みずうみ2023

暮らしの中で出会った言葉や考えの記録

選挙って

わたしの住む街では昨日、市議会議員選挙の告示日だった。

不登校や貧困支援の活動を熱心にされているご近所の議員さんがいて、娘氏が個人的にお世話になっていることもあり、生まれて初めて掲示板へのポスター貼りなるものをお手伝いした。

しばらく前に、いいですよ〜と安請け合いしたものの、当日、末っ子のお友達ファミリーと遊ぶ約束が重なってしまい、早いとこ終わらせたい一心で超速で自転車で近所を走った。

9時に市役所でくじ引きがあり、掲示番号が決まったら、「○番です!」と連絡があったと同時に、ボランティアが市内約140箇所のポスターを一斉に手分けして貼って回る。

なるたけ早く貼らないといけないものらしい。外聞が悪いから。

そういうのばかみたいと思うけど、何しろ後が詰まっていたので、わたしは超熱心な人みたいなことになった。

掲示板前ではいろんな人がポスターを貼っていて、「おはよーございます」「ごくろーさまです」と挨拶し合う、ちょっと独特な雰囲気であった。

 

てか、選挙ってもの全体の雰囲気がかなり微妙だ。

車で出かける道中、何台もの選挙カーとすれ違う。

選挙の1週間だけ、色めき立ってお願いしますお願いしますって、奇妙なことだ。

名前と、お願いしますと、ありがとうございますを声張り上げて繰り返している印象ばかりが残る。

選挙期間中に、候補者が前任期でどんな仕事をしたのかや、どんな政治的判断をしてきたのか、思想信条についての情報は、探してないわけではないだろうが、横断的にまとめたものがないと手間ひまがかかりすぎる。

必要な情報を行政から積極的に提供されている状況とはとても言えないし、与党などは特に、むしろ選挙期間中は政策判断や思想信条を隠して乗り切るみたいなスタンスすらある。

メディアは選挙前に判断材料になる情報を提供するためのアウトプットはほぼせず、投票締め切り後にやにわに「開票特番」を始めて、もう何もできない状況になってからあれこれ分析やら批評やら追及を始める。

ナンセンスだし、ガス抜きやアリバイ作りみたいなものにしかなっていない。

 

だから、特に個人的に時間を割いて調べない限り、せいぜいどこの党公認かくらいしか判断の足がかりがないと思う。

なんとなく顔つきで人柄を推しはかって決めるみたいなことになっている。

最近、全国のあちこちで草の根的に有志の人たちが自主的に作成している、候補者の主要な政治項目別の判断一覧とかは、選挙における基本で必須のデータのはず。

全国どこでも手に入るのが本来、当たり前のことだと思う。

自分たちの意見や願いを代弁してくれる人を選ぶわけだから。

でも、議員をあたかも自分たちの支配者のように思い違いして、選ばれたからにはしぶしぶでも従わなきゃいけない存在みたいに捉えている人は、この国には存外多くて、驚かされる。

「お上」って言葉が普通に口をついて出る。

何より政治家本人がそう思い違いしてふんぞり返っている人がたくさんいる。

 

もちろん、情報の不開示は意図的なことだろう。

結果的に、今の選挙のありようは、全く本質的でない、ずれたことを大真面目にやっている、みたいなことになっていて、鼻白む人がいるのも無理もないとは思う。

選挙にまつわる要素もろもろが、関わるのを躊躇するレベルでださすぎて、それが実は選挙に関する無関心における結構なハードルになっている気がする。

だっさいなあ、ちっとも本質的じゃないし、と思いながら、自分なりに色々調べて、毎回律儀に投票に行っているけれど。

 

昨夜、娘氏が職場の先輩(40代女性2人)と雑談中に選挙の話になり、「選挙っていつやってんの?ってレベルでこれまで行ったことない」と二人が声を揃えて明るく言っていたのを聞いて、とても驚いたと夕飯を食べながらしんみりと言っていた。

