みずうみ2023

暮らしの中で出会った言葉や考えの記録

「バービー」

早朝、娘氏は奥会津へ向かった。これから5日間サマースクールに参加する。

事前に読み込まねばならぬ課題図書に手こずっていたが、なんとか課題提出に間に合ったよう。

学びを授けてくれるのは、哲学者、山伏、文化人類学者、禅僧といった人々。

学びたいという意欲が強いのに、なかなか受け皿が見出せないまま、17歳になった。

学校的なものに触れること自体が久しぶりのこと。

今、彼女が必要としている教養が得られるといいな、何より良い出会いがあるといいなと思いながら「楽しんでー」と送り出した。

私は、生理になってしまったので、今日は静かに身の回りを整えて過ごすことにする。

 

話題になっている「バービー」を見た。

ポスター画像

2023年アメリカ/原題:Barbie/監督:グレタ・ガーウィグ/114分/2023年8月11日〜日本公開

 

正直、予告編を見ても興味が湧かなかったのだけど、監督がグレタ・ガーウィグ(脚本はノア・バームバックとの共作)だし、やけに話題になっているし、いっちょ観とくかという感じで行ってきた。

 

やっぱり私は映画自体にあまり乗れなかったけど、とにかくアメリカをはじめとして「大ヒットしているということ」がまずもって価値なのだろうと思う。

フェミニズムがテーマというだけで、一定の層が「けっこーです」と遠ざけてしまうという壁を乗り越えさせて、分け隔てなく多様な人々が楽しく気楽に観られ、たくさんの人がこの作品についてわいわいがやがや盛り上がっている。

 

しかしそれはそれとして、映画やドラマは、それぞれ固有の社会的政治的課題や差別などを取り上げるわけだが、そこにあるジャンルを越えた普遍性に人々は感応する、普遍性こそが当事者/非当事者に関わらず、人間の心に訴えかけるのだと思っている。

 

そういう意味では、この作品はエンタメ要素たっぷりの「入門書レッスン1」みたいな感じ。

見ている間、ずっとレクチャーを受けているみたいな気分で、テーマの枠組みを越えた深みは特に感じなかった。

そもそも、マテル社の「バービー」という一商品を全面的に扱っている以上、マテル社とバービー自体のことを貶すことはできないという資本主義縛りがある中で、誰も敵に回さずに社会的な風刺の効いた作品に仕上げること自体が難易度の高いことだと思う。(そんな制約があってもなおそういう映画を作りたいか?という問いがまずあるけれども)

だから、一見分からないような形でいろんなメッセージを込めることになるのだし、謎解きのような形で作品分析する人たちが盛り上がるのも想定内のことであり、それも含めての大ヒット!ということになるのだろう。

それを「優れた戦略性」と評価する人がいるのは普通に理解できる。

でも私個人はそういうものを、ちょっとあざとく感じる。

操られるのは気分の良いものではないから。

 

前作を見て、グレタ・ガーウィグはこれからビッグバジェットの作品をどんどんやっていくんだろうなと予感したが、今回なるほどと納得した感があった。

どんな良いメッセージでも届かなかったらしょうがない。影響力が小さかったらしょうがない。

だから堂々メーンストリームで、女性による女性のための物語を紡いでいく。

これまでそういうスタンスの女性監督ってほぼいなかったと思うからとても楽しみ。どんどんやってほしい。

世の中の物語は、まだまだ男性目線で語られたものが大半なのだから。

 

 

映画にはまれなかったものの、気がつけば「バービー」についてあれこれ考えている。映画は面白くなかったのに。そういう意味で興味深い作品。

この作品は、バービーに象徴される女性の「美」の範囲の狭さや、社会的に高いステイタスやイニシアティブを獲得できた人を自立している人とみなすアメリカ的価値観や、性差の強調、男VS女で二項対立させるなどことを、きわめて分かりやすく見せている。

これは、ステイクホルダーに配慮し、マスに向けたゆえの単純化なのだろうと、一旦は思ったのだけど、ガーウィグ&バームバック夫妻の共同脚本で、そんなことあるだろうか、いやありえん(反語)と思い直している。

だってバームバックの近作は「ホワイトノイズ」だもの、全部がヒステリックなまでに皮肉で出来てるみたいなあの作品だもの。

だとしたら、彼らはあえてこういう風に、煽るみたいに描いているのだろう。

 

定番バービーを演じるマーゴット・ロビーが「私は何者でもない」と弱音を吐くシーンがある。

さすがにナレーションでギャグっぽく「マーゴット・ロビーがそれを言ってもさすがに説得力ないよね♪」というツッコミを入れていたけれど、いやいやいやそこだけじゃないから。

人の苦しみや痛みは比べられるものではないけれど、「私たち同じ苦しみを抱える女同士よね!」とまとめてくること自体がかなり粗雑である。

こちとら英語もろくに分からない非白人で、小太りで、セルライトと共に生きてるのだが!

そしてやはりそのことに、作り手の彼らが、無自覚なはずはないのだ、どー考えても。

だからこれを、才能と機会と容姿に恵まれた白人女性目線のフェミニズムだとこき下ろすようなことは、やっぱり浅はかなんだろうなと思い直している。

 

「バービー」を批判的に見る中で心に湧き上がった、

こんなものをフェミニズムだと思われたら心外だ、という気持ちとか、

フェミニズムといういわゆる「社会正義」を語る中に存在する、ある種の鼻持ちならなさとか、

翻って私もこんな風に自らの優位性に鈍感だったりしないだろうか、とヒヤリとする気持ちとか。

そのような感情について改めて考えることは、結果として、より本質的な意味でのフェミニズムを考えることに繋がっていると言えないだろうか。

少なくとも私自身はそうなってる。

 

これが意図的なのだとしたら、ガーウィグ&バームバックは、なんという曲者であろうか。

「バービー」が、ほとんど実験映画のようにさえ見えてくる。

そして、ガーウィグはこれだけのハレーションが起こることを承知の上で、火中の栗を拾いにいったのか。

使命感なのか、図太さなのか、クセが強すぎるのか。

モチベーションは計り知れないけど、次作が楽しみ。

 

考えすぎで、的外れな意見になってるのかもしれないけど、なーんかそんなことを面白く考えた。

とにもかくにも一風変わった映画体験になった。

 

(8/17 加筆訂正しました)