みずうみ2023

暮らしの中でふと心が動いたことについて書いています

呪いを解く、意識が変わる

情報に溢れた環境の中で多くの人と同様、私も日頃からいろんなものを見聞きしたり読んだりしている。

とはいえ限られた時間で、何を特に好んでフォローしているだろう?

私が興味を持っている人たちにはある共通点があることに思い当たる。

それは何かの答えを教えるのではなく、「呪いを解く」ことで、結果的に人々の意識の変化を促している人たちだということ。

 

宗教もコーチングもあらゆる集団も苦手な自分がコミットできるものはそうは多くはない。

改めて考えてみると、何となくいくつかの基準を自分の中に持って判断してきたように思う。

それは、例えばこういうこと。

 

ひとつには、物理的な必要経費は別として、その人の言論や活動を、お金と引き換えにしないこと。

逆にこれが無料って一体どういう仕組み?みたいなことも疑わしい。

要は言論や活動自体をビジネスモデル化していないこと。

その言論なり活動なりをする人自身が、損得抜きでどうしてもやりたいから、やむにやまれぬ思いでやっているというのが動機であり、そこからずれていないこと。

はじまりは純粋な原体験でも、お金と権力の魔力でだんだんとずれて変容してしまうことはこの世あるあるなので(ほぼ日とか)、折々確認が必要なことではあるが。

 

それから、ある種の正しさや答えを断定的に上から教えるのではなく、「あくまで自分の場合は、自分の経験上ではこうだったんだけど、How about you ?」というフラットな姿勢があること。

つまり、自分が正しいとは限らないし、自分が知らなかったり分からないことはいっぱいある、という留保の態度があるかどうか。

 

そして、事実関係を何かに忖度せず率直に言うことはむしろ大事だが、いたずらに不安や恐怖や憎しみを煽ろうとしない、安易な「犯人探し」をしないこと。

 

私の場合は、こういう基準を意識することで、信頼できる人がより明確になり、人をコントロールしたり騙そうとするものからは一定の距離を取れているように思う。

 

話が逸れるが、私にとってのTwitterって、要するに上に書いた基準でカスタマイズ した私個人のポータルサイト(多様な情報への入り口)なんだ、なるほどねーとこうして書きつつ今気付いた。

ヤフーなどの検索エンジンポータルサイトをデフォルトのまま、デバイスのホーム画面にしておくのはとても怖いこと。

ちなみに、私のPCの検索エンジンは、Ecosia。広告はなく、ユーザーの個人情報を売られたり利用されたりしない。企業利益の80%は木を植える非営利団体に寄付されている。

大げさと思うかもしれないけど、私みたいに心が弱くて注意散漫な人間には、大手ポータルサイトはあまりに情報の質が悪く、ただただ無駄に時間を奪う代物だと思う。

 

そしてFacebookInstagramはやっぱりあまり興味が持てないみたいだ。

リアルな関係も伴うなら問題ないと思うが、ネットだけの繋がりの場合「人に見せたい/誰に見せても大丈夫な」SNS的自己での人と表層的な関わりは、知らず知らずのうちに自分軸をずれやすくさせるのではないかと思う。

まあ、これは私が自分に自信のない弱い人間ゆえのことなんだけど。

intentionは、気がつくと見失われてしまっている、本当に忘れたりずれたりしやすいものだ。

だから、守るためにはその人なりの工夫が必要だと私は思っている。

 

Twitterでフォローしているのは、それぞれの専門分野の知見を持つ人や、さまざまな分野の当事者として自分の経験を発信している人などに加え、好きな映画関係者、ミュージシャン、作家など。

信頼に値すると感じられる人を時間をかけて見極めて、違和感が重なればフォローを外すこともあるし、なんだかんだでこまめにブラッシュアップしている。

エコーチェンバーを防ぐ意味で、異なる世界線の人をあえて混ぜ込んでいくことも一応意識的にやってはいるが、もちろん不十分だとは思う。

不正確なことをうっかり信じ込んでしまうようなことも時々起こる。

そのたび恥じ入り、正確でないことを誰かに伝えてしまった場合は謝るしかない。

 

 

話戻るが、自分自身を含めた世界を心地良い優しいものにしたいと願った時、肝となるのは何かと闘ったり、悪を叩きのめすことではなく、私たちの意識を解き明かし、省みること。それをその人に合った表現でアウトプットすること。

