昨日は一日中豪雨で、市内には警報も出ていた。
前日の仕事の疲れもあって、大人しく家にいて整える日になった。
夫氏や娘氏ともだいぶよく喋った。
ほんとにだめなことだなあと思うんだけど、私はのんびりすることをなかなか自分に許可できない。
天気と生理で動けなくなった時だけは、今日はしょうがないよね、と堂々と自分を許せるから、強い雨降りの音が寝床で聴こえると、ふわっと嬉しい気持ちがこみ上げる。
今朝近所を散歩したら、この辺ではすごく珍しいことだが、あたり一面霧で真っ白だった。
家々の庭の草木全部がたっぷり雨を吸い込んで、もうお腹いっぱいみたいに朝日を浴びて眩しい水滴をしたたらせている。
これから夏に向かってぐんぐんと空に向かって伸びてゆくんだ、という勢いがみなぎるさま。
自然は分け隔てなく、全部ただで与えてくれる。
これほどまでにあらゆるものをお金で買う世界に生きていると、自然のありようってなんて素朴で気前がいいのだろうと思う。
もう夏はすぐそこ。
だいぶ仕事にも慣れてきて、しばらくは根をあげる気配もなさそうだから書くが、今、自然の中で働いている。
ここから車で30分ほど内陸にある農家で働き始めてそろそろ3ヶ月。
メンバーが気さくで真っ直ぐな人たちばかりなこともありがたく、今のところ楽しく働けている。
ていうか、今までいろんな仕事をしてきたけど、これまでになくしっくりきている。
風を感じて、鳥の声を聞きながら、自然のありさまに何度も小さく驚きながら、淡々と働くことの楽しいこと。
体力的に無理をしすぎないことは前提だが、農業が暮らしに組み込まれることで心身のバランスがぐっと良くなっていると感じる。
農作業をすることで、何かをリリースしているような感覚がある。
肉体的には疲れても、仕事をするために自分を曲げたり自分をないがしろにする必要がないのは清々しいことだ。
こないだ、枝豆のパッキングをしながらYさんという若い女性の社員さんと雑談をしていたら、自然とこんな言葉が口をついた。
私もYさんみたく、もっと若い時に自分が農業が好きかも、わりと向いてるかもって気付きたかったな。
都市部の生まれ育ちで、サラリーマン家庭でごく一般的な学校教育を受けて、大学行ってっていう流れで来てしまうと、身近な環境に農業がないかぎり、農業という選択肢をそもそも思いつきもしない。
若い頃は、どっかの企業に入ってオフィスで働くもんなのかなという漠然とした貧困なイメージしか持てなかったんですよね。
そしたらYさんはこんな話をしてくれた。
いやいやー、私は農業に理想とか思いとか特になくって。
むしろ動物が好きだったんです。
絶滅危惧種っているでしょう。神奈川にも来るんです、絶滅危惧種の渡り鳥。
当時美容関係の仕事をしてたんですけど、休日にその保護活動に参加してみたんです。
耕作放棄地に彼らの餌場をつくる活動をネットで見つけて、三浦半島の山奥の耕作放棄地にとりあえず行ったんですよ。丸腰で。
都会のOLで自然をなめてましたから、町歩き用の靴で、食べ物はコンビニで適当に買えばいいやと思って手ぶらで。
そしたらコンビニどころか見渡す限りなんもない草ぼうぼうの森で。
作業はひたすら重労働で、なめてた自分が恥ずかしくて「いや大丈夫っす」って平気なふりして他の人からの食べ物も断って作業してたら、空腹と脱水でだんだん体が震えてきて。
生まれて初めて飢餓状態ってものを体験して、すごいびっくりしたんですよね。
ほうほうのていでその日を終えて、駅前で蕎麦をかきこんだら、信じられないくらい美味しくて!
すっごい食べ物が体に染みていくし、何もかもどうでもいいって思えるくらいシンプルにただ幸せを感じて、その時。
何これ、こんなシンプルなことなわけ?って思って。
色々努力してもっと成長しなきゃって頑張ってきたのに、そんなことしなくても、自然の中でめいっぱい体を動かして、死ぬほどお腹が減って、それでご飯食べたら全部解決したみたいな気分になるなんて。
その日は気絶したみたいにぐっすり寝て、ああ、自分はもうこいうことして生きてこうって思いました。
なんの立派な動機とかもなく、そんなちっちゃい自分だけの話なんです。
いえ、すごく強い原体験だと思います、と私はすっかり感心して答えた。
身体感覚というものから遠く切り離されている、都市に生きてる私たち。
さぞ強いインパクトだったろうし、そうして体が教えてくれた実感の確かさに従って生き方を方向転換できるって素晴らしいことだと思った。
なんか聞いててふつふつと嬉しくなる話だった。
農業のような仕事の何がいいって、人がどこまでもすごくなることを求められないこと、そして、一番の決定権を持つのが自然だということだと思う。
農業って、共に作業する人が一人多いってだけで、つまりそこに私がいるだけで、確実に役立てるのだ。
じゃがいものコンテナを1人で持つのと2人で持つのでは、しんどさは3倍違うし、除草作業だって、1人で黙々やるのとみなで楽しくおしゃべりしながらやるのでは、作業の速さもしんどさもだいぶ違う。
どこまでも効率化していろんなことを1人が兼務できるようになるのを求められる、常にスーパーマンと比べられ、すごくなれない自分を努力不足と責められる。
そんな絶望的なスパイラルに巻き込まれて、自分をみそっかすのように思う仕事はもうごめんだと思う。
勝手にやってろと思う。
一緒に働く仲間に、19歳の青年がいるのだけど、彼が何かの折に強い目をして
「俺は自分にやれること以上のことは絶対にやらないって決めてるんです」と言っていた。
うんうん、そうですよね、と同意した。
彼も娘氏のように、学校に行かない選択をした人だ。
これまでに色々あったんだろうな、と思った。
人間の肉体には、やれることには限界がある。
一所懸命汗かいてその人なりにまっすぐ頑張った。
それだけでは全然足りないと言われるような場所には、自分の身をもう置きたくないなと思う。
私はもう、無理してガツガツバリバリやるような時代は終わっているので、この農業の仕事では、普通に頑張り、一緒に過ごす仲間と出来るだけ楽しく仕事したい。
やってたら色々楽しいばかりではないことは起こってくるとは思うけれど。
決められたお給料がきちんと支払われ、最低限の尊重が守られていれば、もうそれ以上のリクエストは今のところあんまり思いつかない。