みずうみ2023

暮らしの中で出会った言葉や考えの記録

「話が通じない相手と話をする方法」①(私たちのイデオローグ化)

 

2024年/ピーター・ボゴジアン、ジェームズ・リンゼイ著/晶文社

 

「私たちの時代が示している最も痛ましいーーそして危険なーー兆候のひとつとは、まっとうな理由をもって私たちの見解に反対しうるような人など誰もいない、と考える様な個人なり集団が増えているということだ。 ーートーマス・ソウェル

私自身も含め、情報、思想のエコーチェンバー化が至るところで強まっている。

自分にとってはちょっとぎょっとするような言説を、自明のように語る人が以前より明らかに増えている気がする。

逆もまたしかりで、私にとってはごく自然と思えることが、他者にとっては不自然なんだな、と反応から感じることもある。

 

しばらく前に友達と昼飲みした時に、その中の一人(普段社会問題の話とかを全くしない人)が「川口って大変なことになってるらしいよねー。クルド人が病院で暴れてたりするじゃん」というようなことを普通の会話の延長線上で言い、隣に座っている友人も、あー知ってる知ってると同調していて、言葉を失ったことがあった。

虚を突かれて言葉が出ず、とっさに聞けたのは「それ、何で知ったの?」という質問だけだった。

すると彼女は「え、TikTokだよ」と言った。隣の友人も「わたしも」と同意していた。

複数回同様の投稿を目にしたのかもしれないが、たった15秒の動画で見たことを抵抗なく社会的事実だと認定してしまえるということに、ちょっと愕然とした。

同時に、自分だって無自覚のうちにあっさり信じ込んでしまっていることは当然色々あるのだろうと思って怖くなった。

何よりその友人たちは、どちらも長年知っている、とても良い人たちなのだった。

 

 

ちなみに「クルド人が病院で暴れている」というのは、2023年7月に川口の市立病院でクルド人約100人が集結し、激しく抗議をしたという事件のことと思われる。

衰弱状態にあり、医療を求めたひとりのクルド人に対し、入管が治療は不要と病院に回答、強制送還の手続きを進めたという冷酷な仕打ちに対する同胞たちの抗議だった。

 

どうして入管は、クルド人であるために病人を助ける必要がないなんてことを医療機関に命じられるのだろう?

当たり前のことだが、難民は犯罪者ではない。

政治の圧政によって、祖国に暮らすと命が脅かされる危険があるから仕方なく外国に避難してきた人たちだ。

私たち日本の社会が彼らを「不法難民」と勝手に名付けて、犯罪者扱いしているだけだ。

そして、さらに当たり前のことだが、仮に犯罪者であったとしても、その人は法によって裁かれるべきで、どこかの誰かが「医療を受けさせない」なんて言う権利はない。

絶対にない。

もし、自分の家族や友人が外国で同じ目に遭って、全く法的に守られていない弱者だった時、私も大声で担当者に掛け合って抗議するしかないだろう。

日本の入管がやっていることこそが「犯罪」なのだし、彼らの人権意識のあり得ない低さを恐ろしく思う。

自分の生きる社会が、誰かが誰かに医療を受けさせないことが起こる場所だなんて、情けなく思う。

 

調査報道によると、事件に至る以前からそのクルド人に対する入管の対応は極めてひどいものだった。

もちろん全部を把握しているわけではないが、時系列の事実を追ってみだけでも、入管によってその人が相当ぎりぎりのところまで追い詰められていったことは想像に難くない。

 

「なぜ彼らはそのような行動に至ったのか」を全く想像することなく、与えられた情報をただ鵜呑みにし、狂った無法者が暴れている、良識的な日本人には理解不能な人々なんだと、非常に短絡的に解釈しているということに対して無自覚であることは、とてもあやういことだと思う。

そしてこの時に限らず、時折こうした偏見を感じる言説に出合った時、自分も実際に見てきたわけではない以上、断定的に何かを言い切ることもできず、とっさに言える言葉も見つからず、ただ黙って聞くことになってしまうことに、いつもやりきれなさを覚えてきた。

 

個人の受け止め方だけを責めたいのではない。

もちろんメディアのありようがこうした状況を煽り、加速させている。

昨年、やっぱり別の知人が「クルド人が病院で暴れて日本のコミュニティを脅かしている」と雑談の延長でいきなり口にして、たまげて、この事件のことをもっと知りたいと思って調べたということがあった。

すると、検索上位の大手の新聞メディアを含めた大半のメディアは「100人のクルド人が大暴れ」「そのために救急の受け入れが滞った」「在日外国人の暴走に住民は恐怖」という切り口で一斉に報じていた。

この悪意に満ちた中立性を欠いた報じ方って一体なんなのか。これを報道と呼べるのだろうかと怒りを感じた。

皆多忙だから、見出しと簡単な概要だけでこういうものをすっと間に受けてしまう人も、少なからずいることだろう。

無責任で不誠実なメディアのありようは、とても罪深く怖いことだと思っている。

 

事実関係の裏付けをし、関係者への直接取材によって構成された署名付き調査報道に辿り着くまでには少し時間を要した。

質の悪いメディア情報に踊らされないためには、めんどくさくても日頃からメディアリテラシーを意識して、注意深く情報に接する以外ない。

それでも必ず間違う。

むしろ大事なのは、自分は必ず間違うし、正しいとは限らないと肝に銘じていることなのだろう。

 

 

話が長々逸れたが、「私たちは考え方や世界観が極端に異なる人とどう話せばいいのか」。

それは、誰にとっても重要度の高い問いであると思う。

この本は、根底を支える考え方を授け、実際的なスキルを提案している。

私はひとりで学校で講義を受けているみたいにして、毎日1章ずつ、メモを取りながらこつこつと読んだ。

初級だけでも読んでおくと、生きていく上でだいぶ役立つのではないかと思う。

 

主義主張が異なる人との会話の方法は、習得すべきスキルであり、真剣に考慮されるべき習慣である。

(中略)

分断と二極化が著しく進んだ私たちの社会では、考えが極端に異なる人との会話はもはや避けがたい。

そうなると目標は、不可能な会話をどうにか避けようと願うことでも、異論が突きつけられたらこそこそ陰に逃げ込むことでもない。

むしろそれを好機にできるようになることだ。

(「話が通じない相手と話をする方法」本文より)