「Everything Everywhere All at Once」という愛すべき素っ頓狂な映画の中で、キー・ホイ・クワン演じる主人公の夫の決め台詞は、「Please be kind.」だった。
そんな陳腐な言葉がクライマックスの決め台詞として人々の心を打つほどには、今の世界は親切心を欠いているのだろうと思う。
全くそうだ、何はともあれ私たち親切であるべきだよな。
わたしも映画を見ながらそう心に刻んだし、一般的礼儀としての親切さは、他者と接する時の基本だと思って日々生活している。
ただ、よくよく考えると、ある種の「親切」の持つ冷え冷えとした何かを私はずっと好きじゃなかったし、場合によっては憎むことさえあったと思う。
その気持ちを「さみしくてごめん」(永井玲衣著)の中の「きみの足を洗ってあげる」という文章を読みながら改めて認識した。
私は「親切」と「やさしい」を長らく何となくごっちゃにして考えてきた。
でも、この文章には、親切とやさしいの違いを丁寧に言語化していて、すごく腑に落ちるものがあった。
思いがなくても、親切をすることはできる。自分の評価をあげようとして、誰かに手を差し伸べたり、多くのひとに知られるように、わざと人目につくところで誰かを助けたりする。これは見かけ上は親切であるが、やさしさがそこにあるわけではない。
それに対して、やさしいひとは、思いが伴っている。伴っている、気がする。思いがにじみ出ている。(中略)
やさしいひとは、基本的に苦しんでいる。大がかりな苦しみもあれば、ささやかな苦しみもある。そんな苦しみに、やさしい人は人知れず身を灼かれている。
(「さみしくてごめん」より)
親切とやさしいをごっちゃにしてきたことが、私を無駄にシニカルで皮肉っぽくしていたと思う。
親切とやさしいは、人間にとってどちらも大事だが、全然別のものである。
相変わらず理解が遅すぎるが、そのことを分かっておく事は、結構重要な事だと今更ながら思っている。
親切とやさしいがきっぱりと二分できるような事ばかりではないことは承知の上で、あえて乱暴に分けて語ってみるが、「親切」って、そこにあるニーズに気付いて、ちゃんと頭で考えて、理性でやっている行いのことだ。
基本は、ある程度ものの分かった賢明な人だからこそできることだ。
そして親切は、自分の善性に対して迷いがなく、堂々と溌剌と為される。
一方、「やさしい」はどうしようもなくただそうあってしまうその人の心のありようのことだ。
やさしいは不器用だし、どこか後ろめたさや迷いを抱えておずおずしているし、時に考えすぎでおかしな言動になっちゃったりして、感謝されるどころか相手を怒らせたり引かれたりすることさえある。
やさしいは、オートマティックに何かのルールにのっとってやれるようなことではなくて、目の前の相手に対していちいち個別具体的に心を使う、それなりに疲弊もすることだ。
親切は、分かりやすく助かることやありがたいことをしてくれる。
確かに必要な何か、困っている何かに手を差し伸べてもらうことは、間違いなく感謝すべき事である。
でも、親切はこわい。
全てとは言わないが、多くの親切は、どんな形にせよ見返りを求めずにはいられないからだ。
やさしいは、不器用に、無防備に、他意なく、ただそこにあるものだ。
だから、そこにあるやさしさを、相手が自分に向けてくれた言葉にならない愛のかたまりを、こちらも言葉にならない胸の温かさとともにじっと味わう。
その嬉しさを何とか感謝の言葉にして伝えようと試みても、どこか見当はずれでぶざまなものになってしまう。
そのぎくしゃくした感じもまた愛おしいものだ。
相手を思うやさしさを誰かと交わした思い出は、人の心を温め続ける心の種火となる。
分け隔てのある愛や高揚を伴った共感といった、いかにも特別っぽい親しげな関係性よりも、一見意味も分からないような、ささやかで分かりにくい、しかし何の打算もない他者から向けられた素朴なやさしさに心を救われることが、これまで何度となくあったなと思う。
やさしいは、人の心持ちひとつであるがゆえに、親切に比べるとすごくふわふわとした頼りないものである。
それは、人と人とが関わり合う中で、時折ふともたらされる思いがけない贈り物のようなものだ。
不確実で、無責任なものだ。
繊細で傷つきやすく、めんどくさいものでもある。
一方、親切は、受け手にとっては目に見えて分かりやすい具体的な「得るもの」がある。
誰の目にも分かりやすい親切には、一貫した行動原理がある。
どこかに計算や損得勘定があったりするかもしれないけれど、ともあれ親切は地に足がついた実際的で役に立つことだ。
親切は、同じ社会で人間が共存していく上での大人としての責任ある振る舞い、マナーのひとつとして設定された社会的な性格を持つものである。
例えばムスリムのように、旅人への親切が慣習とされているような場合、「ルールとしての親切」という色合いはより濃くなるだろう。
だから、「怒り、毒づきながらもめっちゃ世話を焼いてくれる面倒見のいい人」みたいな「親切な人」も当然いる。
全然相手対する配慮はないけれど、やるべきことはしっかりやる、というような。
それはそれで尊いことだ。
でも、親切なことをする人のことを、やさしい人だと無理に思う必要はない。
親切にしてもらった人に対してやさしくないなと思った自分を責める必要もない。
親切だなあ、助かった、ありがたいなあ、と思ったら、きちんと誠実にお礼を返すよう努める。
あるいは、その親切は今は特に欲していないです大丈夫、と伝える自由もある。
やさしさを装った、相手の都合を考えずに為される独りよがりな善意を、時には断る勇気も必要だろう。
逆に、自分が先走ってあるいは見当違いの親切を他者に向けてしまい拒まれた時には、謝ってさっと引き下がろうと思う。
親切とやさしいを混同することなく、どちらも感謝して、丁寧に扱うことが肝要だと思う。
その上で、やっぱり私はやさしい人と出来るだけ一緒にいられたらいいなと思うし、自分もなるたけやさしい人でありたいなと思う。
やさしいとは、いたわる、思いやる、愛する、心を届ける、心配する、その全てを煮込んでそれぞれの境目がなくなったような態度である。
そこには迷いがある。逡巡がある。分かりにくさがある。
時に発揮されず、隠されることもある。誰にも気づかれずに、どこかへしまい込まれ、そのまま忘却されることもある。
それは目の前の他者を前提にしているからだ。
その他者に自分が働きかけることによって、どうなってしまうのか、想像するからだ。
だからこそ、とんでもなくやさしいことを、平気でする人はこわい。その気軽さ、強引さがおそろしい。
そこに他者はいない。他者がいないと、迷いが生まれない。やさしさが生まれない。
やさしさほど分かりにくいものはない。分かりやすく出現するやさしさは疑わしい。
他者を置いてきぼりにして発揮されるやさしさは、やさしさではない。
それは目の前の他者に問いかけたり、考えたり、迷ったりして、つくられていくものだ。
どちらかが一方的に見せつける何かは、親切ではあってもやさしさではないかもしれない。
私はあなたのやさしさを受け取る時、目を合わせていたい。
あなたにやさしさを届けたいとき、ぐるぐると考えながらも、それでも目を合わせていたい。
揺れる瞳を、いつまでも見ていたい。
(「さみしくてごめん」より)