先日、友達からスピリチュアル心理学をベースにしたこんなワークショップをやりたいと思っているんだけど、どう思う?と相談を受けた。
それは、自分のこれまでの人生をさかのぼって、自分の魂がやるべきことを見出すためのワークをグループセッション方式で同じメンバーで継続的にやる、というもの。
それから、今の社会が抱えている課題や人々を生き難くさせている要素をどう捉え、向き合うかについてのアイデアをシェアすることも含まれる。
たとえば今は、多くの女性が女性性を受け入れられていないし、多くの男性も男性性を受け入れられていない。どちらも倒れてしまっている。
それらが意識化され、受容され、回復されることで、社会はより優しくて生きやすい場所になると思う、と彼女は言う。
なるほど確かになあ〜。
自分も女性性をあんまり受け入れていない気がする。
少なくとも「女であることを積極的に楽しんでいる」という感じではないな、と思う。
巷の人々の装いを見ていても、ギャル的でなくセクシーな女性ってだいぶ少ない。
トレンドもあるが、露出はもちろん、身体のラインを出す服を着ている人からして少ない。
男性も、今人気のある芸能人やアイドルはみな、線が細くて色白で顔も手足も毛が生えてなくて、柔和なイメージだ。
この社会は性差を強調しない方向に向かっていくんだろうな、と漠然と思っていたから、「女性性と男性性はいかにして回復されるべきか」という問いは新鮮で、大事な論点を含んでいると感じた。
そして、魂のやるべきこと、と言ってしまうといかにもスピリチュアル的なのだが、「この短い限られた人生における自分なりのミッションや展望」と言い換えれば、私を含め、多くの人が関心を持つんじゃないかなと思う。
だから、すごくいいね、ぜひやったらいいと思うと素直に伝えた。
「私たちもうだいぶ生きてきて、貢献するフェーズに入っていると思う。そして私にはそれができる、って信じて動くことで、関わる人も人生のステージも変わり、より深い層に行けるのだろうと感じる。だからチャレンジしてみようと思って」と彼女は言った。
ところが。
むううー、ここからが考えどころで。
2時間半のワークショップの価格設定を、友人知人からは1回1万円、新規の人からは1万5千円もらおうと思う、と彼女がさらっと言ったので、「おお」と思ってとっさに言葉が出なかった。
私はまったく疎いが、スピリチュアル的な分野においては、きっと普通の価格設定なのだろうと思う。
精神世界系の学びを得たいと思ったら、大体それくらいのお金を払うもんなのかなあと。
実際、彼女はこれまでそういうものに対して惜しみなくお金を払ってきたのだろうなと、話の端々から感じる。
継続的に寄付したい団体があること、「豊かさを受け取ることも大事かなと思う」と彼女は言っていた。
ワークショップは少人数だし、彼女は裕福な部類だし、変にお金儲けしたいってことではないのはわかる。納得性の問題なんだと思う。
もとより、他人がとやかく言うようなことではない。
対象やジャンルがなんであれ、双方が納得して成立していることに何も問題はない。
その場では例によって「そっかー、スピリチュアルってやっぱそんな風に高いんやなあ・・・」とぼーっと思いながらふむふむと話を聞いて終わったのだけど、夕飯を食べながら家族にそのことを何気なく話したら、かなり驚かれた。
娘氏は「おおー強気だね・・・半年で6まんえん・・・1年で12まんえん・・・」と呟き、普段、私がやることを直接だめとはほとんど言わない夫氏には「いやちょっと(参加するのは)さすがにかんべんしてね」と念を押すように言われてしまった。
はっ、そうだ、私そういう経済圏で生きてる人じゃなかった、と我に返るみたいに思ったのだった。
帰省以外の家族旅行なんてもう10年レベルで行けてないし、実家のサポートなしには子どもたちを送り出すこともできなかったんだった。
友達が、誠心誠意向き合ってその人の助けになるように一所懸命なこと、そこには深い喜びがあるのだろうことは確かで、心から尊いことだと思う。
彼女のやりたいことに対して低い価値を付けたいわけではまったくない。
でも、生活者としての自分の経済感覚と大きなギャップがある。
普段あれこれ頭を悩ませながら食材を買ったり、少しでも安いガソリンスタンドへ給油しに行ったりしている自分にとっては。
農園でいちんち汗みどろで働いても、1万円は稼げないことを思う。
