ここ数日の夜更け、布団に寝転がりながら読み進め、最後は鳥肌を立てながら一気に読んだ。
まだたまらない気持ちを引きずっている。
もう10年近く前になるけれど、友達が経営するNPOのデイサービスで、食事作りの仕事を数年間やっていた。
その時ほんの少し関わった何人かのお年寄りのことを、今でも懐かしく思い出すことがある。
100年近くを生きてきたそこにいた人たちには、誰一人例外なく、圧倒的な物量の固有の物語があり、それらを経た結実としての、その人なりの有無を言わさぬ世界観があった。
背骨も曲がってきゅうと小さくなり、もうあんまり目も見えず耳も聞こえにくく、一日中口をもぐもぐと動かし手をさすり、スローモーションのような鈍い動きでただじっと座っている。
そんな年老いた人の何気ないひとことから、とてつもない記憶の深淵を垣間見ることがあって、その片鱗に触れた時にはいつも恐怖を感じた。
自分が先の見えない黒々とした大きな洞窟の、光が届くほんの入り口に心許なく立っているみたいな気持ちになった。
その怖いような悲しいようなひれ伏したくなるような気持ちを、この小説はありありと思い出させた。
ひとつ言えることは、誰ひとりつまらない人間はいないし、大したことないと侮ってもいいような人もいないということだ。
誰もが否応なく抱えて生きている、途方もない量の歴史を。
それらはどうしようもなく残酷でいやらしいものと、泣きたいくらいに清らかで柔らかいものが渾然一体となっている目眩がするようなカオスだ。
こんなにもすごい物語を、彼らはもう誰に語ることもなく、自分の裡に抱えたまま近いうちに死んでいく。
途方もない物量のドラマが、特段誰にも伝えられることなく、日々、彼らの死とともに一瞬で消滅してゆく。
そのことが、私はいつもとても受け止めきれなかった。
とりあえず考えることをもうやめて、食事を供し、目の前のその人に相槌を打つのみであった。
折り返し地点をすぎた今では、死はもう他人事なんかではなく、その時に備えて少しでも心構えしていかなくては、という気持ちがある。
突然訪れたカケイの人生の最後。
浅ましいまでに最後の最後まで、持てる全てを使って生を味わおうとする心。
自分もいずれそのように死んでいくのだろうと思った。
日常の延長線上、落とし穴に落っこちて、あれ、もうだめな訳?みたいにして終わっていく。ぶざまで、中途半端に。そんなとこが順当なのかもと感じる。
死ぬまで知らないことばっかりだし、それでも見ようとし、知ろうとし、分かろうとし続ける。
人は、途上のままどこかきょとんと死んでいくものなんだろうと。
それは、好むと好まざるに関わらず受け入れるしかないことだが、それほど悪くないことのように私には思える。