
映画館のスクリーンでもう一度見ておかないと後悔するような気がして、公開終了直前、二度目の鑑賞に行ってきた。
近所のシネコンではもうレイトショーしかやっていなくて、電車を乗り継いで遠くの映画館まで行った。
今回は最初から最後まで、フキちゃんとしてこの作品をしっかりと感じたかった。
監督と私は同年代。
おそらく同じようなものを見聞きして育ってきたということに加えて、フキはこども時代の私にかなりよく似ていた。
短い髪で浅黒くてショートパンツのやせっぽちという、およそ女の子らしさに欠けた見た目もそうだし、その珍妙な行動や返答や他者との関わり方や実験精神、心がふっと飛んでいくさまなど、何度も苦笑しながら幼かった頃の自分とフキを重ねるようにして見ていた。
特徴的なデザインの国鉄のカレンダー、赤いちりめんが貼られた万華鏡。
おばあちゃんちのアップライトピアノや友だちの家の電話にかぶせられていた、ちょっと黄ばんだレース編み。
今思えばインチキくさい、コックリさんやスプーン曲げなんかの超能力やおまじないのたぐいを夢中で見たり、友だちと試し合ったこと。
水道の蛇口にかけられた、みかんネットに入ったレモン石鹸の手触り。
キャンプファイヤーのはぜる火の粉が暗闇に舞うさま。
1980年代特有の安っぽいデザインや、ちょっと間が抜けた、でも今よりはゆったりとした空気感、うざくも今よりは温かい人間同士の関わり。
その懐かしいものたちを眺めていると、あの頃の気分がぐわっと立ち昇って、ちょっとくらっとした。
誰しもそうだと思うけれど、こどもとして生きる日々は、全てが分からないことだらけ、それゆえ毎日が手探りで、リアルお化け屋敷であり、あらゆることが実験だった。
自信をもって判断できるような確かなことなんてほぼないし、脳もまだ未熟ゆえに、生き物として場当たり的ででたらめで。
だから、計画とか意味とか目的みたいな、長い時間軸でものごとを捉えて行動するということがない。
今では計画や意味や目的なしには、もう一歩だって身動きできなくなってしまったというのに。
その時、目の前にあるものをしげしげと観察し、一個一個触って確認していく。
それがこどもの生きる基本姿勢なんだということを、改めて思い出す。
(同時に、今のこどもは、こどもの時間を生きることがなかなか許されない世知辛さの中にあるなと気の毒に思う)
大人からすれば、幼いこどもは自由気ままでお気楽な存在だ。
責任がないという側面においては確かにそうだけれど、こどもは訳の分からない世界の中で、小さな体で、自己決定権も自由になるお金もなく、不便や制約を多く抱えた存在でもある。
でも、知識も選択肢もなく、ただ瞬間を生きているがゆえに、こどもは何かをジャッジしたり、人をへんに見上げたり見下したり、虚しくなったりはしない。
世界の美しさも非情さも、人々のグロテスクさも親切さも、闇の濃さも緑の深さも水の冷たさも、死も、全てが鮮やかだ。
フキを見ていると、こどもって、人間界に間違って紛れ込んでしまった宇宙人みたいなものなんだなあと感じる。
あらゆる人間的な情緒は、フキを前にすると全部あざとい、べったりと汚れたものみたいに感じられる。
摩訶不思議な大人たちの世界を、フキは何ひとつ意味づけしないまま、何にも共感したり同調したりすることなく、目を見開いて黙ってじっと見ている。
心惹かれたものに蝶々のようにふわりと近づいてはさっと離れ、全部どこ吹く風みたいに涼しい顔をしている。
同じ空間にいながら、まるで目に見えない結界で隔てられた存在みたいだ。
もちろん、フキが人間界のあらゆるどろどろしたものに取り込まれることがないのは、彼女がまだ発達途上で欠落している部分も多く、経験値も圧倒的に足りない、それゆえに他者の考えや思いを理解したり想像したりすることができずに、いつも蚊帳の外にいるからだ。
そうとは分かっていても、こどもの混じりけのない感性とそこに流れる豊かな時間に憧れる。
自分自身もかつて確かにひとりのこどもであったのに。
大人になることで得たものと引き換えに、いつしかこどもらしさのほとんどを失い、思い出すことさえなくなってしまった。
いつか、永遠に夏休みが続いたようなあの感覚を取り戻してみたい。
この作品の魅力は、時空の歪みのように時間が伸び縮みするこどもの濃密な時間感覚の丹念な再現にあると思う。
