みずうみ2023

暮らしの中でふと心が動いたことについて書いています

違うことは敵意ではない

先日、娘氏が友人に会うために単身で大阪旅行をした。

ネットで自分で調べて新今宮の安宿をとったと聞いたのは、出発の1日前。

なんでまた新今宮、まあ安いからか。

自分が記憶している限り、そこはあまり治安の良いエリアではないから夜の外出には気をつけるんだよ、と言って送り出した。

慌ただしくも楽しい旅行になったようで何よりだったが、帰って数日後に「そういえば」とこんな話をしてくれた。

 

その安宿は、個室にお風呂がなく、代わりに最上階に大浴場があった。

初めてのことで、娘氏がちょっとびくつきながら深夜の大浴場に行ったら、浴槽のへりにふたりの外国人女性が服を着たまま並んで座っており、じっとこちらを見つめてきたのでびっくりした。彼女らの他には誰もいない。

おそらくタイやベトナムなどの東南アジア圏の人で、足湯のように足首から下だけをお湯に浸けていた。

 

娘氏は一瞬固まるも、人前で服を脱ぐことに抵抗がある民族もまあ当然いるだろうなと考えた。

それから、旅でホーチミンを訪れた時のことを思い出した。

あの時も、街角に立つ人がてらいなくまっすぐ自分に視線を向けてきた。

でも、道を聞くなどして言葉を交わしたら、皆至ってフレンドリーで親切なのだった。

人をじっと見ることが特に不躾ではない(見ているという自覚自体が薄めというか)という感覚をもつ人たちが外国にはいるんだということを少ない経験から娘氏は肌感で分かっていたので、これは敵意ではない、と認識して自分を落ち着かせた。

「私は敵意ではないものには敵意を返さないって決めているから」

 

自分は全裸でタオルで前を隠した無防備な状態で、相手は着衣のままじっと見つめてくるというのは確かに居心地の悪いものではあったが、ま、とっとと自分のことをしよう、と気持ちを切り替え、娘氏は洗い場で体をがしがしと洗いだした。

さすがにそれ以上じっと見つめてくるということはなく、その人たちは静かな声で雑談を交わしながら足湯をしていた。

 

数分後、若い女性の3人グループが賑やかなおしゃべりの声と共に大浴場に入ってきた、かと思うと、明らかにギョッとした様子で一斉に黙った。

彼女らは黙りこくったまま浴槽に入り、大浴場はしんとした変なムードに包まれた。

しばらく後に、二人の外国人女性は静かに大浴場から出ていった。

 

すると、湯船に浸かっている娘氏に、若い女性グループの一人が近寄ってきて、「あの人たち、あなたが来る前からずっといたんですか?」と訊いた。

「あ、ま、そうですねー」と娘氏が返すと、「大変でしたね・・・」と言われたのだそうだ。

 

「大変?すごい違和感だった。私はいつも一人で外れている側にいて、ちょっと周囲から浮いている感覚で生きてるから、急に『あなた仲間ですよね!』って肩をガシッと掴まれて引き寄せられるみたいな感じにすごく戸惑ったし、嫌だった」

 

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昨今、身近な人や自分の親たちも含め、外国人全般にうっすらとした敵意を向ける人が少なくない。

「外国人は不当に優遇されている」「外国人が治安を乱している」という情報を恣意的に流す政治家やメディアの影響もあるだろう。

今、政治家たちは、自分たちに怒りや憎しみが向かないように、明らかに外国人をスケープゴートにしている。

もちろん、外国人にネガティブな感情をなすりつけることは、古今東西、世界中で最も多用されてきた一番安易でオーソドックスな悪手だ。あほらしい。

そして人間心理として、自分には理解できないものや異なる言動をとっさに敵意に変換してしまうことはままあることだけど、日本の社会は極めて均質的なために、「皆と同じこと」にすっかり慣れきっていて、ただ違うだけのものを、躊躇なく敵意と受け取って疑わないところがある。

 

「窮屈なルールにまじめに従い、空気を読んでいろんなことに気をつかって生きているまっとうな日本の人」にとっては、社会の共通コードから外れて堂々としている者は、許しがたい、不愉快な存在に感じられてしまうのかもしれない。

でも、異なる前提条件を持つだけで、直接何かを言われたりされたりしたわけでもなく、あるいは非常識な振る舞いをしたらしいどこかの外国人の本当か嘘かも分からないエピソードを頭から信じ込んで義憤に駆られるなどして、「常識をふまえたちゃんとした私が、非常識な輩に我慢している、迷惑をかけられている」と被害者意識を持つことは、少々飛躍した思いこみの範疇と言えると思う。

 

違うものや理解できないものが不快だし不安なのは、人情としてもちろん分かる。

でも、その反応が自分の不安に端を発した脊髄反射的なものであるということに無自覚で、あたかも正義や良識のように思い込んでしまうのは危険なことだ。

敵意に正義心が加わると、いとも簡単に差別やヘイトに結びついてしまうからだ。

 