遠回りのようだけど、それが一番重要かつ省略してはならないプロセスなんだろうと最近よく思う。

 

結局、形式を変えたり、正論で外側を固めてみても、「何のためにそれをするのか」という人々の意識が広く共有されていなければ、物事は何も変わっていかない。

一人のすごい人、カリスマ性のある人が、何か良いことや新しい試みをやって、その時はそのすごい人を中心としたある意味でのお祭り状態が起こって、いろんな良いことがわーっと進むのだけど、その人がいなくなったら変容したり、元の木阿弥になってしまうような例は身近にあふれている。

 

身近な例を挙げれば、私の暮らす街で通知表を廃止した小学校の校長先生がいた。

随分話題になり、ドキュメンタリー映画にもなり本も出版され、その先生はあちこちで教育を語る講演会とかして。

けれど、私の住む地域では校長先生って定年直前の花道みたいなポジションで、2、3年で交代することが多い。

すると交代して3年後にはもう、通知表が復活することになったとこないだ聞いて、がっくりしたところ。

権力のあるポジションを活用して個人が力技で何かを変えてみても、皆と意識や考え方を共有せず、後継を育てなければ、どんな取り組みも継続は簡単ではないという残念な一例。

 

人々の意識に地道にアプローチし続けること抜きには、なかなか社会は変わっていかないし、逆にいえば意識が変われば一気にひっくり返りもするのだろう。

それが平和を志向するものであれ、戦争を志向するものであれ。

 

権力や金や支配を欲望するあらゆる者が自己利益のためにやることとは、人間を型にはめて規格化し、思考停止させて無力化すること。

国家権力から宗教から学校や会社や家父長制まで、おしなべて大体そうである。

従順で大人しくさせる。

そうすることで管理と搾取を容易にする。

そんなことは本来、誰ひとりされたくないはずなのだけど、その無理を通すために編み出されたさまざまな手練手管のことを「呪い」というのだと思う。

 

だから私たちは、幸せになるためには、各種呪いから解き放たれなくてはならない。

ものごとは受け止め方ひとつ、というような安直な意味ではなくって。

「それは呪いである」ということを知ることを機に、自分の言動が変わり、何かをやめたり始めたり、誰かとつながったり離れたり、あらゆる関わりが変わってくる。

そのようにして自分を取り巻く環境が変わり、その結果として、意識が変わる。

意識が変わるのは最後だ。

 

そのプロセスに向かうためのコツや工夫を、自分の経験に基づき、自分自身のアートを通じて惜しみなくシェアする。それを楽しくその人なりにやっている。そんな人たちを私はいつだって応援したいし、関わっていきたい。

確信的に人々の意識にアプローチしている人たちは、彼らの生業を通じて世界を良くしたいという意図を持っていると思う。

私も、スケールは小さくともそういう構えを持つ人でありたい。

 

けれども、究極的には、全員先生なんだよな、とも思う。

そう、私たちは助けられるだけではなく、自分でもそうと気づかぬうちに、誰かを助け、励ましている。

人が自分のまま正直に堂々と生きて、自己開示し、その生きざまを世界に見せていくことが、誰かの助けや学びに繋がっていく。

何がどう功を奏すか、何が裏目に出るかは誰にもコントロールはできない。

一方的に与えるだけの者も与えられるだけの者もない。

一方的では長くは続かない。続くからには、何かしらの相互的な循環の関係があるのじゃないかなと思う。

 

そして、全くのオリジナルな考えなんてどこにもない。

どんな思想も、誰かの専売特許ではない。

今あるどんな考えも、多分千年前に存在している。

だから、ある思想を自分のものだと囲い込んでビジネスモデル化するなんてことを思いつくケチで了見の狭い者は、信頼には値しない。

宗教やスピリチュアルに高すぎるお金を取るのもやっぱりおかしい。

個人的には、その時点で、ほなさいならという判断でいいのでは、と思っている。

 

 

ここ数年、心動かされる映画が、「人間性、ヒューマニティーをなんとしてでも死守する」をテーマに据えていることが多いと感じる。

効率と合理性という名の管理と搾取から解き放たれて、一人ひとりが最大限人間くさく、めんどくさく、割り切れない存在になっていくこと。

それが、今の時点で漠然と抱いている、私なりの「呪いを解く」イメージみたいだ。