みずうみ2023

暮らしの中で出会った言葉や考えの記録

「Ryuichi Sakamoto : CODA」

ゴールデンウィーク、後半戦。

末っ子は元気いっぱい、でも私は目の奥に涙がずっと溜まっているみたいな感じで過ごしている。

週が明けたら、独りでしっかりと考え抜いて前に進もうと思う。

 

 

Ryuichi Sakamoto : CODA」

2017年アメリカ・日本合作/監督:スティーブン・ノムラ・シブル/102分

 

筋書きのない、型にはめない作りは、一見取りとめなくも思われるのだけれど、音楽的で、とても心地良く見た。静かで、端正で、心がしんとする。

それは、教授という人が容易にカテゴライズできない人ゆえなのだろうし、作り手が終始被写体へ深いリスペクトをもって接した証でもあると思う。

教授の脳は、普通の人が聞き取れない領域の音を感知するのだと聞いたが、彼が作った音楽は、自分に聞こえているのとは違う、もっと厚みのある複雑な様相を本来もっているのだろう。それは、どんな音なんだろう。聞いてみたい。

世界に溢れる音にいつも注意深く興味を寄せ、その組み合わせの妙を子供のように楽しむ。

これだと思う音に出会った時に、とても満足げに大きく微笑むさまにはっとさせられる。

彼は少しも人生に倦んだり飽きたりしていない。

純粋な好奇心のかたまりのような人。

私ももっと世界の音に耳を澄ませよう。そうしなくてはもったいないと思った。

美しい自然の音、面白く豊かな音は、身の回りに溢れていて、太陽の光みたいに惜しみなく降り注いでいる。

それを受け取れるかどうかは、自分次第なのだなと。

 

彼の社会活動へのスタンスは、とても見習うべきことが多いと思う。

彼はいつも、自分自身がその場に足を運び、当事者から直接話を聞いたり、著書を読んだりする。間に他の誰かの解釈を挟まず、自分の心で感じ、自分の頭で考える。

反戦でなく非戦、という言葉に象徴されるように、敵対構造を作りたくないという基本的な姿勢がある。

誰か分かりやすい悪者を設定して、それを「正論」でがんがん攻め立てる、ということでは何も根本解決にはならない。

問題は自分も含めた人間という生き物なのだ、という考え。

人間は、先天的な善人や悪人がいるということではなく、ある環境下、条件下に置かれることによって、固有の性質を発揮する。

その人は、理由があってそのような人になっているし、そのように行動する。

人間の業は深くて、最終的に破滅に向かうことを避ける方法はほとんどないようにさえ思える。

それでもやれることをやるべきだし、下の世代に一つでも希望を与える存在であり続けたい。

だからあらゆる教養や芸術の力を借りて、なんとかひとつでも勝ち越しに持ち込みたいよね。

何かでっかいことをやってやる、変えてやるということでは多分ない。

 

彼はいわゆる「正しい」ことを言う時に、肩いからせて自信満々だったり、尊大だったりしない。どこか恥ずかしそうに、所在なさそうにさえしている。

それは、人間のひとりである自分を恥じているからなんだろう。

 

それもこれも、人間のすることだ。

自分だって状況によってはそのどちらにもなりうるのだ。

私もその認識を基本ラインとして、どんなものごとも見ていきたいと思う。

 

津波ピアノについて語ったこのエピソードは、教授の人間観を象徴しているように思う。

産業革命が起こって、初めてこういう(ピアノのような)楽器が作れるようになったんですね。

何枚もの板が重なっているのを強い力でこういう形に半年くらいかけて型にはめるわけなんです。

だから、弦もストリングスも全部合わせると何トンという力が加わっているらしいんですね。

元々自然にある物質を、人間の工業力とか文明の力で、自然を鋳型にはめる。

調律がくるうって言いますけど、全然くるっているのではなくて、自然の物質は元に戻ろうと必死にもがいているわけですね。

津波っていうのは一瞬でバン!ときて、自然に戻したというか、戻ってるわけですね。

今僕は、自然が調律してくれた津波ピアノの音が、とっても良く感じるんですよ。

というのはやはりこの「ピアノ的なもの」、人間が無理やり自分の幻想に基づいて調律した、要は不自然な、人間的には自然だけれども、自然から見るととても不自然な状態に対する、なんというのか、強い嫌悪感が僕の中にはあると思うんです。(映画「CODA」より引用)