娘氏に声をかけてきた人は、そんなに迷惑でここ日本においてはルール違反だと思うのなら、ひと声掛ければ良かったのだ。

普通に「日本の大浴場では服を脱ぐ決まりなんですよ」って優しく伝えてあげればいい。

知らないことや違うことを勝手に敵意に変換して怒るのではなく、単に教えてあげればいいだけ。

私も若い頃、タイで注意されたことがある。

乗合バスの、運転手さんとは反対側の一番前の席に座ったら、そばに立っている人から「そこは僧侶が座る席だから、座ってはだめですよ」と教えていただき、「わ、知らずにすみません」と頭を下げて慌てて席を立った。

その人はにっこりと頷いた。

単にそれだけで済むようなことなのだ。

 

自分とは違う振る舞いをする人を、その場ではずっとじとっと黙って観察していて、その人がいなくなった途端に「ひどい人がいますよね!」って感じで嫌な団結をはかろうとするなんて、ちょっと陰険だと思う。

でも、そういう振る舞いや言動は、時々見かける。

いかに自分は正しくて気弱な被害者で、いかに相手が自己中心的で厚かましくて頑固なのかを言い立てる。

確かに身勝手で頑なな人もいるだろう。

でも、今回の娘氏のケースのように、「違う」人が黙ってそこにいるだけで、せいぜい目が合う程度のことで、「大変なことに巻き込まれて大いに迷惑した」みたいな過剰さで受け取っているようなことも少なからずあるだろう。

 

歳を重ねるごとに、正義とか正しさってものを胡散臭く感じるようになっている。

誰の何にも正義や正しさは含まれるし、思い込みや誇張や間違いも含まれていると思う。

長い文脈でものごとを眺めた時、どちらか一方だけが善の側に立つケースはとても少ないはず。

どちらが正しいかなんて判定すること自体、本来ナンセンスで、結局その場のパワーバランスでつけられた勝敗に便宜的に従うだけ、みたいな暴力的なことも多い。

 

自分もそうだが、日本人は「違う」ということに本当に不慣れだ。

これまでずーっと、島国でほぼ単一民族でやってきたのだ、仕方ない部分はある。

でも今、多くの人が言うように、異なる存在と共存することを、違うままに平穏にあれるスキルを、誰もが普通に身につけていく時期に来ていると思う。

 

「違う」という不快感や不安に対して、「配慮すべき」「寛容であるべき」という方向性は、一見正しそうに優等生的に思えるが、実は「自分こそが正しい」側から一歩も動いていない、上から目線の傲慢な慈悲だとも言える。

そして、人が我慢や抑制的な態度を続けることには、所詮限界がある。

だからこそ、ポリコレが敷衍するほど、ヘイトや露悪的なものも同時に噴き出てくるのだろうし、浅い関わりにおいては、優しさや親切さよりは意地悪さや冷たさや無関心が際立ってしまう社会になっているような気がする。

 

むしろ必要なのは、自省であり、想像力であり、知ろうとする好奇心だと思う。

悪いのはあっちで、自分は間違ったことは何もしていない。

学ぶのも合わせるのもあっちがやることであり、自分たちが労力を割く筋合いはない。

私を怒らせるな。私を不安にさせるな。私に迷惑をかけるな。

そうやって自分あるいは多数派の正義に居着いたところで、良きものは何も生まれないということだけは確かだ。

 

不安や焦燥感と折り合いをつける方法は、それを解決してくれそうなヒーローを見つけることや、それをぶつけるべき敵を見つけることではない。

よく勉強して、情報を調べて、信頼できそうな情報ソースを見極めて、とにかくサボらないで考え続けて、「より鮮明な不安」を得ることしかない。

不安を解消するために、安易な安心を求めてしまうと、簡単に何かに使われてしまう。

飲み込まれてしまう。

だから、安心をゴールにしてはいけない。

着実に学ぼう。

確実に学ぼう。

淡々と学ぼう。

(九月@kugatsu_deadio のツイッターより)

 

もう一つ思うこと。「なんでそんなことになっちゃってんの、なんでそんな風に思ってるの」とこじれてしまっていることについて、それ直接本人に聞いたの?それが事実と確認した?と尋ねると、大抵直接コミュニケーションしていないし、確認もしていないものだ。

間に誰かが挟まっていて、その人のバイアスが重なってどうにもややこしい、修復不可能なことになってしまっていることもある。

そして今は、直接話すことを避けて通れるインターネットのツールがたくさんあるために、「直接話す」という一番手っ取り早いシンプルなアイデア自体を思いつかないみたいな倒錯的なことが起こっている。

でも、チャットツールやメールの文字情報は、不十分で誤解を生みやすいものだ。言葉は多義的だから。

だから、落ち着いて話せる状況があるのなら、できるだけ気軽に気負いなく、まずは直接話してみることを、選択肢の上位にいつも置いておきたいと思う。