みずうみ2023

暮らしの中でふと心が動いたことについて書いています

不安について心に留めておきたいこと

人は、弱い生き物だから、漠然とした不安を抱えたまま立っていることは、なかなかできない。

どうにかして手っ取り早く不安でなくなろうとして、じたばたともがく。

それは生き物として、仕方のないことなんだろうと思う。

 

多くの人たちは今、本人の自覚よりもずっと、余裕がなくぎりぎりで、不安でやるせない悲しみの中にあるのかもしれない。

いろんな辛いことや無慈悲なことに耐えて、誰にも迷惑をかけずに頑張っている「自分たち」には、「それくらいのこと」を主張する権利はあるはずだ、これは正当な要求だ、という心の動きがある。

「自分たち」を大事にするあまり、この社会で共に生きている誰かの人権を踏みにじっていることに想像力が及んでいないかもしれない。

でもそれは、果たして簡単に踏みにじっても構わないものなのだろうか?

「踏みにじられてもいい者」の矢印が、なんらかの形で自分に向けられる番が、いずれきっと来るが?

 

個人的には、「省みる」という心のクッションを置く習慣を癖づけすることで、人の不完全さや生き延びるためのいやらしさを人間だものと肯定しつつ、なんとか致命的な加害や暴力の野放図な発露だけは回避できないものか、と常々思ってはいる。

私はできてます、なんてとても言えないレベルだけれど。

 

「不安」についての、そんな答えの出ない気持ちを訥々と話していたら、夫氏が「ナラティブ(物語)バイアス」について教えてくれた。

面白い話だったのでシェアします。

 

人類学者、ルクミニ・バヤ・ナイールは、ベンガルの伝統的な物語を使ってナラティブバイアスを説明する。

虎が一頭。

狩人が一人。

虎が一頭。

この3つの句を聞いた瞬間に、私たちはこの場面と、物語の展開と、劇的な緊張感を思い描く。

何を思い浮かべるかは厳密には人それぞれでも、大筋ではかなり似通ったものだ。

 

かつてヘミングウェイは、小説1冊に値する物語を6単語で表現できると言った。

For sale:baby shoes,never worn.(売ります:赤ちゃんの靴、未使用)

 

人間は、あらゆることを物語の形に落とし込もうとする。

人間の脳は不完全な情報の切れ端を与えられると、脳のパターン処理ネットワークが隙間を埋め、物語にまとめ上げる。

情報の切れ端がたとえ無関連であったとしても、人間の脳は、嫌でもそれらを結びつけずにはおれない。

そしてその本能ゆえに、文学、化学、医学といったあらゆる分野で研究がなされ、人類は「進歩」してきたとも言える。

 

物語を語る心は、不確実なこと、偶然、分からないことが大の苦手だ。

物語を語る心は、意味を見出すことに病みつきになっている。

(ジョナサン・ゴットシャル)

 

イスラム教徒。モスク。土葬。

この3つの句を聞いた瞬間に、あなたはどんな「物語」を自分の中で作り上げただろうか。

 

 

昨日、たまたま読んでいた本の中でも、こんな言葉が目に留まった。

ストレスとは、嫌なことに対する心の反応ではなく、あらゆる変化が心にかける負担のことを指す。

だから、現実が激変する時、私たちはできるだけ自分を変えないように必死に抵抗する。

心は変化を好まない。

だから、現実が変化してしまった時、私たちは心を閉ざす。

そのためにお決まりの方法に固執する。

(「心はどこへ消えた?」東畑開人著より)

私たちは変化にストレスを感じる生き物なのだということ。

そして興味深いのは、たんに人は「変化に後ろ向きである」のみならず、「変化に対して現実に心を閉ざ」し、「人は自分を変えずに済む人それぞれの方法」によって、必死に変化に抵抗するという指摘である。

これを読んで、私自身も現実に心を閉ざして、自分のやり方に固執した存在に過ぎないことに改めて気付かされた。

 

例えば「ルールはルールだから正しい」という方針でそれなりに平穏に暮らしてこられた人は、当然ルールには従うべきだ、という考えに固執する。

一方で、私はその方針では平穏に生きられなかったので、生きる中で別の方法を編み出すことになった。

私は多分、いろんなことを自分なりに納得できるまでしつこく考えて、他者の存在や色んな表現からヒントを得ながら、こうして文章を書き、自分の考えを確認しながら少しずつ自分が変わっていくことによって、不安に対処し、心の平穏を得ている。

それが、私の「お決まりの方法」なんだと思う。

 

ある変化を前にして、あらゆる人が結局、それぞれの「お決まりの方法」を遂行している。

自分を守るために。

その切実さとかたくなさじたいは、誰しも大差ないのかもしれない。

だから、「自分の方が正しいのだから」と、他者に変わるように一方的に迫るということは、自分は楽をして相手にだけ負荷をかける、ひどく傲慢な振る舞いといえるのかもしれない。

 

いずれにしても、誰にとっても変わることはしんどいことで、心に負荷をかけながら耐えねばならぬ、不快なことだ。

大事なのは、お互いにお互いのしんどさにちょっと思いを馳せながら、なんとか折り合いをつけようと試みる、試み続ける姿勢なのかもしれない。

 

不安や焦燥感と折り合いをつける方法は、それを解決してくれそうなヒーローを見つけることや、それをぶつけるべき敵を見つけることではない。

よく勉強して、情報を調べて、信頼できそうな情報ソースを見極めて、とにかくサボらないで考え続けて、「より鮮明な不安」を得ることしかない。

不安を解消するために、安易な安心を求めてしまうと、簡単に何かに使われてしまう。飲み込まれてしまう。

だから、安心をゴールにしてはいけない。

着実に学ぼう。確実に学ぼう。淡々と学ぼう。

(九月@kugatsu_deadio のツイッターより)

 

不安を安易に解消するために、イスラム教徒の人々が彼らの神に祈りを捧げる場所を持つ権利を、ヒステリックで理不尽なやり方で奪ったとしても、きっと誰も幸せにはならないだろう。

今回のことが、この町に暮らす1万人近い外国籍の人たちと、地域の学校に通う約400人の外国籍の子供たちと、地域住民との間に、どれほど深い溝を生むことになるだろう。

そしてそれは、人々の負の感情につけ込んで、金や権力を得たい者が意図的に煽り立てた状況なのだ。

 

一人ひとりが不安に浮き足立ち、不安に絡めとられるのではなく、今、自らの心の中に巣食う不安の本質とは何かを見つめる必要があると思う。

排除が何かを本当に、本当に解決するのか?

今、冷静に考える余裕がほしい。