んで一般社会から降り、奈良の山奥で夫婦で私設図書館を始めたという人。
自分を売り込むようなタイプでは全くなく、夫の青木真兵さんの存在がなかったら、ずっと人知れずひっそりと暮らしていたのだろうと思う。
挫折や傷つきもありながら、自分のやり方と流儀を守り、地道に人の役に立とうとするなかで自分の生き方を見つめる姿勢にとても共感した。
彼女たちのような、こちらから尋ねなければいつまでも黙っているような人たちの声がもっともっと聞きたいな、と思う。
静かにじっくりと耳を澄ませなければ聞こえないくらいの、か細い声。
不思議とそんな声に、自分自身の傷つきや疲労や悲しみが呼応し、静かに慰撫されてゆく。
世間では、地味だしのろいしめんどくさいと捨て置かれてしまうような、強くも華やかでもない、不安で傷ついてぐるぐる同じところで逡巡している、そんな人たちが自分を語ることが、惨めな私を救ってくれていると感じる。
本や映画だけでなく、愛読している幾つかの匿名の個人ブログたちも私にとってそういう存在だ。
それらは寄る辺ないインターネットの暗闇に、ぽつん、ぽつんと淡い光を発して浮かんでいる。
世間的な評価や資本主義からは遠く切り離されている。
でも、感服するほど文章が上手いものも少なくないし、何よりそこでしか出会えない切実な言葉と思想とリアルな人の人生がある。
それでも、皆おしなべて自分の書くものを取るに足らぬと多かれ少なかれ思っていて、だから誰もが匿名なのだろう。
私はこんなすごいものがいつでも読めるなんて、インターネット世界とはなんと途方もない豊穣なものなんだろう、と何度でも圧倒されてしまう。
社会学者の岸政彦さんが、以前エッセイで、全国津々浦々の一般の人のブログを探して読むのが趣味と書いていたけれど、すごい分かる。
いつも私はリスペクトの気持ちで大事に読ませてもらっている。
何人か、言葉も交わさないままに長年互いに文章を読み合い続けている人がいることも、光栄だし、しみじみ不思議なこととも思う。
今日もささやかなヴォイスをできる限り聞き逃さぬよう、雑にならず、浮き足立たず、私なりに善く暮らしたい。