以前から見たかった渡辺あや氏の手による、NHK京都のローカルドラマの劇場版が、Amazonプライムで配信されていた。
6年前の作品だけれど、私たちが生きる今の社会の空気感が横溢していて、なんとも言えない気持ちになる。
古ぼけた小さな学生寮をめぐる悲喜こもごもを描く短い作品だが、投げかけるいくつもの問いは多様な論点をはらむ。
簡単な答えは提示せず、ものごとの本質をひもといて分かりやすく提示して見せることで、見る者の思考を刺激する。
彼女の作品はいつも志が高い。楽しんで見ながらも、どこか背筋が伸びるような品格を持つ。
本作で描かれているものとは、近年のこの国や、おそらく世界中で起こっている「個人とシステムの対峙のすがた」である。
経済的・権力的に強い立場にある者が、一見礼儀正しくルールにのっとって運営されているように見えるのだが、自らの組織への要請に対して要求や改善を求める相手を「厚かましい無礼者」と一方的にみなし、対話や説明の一切を拒み、逆ギレ感すら漂わせながら、ただただ自分たちの要求を暴力的に押し通そうとする。
あるいは、異論や疑問を呈した者に対して、簡単に排除したり、罰したりする。
または、慇懃に頭を下げ続けるが、そこにアイデアや譲歩は何もなく、相手が絶句して黙り、諦めるのをただただ待っている、心の中では舌を出しているような謝罪。
組織的なものと対峙するたび、そのような対応がもはやスタンダードみたいになっている。
「ああまたこれか」と怒りと無力感を感じながらも、諦めて沈黙する他なく。
そういう思いをしたことのない人の方が、きっと珍しいだろう。
今では私は、たまに違う展開になったときには、びっくりして「ああ、ここに人間がいた、嬉しいなあ」って思うまでになってしまった。
立場を背負って相対している時、「人間でない人」は以前よりぐっと増えた気がする。
どうせ強い者の思い通りになるだけなのだから、闘っても無駄だ。
対話なんて効率の悪いこと、やってられない。
第一そんなことに時間を割いても、一円にもならない。
お金にならないことをするのは、無駄なことだ。
お金になるものには価値があり、お金を生まないものには価値はない。
そんな考え方が世の中のスタンダードになるということは、とても怖いことなのに、意識というものは目に見えず、だんだんと変わっていくものなので、さほどそのことを深刻にも致命的にも考えぬまま、ただ受け身で流されていく。
ふと気付いた時にはもう「そういう世界の中にいる」ということになっている。
作品は、近衛寮と大学との間で起こっていることの「構造」を見せて、私たちに問いかける。
ちょっと待って。立ち止まって何が起こっているかをいま一度よく見てみて。
ほんとうに私たちはそれでいい?
私たちはそういう世界に生きていたい?
犯人探しをして、その悪を叩きのめして、フィクションの中で小さく溜飲を下すだけでは、物事は何も変わっていかないって最近心底思う。
あらゆる創作物は、もうそういう小手先のガス抜きするようなものでなく、もっと人の深い意識に訴えかけるようなものであるべきだ。
もういい加減私たちは、次のフェーズに進まなくてはいけないタイミングなんじゃないのかなって。
この作品は、かりそめの気持ちよさを追求するのではなく、答えのない難しい現実から目を逸らさず、構造やからくりを明らかに見せる。
簡単な悪者もいないし、弱者側にある者に大いに反省の余地があるという点もしっかりと見せる。
板挟み状態で身動きが取れなくなっている人や、勘違いしてる人や。
誰もが他人には思いもかけない多様な事情を抱えていて、その結果としてその人がそのようにあるのだ、ということをただ見せる。
そして、そんな歪みを抱えた不完全な人と人が、心を開いて向かい合って話すことで、小さな化学反応が起こる。正直な思いを素直に話し合うことで、何かが始まり、変わってゆく。
システムは何重にも壁を張り巡らせて強固だ。
それに比べて、個人はあまりに小さく脆弱だ。
多くの問題は、ひとりではとても解決できないほどに複雑すぎるし、重すぎる。
状況的には全く勝ち目がないように思える。
ただ、そういうことは今に限らず、これまでだってずっとあり続けてきたはずだ。
ならば私が近年感じている、この強い焦燥感とは何なのだろう?
私は一体何を失いたくなくてもがいているのだろう?
どうしてこのごみだめのカオスみたいな学生寮を何とかして守らないといけないって手に汗握るように思うのだろう?
学生寮と、そこに暮らす若者たちの存在が、何かの砦のように私には見えた。
それは言うなれば、どうしようもない人間が許されて、安心していられる場所だ。
誰もが生きていていいっていう場だ。
役に立たないと、優秀でないと、お金を生まないと、生きていてはいけないって思うような世界に突き進んで、一体誰がハッピーになるんだろう。
人は誰しも歳をとり、病を得て死んでいくのだから、生きてる間じゅうずっと「生産性の高い人」なんて、どこにもいないのだ。
だから、お金と生産性のロジックで誰かを断罪したり見捨てたりすることは、自分で自分に呪いをかけているのと同じなんだ。
私は、自分のようなだめな人間が居ていいという場所をもうこれ以上奪われたくはないなあと思う。
人間ははっきり言って、全員だめなものなのだから、だめな人が安心して居られなくしてしまったら誰にとっても地獄でしかないよねって思う。
「失いたくない何か」をまだはっきり言語化できないけれど、そんなことをこの作品を見ながら考えていた。
それから、音楽について。
本作のエンディングは一風変わっていて、2度の合奏シーンで終わっていく。
「結局みんなで楽器をかき鳴らすことくらいしかできることはないのか、、、」と一瞬思うも、いや違う、ここには「こうありたいよねという世界」が立ちあらわれている、と思い直す。
さまざまな芸術の中で、一番早く、強く、広く届くものは音楽なんじゃないかと思っている。
実は音楽は変化の鍵を握っているのではないかと。
合奏って実にすごくて、一人ひとりがへなちょこでも、いやむしろへなちょこであるほど、その場にいる皆が存在はばらばらのまま、心を合わせて楽しんで集中して、その人がやれることでその人なりに音楽に加わることで、音楽に不思議な厚みや揺らぎが生まれ、聴く人の魂を揺さぶってくるということが、時に起こりうる。
そういうものを聴いた時は、なぜこれほどまでに感動するのか、訳がわからないという気持ちになる。
一流のプロの超絶技巧とか完成度とかとは全く別の次元で、素晴らしい生身の音楽って、あらゆる合理的、数値的なジャッジメントを超えてくる。
そんな音楽に出会った時は、あー奇跡みたいだなんて尊いんだろと思って、何も考えずただ音楽に身を浸し胸を熱くする。
うまく言えないが、人間が生きている喜びみたいなものって、わりとそういう形をとるものなのではないのかな、と思う。
誰より儲けたり、立派になったり、美しくなったり、得したりすることよりも。
合奏のシーンは2度ある。1度目は学生寮の存続を求める人たちのグループによる演奏で、2度目は、「ワンダーウォール 」が制作された後、この作品に関わったキャストやスタッフたちなども加わった演奏になっている。
喜びを広げる。
そこに誰かがどんどん加わっていく。
いろんな人が喜びのエネルギーに誘い込まれて巻き込まれていく。
上手くても下手でも、誰もが好きなように参加して、より大きく喜びを奏でる。
そこには音楽を介した喜びの連鎖がある。
そういう闘い方もあるのではないかと思う。