「仕事上ではとても尊敬できる先輩たちだっただけに、自分でも思いがけないくらい落胆した。だってこんな社会になっているのに。大人って」と。

 

それで、私はこういうふうな話をした。

政治や選挙に無関心な人がどうしてそうなのかは人それぞれだと思うけど、「どうなってもいい」という無責任さのあらわれというわけでもないと思う。

たった1票入れたところで、という考えの人は一定数いるだろうけど。

今の日本の学校教育では、人権教育や権利教育、近代史についてまともに学ぶことがないので、人間社会が常に政治によって守られたり、おびやかされたりしていることがとても実感しにくい。

この国では、自分で興味を持って個別に本を読んだり学んだり、障害や差別などの当事者やマイノリティーの立場を得て社会と関わる経験を持たないと「自分の生活が政治によってこれほど大きく左右される」という実感はなかなか持ちにくいのではないかなと想像する。

マジョリティーは「自動ドア」だから。

マジョリティーのレールに乗っかって、言われた通り粛々と「お上」に従っていれば、つつがなく回る。そういうことに私たちはとても慣らされていて、そういう社会ではいろんなことが意識化されにくい。

だからあたかも政治と無関係で生きているように錯覚してしまう。

私も若い頃そうだった。

随分大人になるまで、何も知らないし、誰も教えてくれなかった。

でも、今の若い人は、20年前よりずっと厳しくて不安の多い、不確かな社会を生きているし、貧困が目に見えて進行しているから、バブルの時代に若者だった中年世代よりもずっと早くに危機感を持つ人が多いだろうね。

とはいえ、やることが多すぎて、忙しすぎて、何も考えられないし、これ以上インプットできない、という状態の学生や労働者は、ニュースにもやもやしたりしつつも、基本は無関心のままなのかもしれない。

何によってスイッチが入るかは、その人の人生によって色々だと思う。

 

それと、普段からニュースソースをテレビやヤフーなどのポータルサイトからなんとなく読んでいたりすると、普段から知るべき大事なことはほとんど知らないまま、どうでもいいエンタメだったり、質の悪いニュースばかりを目にしているという可能性があると思う。

ポータルサイトのトップページ、あんなのを自動で目に触れるようにしておくのはとてもこわいこと。

情報を得る上で、陰謀論とかではなく、普通にメディアは、常に幅寄せし、誘導し、目隠しする、我々をコントロールしてくるということを踏まえられるかどうか、メディアリテラシーの有無は大きな分かれ目かもしれない。

今のジャニー喜多川による大規模な性加害を元ジュニアが告発したニュースだって、日本では週刊誌メディア以外ほとんど黙殺テレビもゼロだけど、海外ではBBCやCNNやガーディアンなどのトップメディアが大きく報じている。

今、この国では知るべき大事なことでも、権力に都合の悪いことは圧力をかけてもみ消されてしまう。

自分の国で起こっていることを、海外のニュースメディアを読まなければ知ることができなくなってきている。

自分の国の政治家たちが何をし、何を決め、何を進行させ、何をなかったことにしているか、私たちは相当知ることができなくなってきている。

だから、ここまでメディア統制されている国では限度があるけれど、「どこから情報を得るか」を日頃から受け身でなく、自律的にできているかどうかは大事なポイントだと思う。

 

それらによって世界の見え方はだいぶ違ってくる。

色々考えるべきことはあるけど、こういう要素もあるんじゃないかな。

 

娘氏はうんがーと頭を抱えていた。我ながらめんどくさい親だと思う。

 

統一地方選の投票日は、4/23(日)。

 

コスタリカ人監督が5年間かけて日本のサラリーマンの実態に迫ったドキュメンタリー映画「サラリーマン」、日本未公開らしいけど興味津々。

私たちは、勇気を持って、自分たちの社会を良くも悪くももっと客観的に眺めてみる必要があると思う。