みずうみ2023

暮らしの中で出会った言葉や考えの記録

知的とは何か

我が家は常に2つか3つのサブスクを契約していて、そんな中で生まれ育った末っ子は常に無数のコンテンツに囲まれている。

YouTubeの子供向け動画も日々産み出され、どういうビジネスモデルになってるか分からぬが結構なハイスペックのクレイアニメーションCGアニメーションが見尽くせないほど提供されている。

ちなみに、あまりの広告の多さに閉口し、渋々プレミアムに入ったが、快適すぎてもうやめることはないだろう、広告は我々の人生を害しているとつくづく実感する。

 

そんな末っ子を横目で眺めながら、動画製作者である夫氏が「最近さあ、これだけ世の中に動画コンテンツが溢れかえってる中で、さらに何かを自分が作って加えようって意欲がもう湧かないよね」と言う。

 

気持ちは分かるよと返しつつ、「でも見たいのに見られないものはいっぱいあると思うな」と言うと、それってたとえばどんなもの?と彼が訊くので、

「今の世の中では、ないものとされている人やものごとがたくさんあると思うから、それを見たい。

それから、『これが重要で、今考えるべきこと。これはさほど重要ではない』の基準が今はめっちゃくちゃで、自分なりのリテラシーでもって世界を捉えようとしても混乱するばかり。

もっと(そもそもそんなものがあるのかは分からないけれど)自分がリアルと感じられる世界の様相を見たいのにって感じる」

と私は答えた。

 

すると夫氏は、最近印象に残った名越先生の言葉について語りだす。

世界をこう変えたいと思えば思うほど、現実がそのゴール達成の為の材料にしか見えなくなる。今まで知的とはその能力であったのだから仕方ないのだが。
世界とは先ず目の前のことである。そして知的とは、そこに背景を描く作業だ。

名越康文Twitterより引用)

皆、起こっていることに対して「これは善」「これは悪」ってジャッジしてラベルを貼り付けることばっかりを延々としている。

そんなことには全然興味が持てない。

何がそれを引き起こしたのか?その背景には何があるのか?

いつだってそっちにしか興味はない、と彼は言う。

 

本当に、差し出された物事に、したり顔で謎の確信をもってジャッジメントすることを永遠に見せ続けられることに完全に倦んでいる。

何が目の前に差し出されて、何が隠されて語られていないのかという前提について問うことの方がよほど大事なのに。

でも、そこはほとんど問われない。

設定されたゲーム、ルールの中でひたすら口角唾を飛ばしているさまに、いつも言葉を失くす。

 

そんなことは原理的に不可能ではあるのだが、出来るだけシンプルな、なんの飾りも卑下もない、そのまま表現されたものごとを見たいと思う。

『ゴール達成のための材料』どころか、材料を誰かの都合で勝手に出したり引っ込めたり拡大したり矮小化したりして、歪んだものばかりを大量に見せられているという気持ち悪さが常にある。

世界を構築できるだけのフェアネスが担保されていないと感じている。

 

そのため、自分なりのいくつかの基準に基づくリテラシーを用いて、歪みを腑分けしようと試みる。それでもしょっちゅう迷路に入り込むような気持ちになる。

お金や権力や社会構造の視点からものごとの信憑性をふるい分けるだけでは到底不十分だ。自分も含む人間誰もが、自らのアイデンティティを揺るがす部分に抵触するものには、自己の存在をかけて必死に、あらゆるロジックを駆使してでも正当化しないではいられないものだからだ。

その無数の込み入ったバリエーションが、無数の歪みを生み出し続ける無限ループ。

それが人間の難しさで、面白さで、業である。

 

だから、自分ごときが歪みを見極めようとすることなど所詮無理なことだとさっさと手放して、「現実を材料化し、仕分けすること」を丸ごと遠ざけ、「人間性と教養をベースとした想像力をもって、出来るだけ細やかにものごとの背景(原因)を見ようとすること」だけに知的リソースを割くべきなのだと思う。

これまでも心がけてきたことではあるけれど、もっと徹底してこのあり方を研究していきたい。

 

今が幸せで、健康無事に生きられていることを感謝しながらも、「なんでこんなひどいことがあるやろう」と腹を立てることが、日々の暮らしの中で色々とある。

そう感じることが私は苦しく悲しいのだけど、そのことから少しでも脱することができればいいなという思いがある。