みずうみ2023

暮らしの中でふと心が動いたことについて書いています

「Mommy」

 

2014年カナダ/原題:Mommy/監督:グザヴィエ・ドラン/134分

東京でのリバイバル上映が、タイムテーブルの関係で行けなかったので、遅れて横浜で今やっていることを知り、いそいそと行ってきた。

久々に行った、黄金町にあるインディペンデント系の映画館。

スクリーンが好みでないためにあまり選ばない映画館だけれど、風俗店と古書店が乱立する雑多でアングラな界隈にぽつんと昔からずっとあって、なんかわくわくする感じがある。

漂白されたように清潔で快適なモールの中の映画館にはない反骨心のようなものがある。

 

すぐ近くがタイ人コミュニティなので、少し早めに着いて日本人向けでない本格タイ料理屋でランチをしたら、美味しいんだけど辛すぎて口の中が事故みたいになった。

痛い痛いと笑いながらタイ東北部のイサーン地方の辛い肉炒めや青パパイヤのサラダなどを食べる。

食後の散歩で在タイ人向けの日用雑貨屋さんにも行って、ちっちゃなメントールのバームを買った。

店員さんがテンション高めのめちゃくちゃチャーミングな人だった。

すごい、自分で無限にハッピーを生み出してる、素敵な人だねと感心して言い合う。

久しぶりに「コップンカー」と何度か口にした日になった。

タイ語の響きって可愛らしくて昔から大好きだ。

 

 

「Mommy」、もう11年前になるんだな。

公開当時に感じた鮮烈さはもう感じられなくとも、やはりどこをどう切り取っても美しい映画だった。

この作品を見ると、美とはオープンさであり、自由であり、他者と繋がるためのものであると感じる。

世の中にある研ぎ澄まされた美というかいわゆるおしゃれって、自己防衛的で、(より高く値付けするための)差別化という要素を強く感じる。

排他的で選民的な厳しさ。

でも本当の美は、もっとおおらかで優しいもののはず。

グザヴィエ・ドランの映画は、何を美しいと思うのか。その刹那さや光と影も含めて、自分の心と無条件に響き合うものがある。

 

そして、ドランの映画を見ると、女性としての尊厳が傷つけられるということがけして起きないということを改めて思う。

彼にとって女性、とりわけ歳を重ねた女性たちというのは、誰もが力強く温かく愛らしい、母でありミューズのような存在だ。

これほど美意識の高い人であるにも関わらず、女性の若さや表面的な美しさやセクシーさに一切なびくことなく、存在そのものへの絶対的なリスペクトが貫かれている。

女性としてただ在ることが誇らしく思えてくるほどの圧倒的な信頼感がある。

それは、ドランにとって女性が性的な対象ではないことが少なからず関係していると思うし、彼が不安の強い、ある種のマザーコンプレックス的な要素を持つ人だからかもしれないとも感じる。

 

こういう作品を見ると、自分がいかに色んな映画や創作物にちょっとずつ傷ついているかに気が付く。

わかりやすい差別や蔑視ばかりじゃなく、こういう女性に価値がある/ないという、男性社会からの視線や価値観が強固にある。

そこでの女性は人ではなく客体。

その感覚を「当たり前の常識」として描いてるものを見聞きするたび、絶えず自己否定の心の動きは起こるし、鍾乳洞みたいに一滴一滴侵食していくような呪いを自らにかけ続けてしまうことになる。

もちろん、それは男性にとっても同じこと。

こういう男性に価値がある/ないという、常識化された女性や社会の視線や価値観に、男性たちも傷つき、蝕まれている。

それは対のようなものだろう。

 

性という要素は、人間の命をつなぐために不可欠なものだし、人に幸福をもたらしてくれるものだけれど、性に価値を置きすぎることは、あらゆる不幸の源になるということがあると思う。

人は年齢を重ねて生殖という枠組みから外れたら、性的な存在でなくなったことを嘆くよりは、より十全に人間として存在できること、新たな自由を手にしたことをもっと言祝いでもいいような気がする。

 

 

ダイアンとカイラというふたりの母と型破りなスティーブという擬似家族、その奇跡のような調和が生まれてから失われるまでの短く美しい時間を、尊く切なく感じながら見た。

3人のそれぞれ違った部分が他の誰も手が出せないくらいのレベルで欠けていて、けれどこの擬似家族においては、欠けた者同士がパズルのピースのようにぴったりと補い合って、お互いを癒し、励まし、勇気を増幅させるという、ちょっと無敵感さえある心強い関係性。

けれど、社会の規範から逸脱した者をこの社会は許さないから、彼らの幸せは、良識の顔をした社会の「厄介者を慈悲深く人権的に包摂する」という文脈で、ほどなく回収されることになる。

どうしてこのままで生きられないのか、常に社会から無言の排除やジャッジメントを受けていることへの本人たちの自覚も薄いまま、訳もわからないまま、気がつけば苦境に追いやられている。

 

社会は自分たちにとっての理解者では常になかったが、自分たちにも不足や落ち度は確かにあったのだし、人に迷惑をかけたり不快な思いをさせてしまった。

だからどうしようもなかったのだと、漠然と自分を責めながら、擬似家族は散り散りになっていく。

 

人生は、かくも孤独で残酷なものだ。

それでもなお、作品が最後に提示するものは、しぶとい希望だ。

 

生き方は人によって違う。

お互いに自分の選択をした。

 

私は希望を選んだの。

この世界に残された希望は、ごくわずか。

でも諦めなければ、何かを変えられる。

もし希望を捨ててしまったら未来はない。

 

すべて自分の選択。

そう信じれば、未来は開ける。

私は負けない。何があっても。

自分もみんなも幸せであるために。

 

カイラの門出を祝福し、私は絶対に負けないと笑顔で言ったダイアンは、ひとりになった途端、しばし泣き崩れ、それから涙を拭いてまた今日を始める。

 

そして彼女が「捨てた」子は、遠い場所でひとつも諦めていない。

ティーブは、自らが愛される存在であることをちゃんと知っている。

それは何よりの希望だ。

ティーヴ「僕たちまだ愛し合ってるよね?」

ダイアン「私たちにはそれしかないでしょ」

 

だからこそ、スティーブは隙あらば全力で逃げ出す。

誰もがそれぞれの持ち場で、希望を捨てずに生き抜くんだ。

どんなに押さえつけられようとも諦めるな。

生命力の塊のような少年は、その存在を通してそう伝えている。

 

 

今、10年前よりもずっと、希望を見出すのが難しい世界にいると感じる。

あらゆる創作物はこぞってディストピアを描き、楽観的なものを見つけるのは10年前より明らかに難しくなったと思う。

それでも、この作品の結論を、生ぬるいきれいごとだと思わない。

日本版のキービジュアルには「愛と希望、どっちを捨てるか?」というコピーが書かれている。

そんなん、どっちも捨てないに決まってんだろ。

 

私たちあきらめちゃいけないって今いちど、心に刻む。