この作品は時制があちこちに飛ぶし、リアルとファンタジーの見分けがつかないような、自他境界が曖昧な作りになっている。
フキの感情のうねり、関心や興味の先にある何かを辿るようにしてシーンが展開していく。
ところどころ記憶がすっぽりと抜け落ちているような感じ、時制を越えてあれとそれとがつながるみたいな感じも、すごくこどもの時間感覚を再現していると感じた。
幼いこどもは、基本的に大人たちが整えた環境にただ乗っかって、大人に言われるままに生活している。
それゆえこどもの毎日って、自発的でなくとりとめがないものだ。
もっとも印象的なシーンのひとつが、河合優実演じる若い未亡人の部屋で、フキが催眠術をかけるシーン。
階段で、ベランダから地上をじっと見る知らない女性にフキは「だいじょうぶですか」と声をかける。
次のシーンではもうフキは女性の部屋の中にいて、覚えたての催眠術をかけている。
椅子に座って目を瞑ったまま、女性は奇妙で禍々しいエピソードを語る。
フキは、興味があるのかないのか分からないような風情でそれを聞いている。
やがて、空気を裂くように目を瞑った女性の顔の前で手をぱちん!とたたき、あっさりと「催眠術はこれで終わりです」と告げる。
もう一つの印象深いシーンは、伝言ダイヤルで知り合った若い男の家について行って、あやうく性加害されそうになるくだり。
言われるままに、浴室で男に歯を磨かれる。
急に家族が帰宅して、見つからないように空の浴槽に自ら身を隠し、隙を見てフキは着の身着のまま裏口から放り出される。
大人同士の世界では、人と人とが知り合っていくにはいくつもの手順やガードがある。
けれどこどもの世界では、関係が一瞬で深みに到達するということがしばしば起こる。
起こったことの意味を理解することも言語化もできないために、こどもは誰にも話さず黙っているが、実はこどもは大人の知らない場所で、いろんな体験をし、相当あやうい場面もくぐり抜けている。自分自身を振り返っても、そう思う。
だからこどもは知っている。
一見平和でつつがないように見える世界のすぐ水面下には、奇妙でぞっとするような世界が広がっていることを。
こどもという存在に向けられたねじくれた悪意や欲望は、言語化されないままに心の奥深くに焼き付けられる。
その不吉で禍々しい魅力をたたえたイメージの断片をフキが作文にすると、大人たちは慌てふためき「この子は危ない、変わってる」と大いに心配する。
でも、危険なのはフキではなく、世界の方だ。
大人は何も知らない。
フキの目から見た大人たちは、ご都合主義で、横暴で、まあまあこどもに親切で、どうにもいびつな人たちだ。
そこそこずるくてグロテスクで、うさんくさいものにすがるくらいには弱く孤独で疲れており、でも時々面白かったり優しかったりして、その人なりに必死に生きている。
中にはまともな人もいるが、こどもだとあなどって、言行不一致を平気で押し通す人もいる。
大人同士の場では澄まして社交していても、相手がいなくなった途端、大人たちは本性をたやすく見せる。
幼いこどもはしばしば、そこにいてもいないみたいに粗雑に扱われる。
でも、こどもは大人の生々しさを黙ってじっと見ているし、言葉にはできなくても、何も考えていないように見えても、実はその場の空気全体をビビッドに感じ、本質を相当見抜いているものだと思う。
そして今、私は11歳のフキよりは、石田ひかり演じる母親に圧倒的に近く、いまや堂々たるおばさんである。
こどもたちから見れば、ご都合主義で横暴でまあまあ親切でいびつでさみしい大人である。
何にも知らなくて、こどもからは全部丸見えであろう不完全な大人である。
自分の不完全さはもうどうしようもないが、せめて「こどもの人」へのリスペクトは忘れないようにしたいものである。
すぐれた作家は、ほとんどの人が忘れ去ってしまった、自分の中にあるこどもの心を、胸の奥にある小部屋に鍵をかけて大事にしまっている。
早川監督もそのひとりなんだと思う。
記憶と感覚の再現は、アーティストのもっとも大事な仕事のひとつだと思っている。
見事な再現に身を浸して、刺激的で、しあわせな時間だった。
変な言い方かもしれないけれど、報われた気がした。
茫漠とした、ただ拙い者とされてきた幼い頃の私に、人としての輪郭が与えられ、一個の尊厳が与えられたように思えた。
エンドロールに切り替わった瞬間、しょっぱい涙が滲んで鼻がツンとした。
この映画を作ってくれてありがとう、という気持ち。