結局、原価計算が可能なような明確なモノが売る対象ではない場合、その人自身の経済感覚に基づいた納得性でもって値段は決まるし、その価値観を共有できる人とのやりとりになってくるということなのだろう。何事も。
金銭的にしんどくてコミットできない人がいるのは、もう仕方がないことなのだろう。
とりわけ「プラスアルファ」の分野については。
(ただ、今のこの国では、人の基本的な営みに属する分野においてさえも、高すぎる値付けがなされ、それをまかなえない人たちが排除されているのは問題だと思う。
何をするにも、どこへ行くにも、何をするにも、全てに細かく課金される。
お金がないと、物質的な豊かさだけでなく、あらゆる経験の機会、移動の自由、学び、生きる上で多くの可能性が閉ざされる。
基本的人権を守ろうとする感覚が希薄なことは、この国を停滞させている要因のひとつだろう)
もう一つの論点として。
私も小さい場を作っていることもあって思うのだけど、こと精神的な助け合いって、本当に相互的なものと思っている。
相手が何かを受け取ってくれたら光栄だけど、なんの保証もないし、やる中でいろんなめんどくささや傷つきがあっても、明らかに自分も受け取っているという自覚がある。
自分がやりたいからやっている。
本当はあらゆることは相互的なものなんだと思っている。
片方だけがありがとうと言われるということには、根本的に違和感がある。
対等というわけにはいかなくても、お互いを生かしあっている要素はめちゃくちゃあると思っている。
臨床心理士の河合隼雄さんが「私はこの仕事をしていなかったら気が狂っていたと思います」と言っていたけれど、それが何を意味するかというと、彼には「助けさせてくれる人」がどうしても必要だったということだ。
だからって何でもかんでも無償であるべきと言いたいのではもちろんない。
誰かが誰かのために人生の時間を割くということ。
何かしらの専門性を持つ人がこれまでに時間とお金をかけて得た知識や技術や才能を用いて誰かを助けるということ。
当然対価やリスペクトが払われるべきだろうと思う。
そして、多くの人が何かを職業としてお金を得て、生活者として経済的に成立して暮らしていかなくてはならないという現実がある。
資本主義のサイクルの中にあって、そうしたことを度外視することはできない。
ただ、今はお金のやりとりだけがあまりに大きな価値基準になってしまっているが、価値ってそれだけじゃないでしょと思う。
目に見えないもの、数値化できないもの、一定の基準で査定できないようなものなど、お金に関わらないけれど、かけがえのないものがある。
本当の豊かさはそういうものの中にこそあると思っている。
第一、何に価値があって何に価値がないとかいうこと自体、おこがましいことだ。
だから、相互性に無自覚なことには、どうしても違和感がある。
さらにもう一つの論点。夫氏の所感。
「フェリーニの『8 1/2』って、どれだけ裕福で社会的地位もお金も得ようが、どこまでいっても何かが満たされない人たちの話だよね。
ああいう風に、人間の欲望や悩みって尽きないものなんだと思う。
マズローの欲求5段階説みたいに、ひとつ欲求が満たされたら、次の段階の欲求が生まれて、それも満たされたらさらなる高次の欲求が生まれる。
精神世界のことを一所懸命やっている人たちっていうのは、あのマズローのピラミッドの一番上の小さな三角の部分でぐるぐるやっているという感じがある。
きっと、どこまで行ってもきりがないんだよ」
マズローの欲求の最上位に来るのは、自己実現の欲求であり、精神的内的成長を求めるという傾向を持つ。
しかし、晩年のマズローは、6段階目の欲求をピラミッドに付け加えている。
それは自らのエゴを超えたい、自己超越の欲求であり、他者や社会など自分の外側にあるものへ貢献したい、という欲求。
エゴを超えたい欲求って、そもそも語義矛盾してないか?とも思うのだけど、友達はまさに「貢献したい」って言っていたのだから、ピラミッドの一番高層階の欲求に動かされている、ということになるのかもしれない。
だとしたら、私たちは出来るだけ日々を幸せに生きるために、どうあるべきだろう、と改めて考えさせられる。
欲望を野放しにし、悩みの解決を求めることにきりがないのだとしたら。
今の自分が思うのは、何が正しく適切かなんて誰にも分からないのだし、絶対的な正解は存在しないということ。
だから、せめて他人軸で生きないこと。
誰もがそれぞれの推し活に好き好き邁進するということを、互いに尊重できたらいいね、それくらいのこと。