みずうみ2023

暮らしの中でふと心が動いたことについて書いています

久々の対話会

鎌倉某所で久々に対話会を開くことになった。

ここ最近、哲学対話やオープンダイアローグという言葉をずいぶんいろんな場所で聞くようになり、あちこちで対話の機会も明らかに増えていると思う。

だったら私の出る幕ではないのかなと思って、ここ最近は別のことに関心を振り向けていたのだけど、思いがけなくお声がけいただいた。

小さくとも何かを決めて旗を立てるようなことをするのは、相変わらず下手で苦手で、ストレスになってしまうけれど、やっぱり人の話をじっくり腰を据えて聞くことは、私の一番好きな事の一つかもしれない、と改めて思う。

もっとも私自身は、何かを考えるスピードは年々遅くなる一方で、ひとつのことを何日もかけてつらつら考え続けているのが常だから、書き言葉くらいの遅さがちょうどいい。

ますますまとまったことを喋るのがへたくそになっている。

そんな話下手な人がやる不器用な対話会だ。

 

近頃、文字通りなんでもかんでもChatGPTに相談してる、という人が周囲で急に増えた。

導入当初は、学問や就活などの分野で、自分以上を装うためにAIの見識を利用することが主だった懸念だった。

私自身、AIの精度を見誤っていたこともあって、具体的かつ実用的な知識のデータベースとしてのAI利用は検索に近いスタンスと捉え、さほどの抵抗を感じることもなく静観していた。

ところが最近、ごく個人的な問題、些細だったり微妙だったりも含めたあらゆる悩みや分からなさや苦しみをChatGPTに問いかけている人が想像以上にいるらしいことを知って、戦慄している。

AIを愚痴を聞いてくれる友達や個人的なカウンセラーのように使っている人たちは、そのことをわりとてらいもなく語る。

皆おしなべてAIの応答内容に満足そうで、それなりに助けられたり癒されたりしているように見える。

そして「これっていいのかな」という小さな戸惑いを感じながらも、確実にそのやりとりは習慣化し、依存を深めつつある。

加えて怖いのは、AIの応答を疑いなくナチュラルに「正解」としてしまっていることに、彼らが無自覚であることだ。

そういう話を見聞きするたび、私は胃がぞわぞわし、息苦しさを感じる。

でも、どうにも言葉が出てこない。

ただ、これはとんでもない怖いことだと私の中の直感が告げている。

 

AIはけして否定せず、よくやってるね偉いねと褒めてくれて、分かるよと共感してくれて、さらに受け取りやすいような言い回しで「こんな見方もあるのでは」という納得性のある視点や学びまで与えてくれる。

傷つけたり、不快な思いをさせたり、もやもやさせられる心配はない。

どれほど人に知られたくないことでも、どんな弱味でも安心して話せる。

ビジネスライクではなく、友人のように親身で、でも礼儀正しく踏み込まないという距離感も絶妙だ。

あくまでスムースな完璧な日本語で、ぎこちなさや違和感を覚えることもない。

相手をどこか人間のように思ってしまい、心理的に寄りかかりたくなってしまうのも無理はない。

 

アナログ人間の私は、「これはどうもまっとうなことではない」と皮膚感覚で怖く思い、そもそもどうしてそんな精緻なことが機械に可能なのかという部分が全く腑に落ちていないまま流されてしまうことがあまりに気持ち悪すぎるので、今のところChatGPTは使っていない。

けれど、「AIが正しく合理的な答えを全部教えてくれる」という世界線が、潮が満ちるみたいにすごい勢いで広がっていっているということくらいは肌感で分かる。

2000年以降のいくつかの革命的なデジタル・プラットフォームが登場した時のように、後手後手でどう向き合おうかと戸惑っている間に、近い将来、自分も含めた誰もがすっかり慣れてしまうのかもしれない。

 

グーグルが設立されたのは、1998年だった。

あっという間に誰もが、何かわからないことがあれば「ググればいいじゃん」と言う世の中になった。

その20年後の2022年11月に、ChatGPTがリリースされた。

ChatGPTは、たった2年余りというすさまじいスピードで、人々の行動様式をステルス的に塗り替えつつある。

かつて全て検索すればいい、という便利を手にすることで、私たちは知識を自らの身体に蓄えることを手放してインターネットの世界にアウトソーシングした。

今、全部AIに聞けばいい、という新たな便利を手にしたことで、私たちは今、自分の頭を使って悩み考えること、自分の中から湧き上がってきた実感を元に自分で人生の決断をし、時に間違った選択もしながら、自分なりの人生を生きていくという根本的な主体性を手放しつつある。

それは、脳みそごとインターネットの世界にアウトソーシングし、「ただひとりのオリジナルな私」という存在丸ごとをAIに明け渡すことを意味する。

 

ポストトゥルースの時代と言われて久しいが、悩ましいことや面倒くさいこと全てAIに考えてもらい決めてもらい、それに従っておればいつだって正しい、という世界線では、その人にとっての実感の伴った真実は致命的に失われてしまうだろう。

互いが信念なくAIの回答に従ってコミュニケーションする世界では、誰も何も信じられない、きわめて空虚でカオス的な世界に突入していく。

そんな予感がしてならない。

 

AIによってオーガナイズされた世界は、一見そつなく従順で清潔で行儀が良くて、なんの問題もないように見えるかもしれない。

でも、あらゆる予測不能性、無意味性、不器用さ、人間味を全てリスクやノイズだと感じるようになり、そんな無駄なものにもう煩わされたくはないんだ、付き合う必要もない、自分はそのままで価値があるのだ、省みる必要などないという感覚に人々がだんだん染まっていってしまったら。

それは、自ら希望を捨てているに等しいことなのではないか。

その先にあるのは、人間と世界に対する絶望しかないのではないだろうか。

 

 

私がやる対話会は、少人数で集まって、ただの個人として、訥々と、自分の心に浮かんだ考えを口に出してみる、それだけの会である。

ぎこちないし、解決やアドバイスも特にない。

でも、こんな今だからこそ、生身の人間に向かって、自分の中から湧き上がってきた思いを話してみることって、わりと大事なことなのではないかとふと思えてくる。

 

自分の正直な考えをそのままに話すことは、他人の気分を害することだと思っている人もいる。

本当は、人は一人ひとり違う考えを持っているのが当然なのだから、そんなことを思う必要はないのに、同じでないことを攻撃と受け取られたり、頭ごなしに否定されたり、上から説得されたりした経験のために、正直になることは気まずい思いをすることだという感覚が強固にインプットされてしまう。

何よりこの日本は、「他人に迷惑をかけてはいけない憲法」を皆が何よりも率先して遵守している国だから。

 

でも、誰だって自分の考えを話していいに決まっている。

正直に話しても誰も嫌う人なんていないということを、確かめてみる必要がある。

自分の思い語ることを自分に許可して、つたなくともなんとか言語化してみようと試みることは、氷を溶かすきっかけになる。

目の前にいる生身の人が「そっか」って言うだけでも、人は自分で勝手に気付いたり、省みたりする。

よく知らんけど、人間ができるだけオープンになって、五感で交流することって、多分すごいことなのだ。

 

だから、どんなことでも、個人的に話してみたいことがもしあれば、ぜひジョインしてみてほしいな、と思う。

会場は、鎌倉市稲村ヶ崎にあるブックカフェ。

これから暑くなる季節なので、暑さの和らいだ夕方からゆるゆると、アルコールなども飲みつつ、キャンドルの灯りでリラックスしながら適当な感じでやろうと思います。

 

※満員になりましたので詳細を削除しました