
公開に先立って情報公開された際に、林眞須美死刑囚の息子さんへの脅迫が激化し、公開が危ぶまれたこの作品。
なんとか公開にこぎつけられて何よりだった。
どんな表現であれ、ヘイトには屈するべきじゃない。
足を使って取材を重ね、慎重に事実を炙り出していく、地道でまっとうなジャーナリズム精神を感じる労作だった。
日本のドキュメンタリーには珍しく、ナレーションがないのも良かった。
監督自身が言っている通り、この作品の中で語られている驚くべき事実たちは、これまでに他のジャーナリストや、関係者や研究者たち、何よりも本作の監督自身によって週刊誌メディアや動画作品によってすでに公にされており、その中のいくつかの事実は裁判の俎上にも乗せられている。
つまり、映画において初めて語られたことは、ほとんどない。
よって大島新氏の「この映画はスクープだ」というコメントは正確ではない。
だからと言って、じゃあ大したことはないというようなことではもちろんなくて、むしろ逆だと思う。
さまざまな根拠を提示して冤罪をなんとしても訴えたい、この作品はそれだけではなく。
この事件を取り巻く人々、のみならずこの事件を見聞きした全ての人々に、どんな感情の力学がはたらいていたのか。
警察や司法が、実はどれほど特定の誰かの都合と恣意的な感情に突き動かされて歪められうる、不完全なシステムなのか。
「一体、なぜこんなことになってしまったのだろう」。
作り手はおそらくそれを、シンプルに、とても知りたかったのだと思う。
この事件は、ジャニー喜多川による少年への大規模性犯罪事件を思い出させる。
これはさすがにありえないというレベルの事実が一定の人々の間で共有されていてもなお、なぜか長い間社会にはスルーされてきた。
メディアが植え付けたイメージを鵜呑みにして、それ以上のことは皆あえて知ろうとしなかったし、関心を持たなかった。
司法によって正当に判断されたものらしいから。誰もそれ以上のことは考えなかった。
それが、長い年月を経て一定の権威や信頼性のある形態で、改めて正面からものごとが語られると、突然目が覚めたみたいに騒ぎになった。
和歌山カレー事件を改めて検証することは、人間のうんざりするような側面をあらわにする。
私たちがいかに不確かで間違ったものをあっさり信じ込んでしまうか。
どれだけ人が自分の信じたいストーリーや先入観に固執し、そこに現実を寄せたがるものなのか。
ろくに調べも確かめもせず、多数派であることをもって正しいと信じて居座ってしまうか。
何であれば破れかぶれでも無理筋でも守ろうとし、何であれば当事者の話さえ「嘘」として、あっさり残酷に切り捨てるのか。
司法システムや鑑定家が、悪意をもって一人の人間を陥れたというよりは、彼らが長いものに巻かれ、自分たちの職務に対する倫理的な責任感覚を何かに明け渡してしまった帰結であることが、作品を通して可視化されている。
自分の恣意的な判断やほんのささいな作為が、どんな取り返しのつかない結果を引き起こすのか。
人ひとりの人生を破滅させるということが何を意味するのかということへの想像力や畏れというものがすっぽりと欠如している。
人の生死を分ける重大な判断であるにもかかわらず、その責任というものに近づくほどに、その中心に不気味な虚無が立ち現れてくる。
どんなに声を枯らして叫んでも、あらゆる声を吸いこんで沈黙しているような、寒々しい空洞のような虚無。
冤罪というものは、多かれ少なかれこのような構図の上に起こるのだろう。
最もおそろしかったのは、司法や警察や鑑定といった、きわめて実際的かつ公平にものごとを判断すべき立場にある人々が、本来の職責や人としての倫理的責任よりも優先しようとしたのが、メディアが煽動して作り上げた“世間”の集合意識が生み出した、「異論を許さない空気」であったこと。
そして、人がそういう逸脱や判断の誤りを起こす背景には、虚栄心と熱狂といった卑近な感情が常に存在していること。
虚栄心と熱狂は人を容易に狂わせる。
人間心理のそうした弱点は、言うまでもなく戦争とつながっている。
熱狂の渦の中で、いろんな矛盾が不問に伏されてすっ飛ばされ、うやむやにされ、ひとりの人間が死刑判決に追いやられた。
20年越しの気まずい事実を前にして、その判定に責任を持つはずの関係者たちは、カメラの前からひたすらに逃げ続ける。質問者と言葉を交わすことさえ拒否する。
ひとりの人間を死刑に値すると判断した根拠について、堂々と語れる人が、まともな説明責任を果たせる人が、どこにもいない。
そのことをもってしても、林眞須美さんが公平なルールに則って裁かれなかったことは明らかだ。
その事実を、取材を断られ続ける監督自身の姿を通して作品は淡々と見せている。
「後ろめたい者たち」は、最終的には不法侵入で監督を訴え、監督は警察で取り調べを受けることになる。
そのようにして林眞須美さんを犯罪者に仕立て上げた人々によって、本作の監督は〈新たな犯罪者〉に仕立て上げられた。
権力は、個人に対してそういうことをする。
和歌山カレー事件は、被害の規模・深刻さと動機の不明さによって特筆すべき事件だけれど、この事件に対する人々の言動と対処は、なにも特異だったわけではない。
むしろ、この社会が繰り返してきたパターンを忠実になぞっている。
だから、このようなケースは、冤罪は、おそらく氷山の一角なのだ。
人間社会においては、ある状況が整えば、しばしば起こりうることなのだ。
カメラの前から逃げる人々の心の声ってつまりこういうことだ。
もういいじゃん、終わったことなんだから。
もうあいつが犯人ってことでいいじゃん。
そうすれば全部丸くおさまるんだから。
そういう心が、誰にもある、私にも。
自分がそんな人間だとは誰も認めたくないから、さまざまな正当化がなされるのだし、自分は「そっちの側」の人間ではないから大丈夫と安心したいがために、人は人を区別する。
その心の動きのことを差別という。
この人は自業自得。
あの人にそこまでしてやる必要はない。
彼は気の毒だとは思うけど、全体のためには仕方ない。
あなたは自分で何とかするべき。
そのようにして、ひとり切り捨て、ひとり見捨てるごとに、私たち自身の首がじわじわと締まっていく。
だって、切り捨て続けることで、全体はどこまでも目減りしていく、その母数が減った中でまた誰かを切り捨てることを繰り返し続けるのだから。
そしてついにある日、自分が見捨てられる側に回る日が来る。
自分さえ良ければ関係ないと思い、誰かのことを明日は我が身とは思わず、マイノリティーや弱者をあっさり切り捨てる社会で日々起こっていることである。
この作品は、そんな人間世界の宿痾をはからずも浮き彫りにしていた。