みずうみ2023

暮らしの中で出会った言葉や考えの記録

「謎のやな感じ」について考える

朝、玄関のドアを開けたらいちめん春の空気。

朝の眩しい光を浴びたら、柔らかく緩んだ。

寝坊したので、今朝のお祈りは手早く。

息子が昨日音楽院の試験だったから、そのことを強めに祈った。

お隣さんによると明日からまた冷え込むらしい。

気候がどうもおかしいね、と言い合う。

 

今週もマイペースに確定申告の作業を続けつつ、毎日何かかしら用事でぎゅっと詰まっていて、気持ちは落ち着かない。

今日は午後から車で某所へ。ちょっと緊張する用事。

 

昨日も出ずっぱりだった。

このところ、夫婦仲が良くてしみじみ幸せだったのに、昨日の午後に会っていた人のなかのひとりが、謎のやーな感じで接してくるので一気にトーンダウンしてしまった。

自分のできることで役に立てたら、という気持ちもシュンとすぼんでしまった。

こっちから特に何かを言った覚えもないので、理不尽で嫌な気分になり、心当たりをしばらくぐるぐる考えあぐねてしまった。

私には、そういうくよくよしたところがある。

 

でも、気を抜いているところに出し抜けに棘を刺してくるような存在っている。

自分の母親からして、私が幸せそうにのほほんとしてたらもれなく刺してくる人だった。

また、考え足らずや辛抱のなさのために、誰かを拒絶したり、やな気持ちにさせてしまう事が私にもある。

だからいつからか、人と人とはそういうもんだし、全方位的に和やかにいく事などそうそうないという人生観で落ち着いている。

それもひとつのバランスなのだろうと。

 

嫌なのは、その場ではへらへらして物事を曖昧にしてしまうことだ。

これ以上余計に傷つきたくないから。

攻撃性を含むようなシチュエーションにおいては特に、適切な反論や言葉はその場ではまず口から出てはこず、毅然とした対処なんてほぼできない。

なんなら今起こっていることの意味すらにわかにはのみ込めず、ポカーンと口を開けていたりする。

だいぶ後になってから、ああ言うべきだった、こうすれば良かった、ぐぬぬ、と悔やむ。

 

そんな自分の格好悪さを長年恥じてきたけれど、「自分は別に考えてないわけではなく、間違ってることは多々あるがだからって下等な生物というわけではない。私は反射神経が鈍く、ものごとを理解できるまでにタイムラグがある、遅いのだ」ということを自覚できたことは、自分にとって結構大切なことだったなと思う。

願わくば、もう少し若い頃に気付きたかったけれど。

 

流暢に話せない自分を蔑まなくなったことで、同じように流暢でない他者を侮ることもなくなったし、流暢な人、語気の強い人に気圧されてしまうことも易々と騙されることも(なくなりはしないけど)少なくなったように思う。

それはささやかだけど喜ぶべき進歩だ。

黙っている人が何も考えていないみたいに思い違いする事は、人として傲慢でとても恥ずかしいことだと思う。

 

昨日の謎のやな感じで言ってくる人について、時間差でちょっと考えてみた。

そしたら、昨日だけじゃなく、その前に会った時にも刺されてたことを思い出した、苦笑。

それで、なんとなく分かった事がふたつある。

ひとつは、その人は「あなたが価値と思うことに私は全然興味がない、くだらない」と私に対して思っているんだろうなーということ。

もうひとつは、人の価値観の違いなどありふれたことで私もどうだっていい、普通はたんに互いに黙っているだけのこと。それが、その人はなぜかわざわざ私本人に、非難めいたニュアンスをのせて伝えたいんだねどうしても、ということ。

ふうむ。

 

彼女は普段から、誰に対しても自分の方が詳しいし正しいという前提でマウント気味に話す。

私は、意見を押し付けられること自体はさして苦ではない。

人と話す中で揺らぎ、自分の考えはどんどん変わってゆくのが常だが、押し付けられることそれ自体に揺らぐ事はあんまりないから。

少なくともはっきり自分の意見を言い切る人は分かりやすいから、面白くふむふむと聞きつつ自分なりに色々考える。

もとより、私は全然違う考えだよと率直に言ってくれる人が好きだし。

つまりその人の「謎のやな感じ」とは、押し出しの強さではなく、「あなたのありようや価値観は私にとって不快なものである」と、何度も回りくどくいちいち伝えられることへの違和感なのだと分かる。

一体何様だろうと腹が立つ一方で、誰かにむやみに自分の思いを否定されたら、わりとあっさり自分への信頼がぐらつく、そんな自分の脆弱さにがっかりもする。

 

更に「なぜその人はわざわざ言わないと気が済まないのだろう?」という事が素朴に気になってくる。

そこには、その人にとって何としても言わずにおれない、スルーできない何かがあるからだ。

 

私は、私の言動において、その人に何の直接の迷惑もかけていない。はず。

近しい間柄でもないから、私は私の人生をその人と関係ないところで好きにやってるだけ。のはず。

だから、そこには彼女自身に根ざした何か、課題やコンプレックスや傷のようなものがあるのだと思う。

なんだ、私関係ないじゃん。その人自身の問題じゃん。つまりそういうこと。

 

そして、それこそがまさに偏見や差別というものの構造なのだ、とはたと思い当たる。

私がその人から受けていたものとは、いわゆる「誹謗中傷」的な感情の発露なのだと。

誹謗中傷とは、根拠に欠けたことに基づいて他人をそしること、と辞書にある。

相手からの行動や言葉という直接的な関係性によって生じた根拠のある感情は誹謗中傷ではなく「非難」や「抗議」や「反論」と表現される。

誹謗中傷には、直接的な関係性がない。コミュニケーションが飛躍している。

 

一般に、わざわざ誹謗中傷する人には、強い被害者意識や、相手に対する嫉妬感情がある。

自分に向けられた言動でなくても、ある人の言動、あるいは存在そのものによって、自分が責められたり貶められていると感じたり、

自分よりも不当に良い思いをしている、得をしていてずるいと感じたりする。

自分の落ち度や後ろ暗さ、不幸感や不全感を喚起させる存在に対する強い怒り。

それが、誹謗中傷の根底にはある。

 

うーむ、なるほどなあ。

 

そこまで考え至る頃にはもう、その人に対する忌避感って8割がた溶けて無くなってしまっている。

身勝手な考えではあるが「自分の言動のせいで誰かを傷つけた」ということが、自分にとっては一番嫌なことだから、そうでないことが自分の中でクリアーになるとだいぶ落ち着く。

そして「まあみんな不完全な人間だもんな」って気持ちがわいてくる。

だから日常的に起こるいろんな物事を、仕分けして、ゆっくりと考えてみる事は、面倒くさいがやっぱり私にとっては欠かせないプロセスだと思っている。

 

その人はとても率直な人だから、今度刺された時には「どうしたの?一体どこが引っかかるのか、良かったら教えて欲しい」と落ち着いてまっすぐ聞いてみようと思う。

 

 

そんなことがあった昨日だったが、夕方家に帰ると、夫氏の年下の友人がまだいて、リビングで喋っていた。

前に話したのは、コロナ前だから、本当に久々の再会。

私も大好きな人だから、会えて嬉しく、だんなそっちのけで色々話した。

ピザを取ってみんなで食べながら、夜までわいわい喋ってとても楽しかった。

おかげでやな気持ちも払拭できた。