
主人公の青年はいわゆるコーダ(聞こえない・聞こえにくい親の下に生まれた自身は聞こえる子供のこと)。
そのことから生じる不便や苦労や痛みはあるけれど、誰もが何かしら特定の条件を持った親のもとに生まれ、不完全な家庭で育っていくという意味においては、あえて言うけれど、これはとても平凡な家庭の物語だ。
耳が聞こえず、裕福ではなかったかもしれないけれど、愛情深く、子供のためにできる限りのことをするのを当然と思い、子供が自分たちの手元を離れて外の世界に出ていくよう励まし背中を押し、子供のやることにほとんど文句を言わなかった両親を持った彼は、むしろとても恵まれた人だ。
うんざりするほど凡庸で秀でたところのない、けれど得がたく安らかなものが平凡な家庭であるということを、せつなく感じて胸が痛いほどだった。
おしゃれでもなんでもなく、飛び抜けた勇気とか格好いい言葉とか何にもなく、でも子供が愛おしくて、当たり前に存在を受け入れ、ただおろおろ心配したり、自分のことのように喜んだり、子供の住むアパートに段ボール箱いっぱいの食品を送ったりする。
そんな大ちゃんのお父さんとお母さん。
故郷の田舎の駅のホームで、少し老いた母親の背中を見ている大ちゃんの脳裏に次々とフラッシュバックする、お母さんのいつかの笑顔、笑顔、笑顔。
自分がどれほど恵まれた子供だったかということを、そのことに大した自覚も感謝もないままにあぐらをかいてきたことを、そしてそれが永遠ではないということを、雷が落ちたみたいに唐突に彼は知る。
過剰さや気障さのない、シンプルな演出が素晴らしい。
誰もが通る道だからこそ、多くの人の胸を打つと思う。
聾(ろう)の世界について、いろんなことを学べる映画でもある。
普段、聞こえるのが当たり前の世界に生きていて、気付いていないことがいっぱいあること、この社会には聞こえない人にとってのトラップがたくさんあることを、忘れっぽい私たちは何度でも自省する必要がある。
何より、自分の無理解が特定の人たちへの暴力につながる可能性を認識すること。
聞こえない人たちのコミュニケーションが、いわゆる健常者よりもある意味においてはずっと豊かで繊細であるということにも目が開かされる思いがした。
聾者は、相手の話す言葉が聞こえない/聞こえにくいために、相手の目をしっかりと見て、表情を読み、感情や雰囲気をビビッドに感じながらコミュニケーションをする必要がある。
それは、ろくに相手の目も見ず、口から出た言葉だけで判断しているような怠けたやりとりとは雲泥の差の、相手にしっかりと向き合ったよほど十全なコミュニケーションだ。
どんなにしんどいシビアなやりとりであっても、聾者の会話は相手から目を逸らさない。それってすごいことだ。
良さげなことを言っても心の中で別のことを思っているみたいなことは、聾者にはかなり分かられてしまうだろうと思う。
便利な道具を持っているために、私は自分の感性が相当鈍くなっている。
映画の中の聾の方たちは、皆表情がいきいきと豊かだった。