みずうみ2023

暮らしの中でふと心が動いたことについて書いています

息子氏帰る

フランスに住む息子氏が帰ってきている。

2年9ヶ月ぶりの再会だというのに、時々LINEのビデオ通話をしているせいで、久しぶり感や新鮮さを全く感じず、そのことに我ながら驚く。

インターネットテクノロジーはとても便利なものだけれど、日常をシュールに、無感動にしてしまうものなのだなあ。

相変わらず穏やかでとても気が優しく、ますますADHD濃度濃いめの息子氏だ。

自然と何かしてあげたい、という気持ちにさせられる奴なので、周囲はついついあれこれ世話を焼くのだが、いろんな意味でがっかりさせられることになる。

今回もしょっぱなからやらかしてくれた。

落ち着いて土産話どころではない状況にいきなり陥れてくるところがさすがすぎる。

いやーやっぱ相変わらずだったね!いつも想像の斜め上を行く人だねえ、と夫氏と苦笑し合う。

 

いつだって彼に悪気はひとつもない。

声を荒げて怒ったりすることは見たことがないくらいで、いつものんびりと機嫌良い優しい雰囲気を漂わせている。

ところが、穏やかで人を安心させる人だから、とっつきやすい人として初めは好かれるのだが、誰とも親密な関係性を持つことがない。

親としては不憫に思うと同時に、まあそうなるよねーとも思う。

 

ぶっちゃけ若い頃の自分自身もまさにそうだったのでつらいなーと思うのだけど、息子氏のような人と付き合うと、報われなさやある種の収奪感を味わわわされることがまあまあ起こりがちだろうと思われる。

息子氏に対して、いくら気にかけたり、やったりしてあげても、彼から気持ちであれ行動であれ、お返しのようなものはあまり得られないと思うからだ。

もちろん、人と人との関係性を相互性だけではかれるものではないけれど、常に片側だけが一方的にやってあげ続けるのみの関係性では、なかなか続くものではないだろう。

しかも彼は、少しも他者を利用しようとして利用しているわけではなく、いたって素直に生きているだけで、面と向かって話せば気の優しい青年でしかないため、息子氏に嫌な気持ちにさせられた人は、そんな黒い気持ちになった自分自身をケチで心の狭い奴だと感じて、さらに嫌な気持ちになってしまうのである。

 

あくまで私の経験に基づく推測ではあるが、皆さん、このモヤモヤの末に、結局穏便に距離を開ける・疎遠になるという方法をとることになるのではないかと思う。(さすがに前の彼女にはガチギレられた上に振られたみたいだけど)

いつだって最初から最後まで、息子氏はほぼ何も気づかない。

自分が結果的に他者の善意にただ乗りしており、それに応えるという発想がきわめて薄いということ、

自分の常に時間ギリギリでmessyな世界に他者を巻き込んだり、他者の時間やお金を使うこと、迷惑をかけたり自分の尻拭いをさせることに無頓着すぎること、

自分のやることや予定を関わりのある人と共有するという発想をそもそも持てない、というか、自分は分かっているが他者は分かっていないという状況の認識がそもそもできないということ、

そういうことに彼が気付くことはとっても難しい。

ちょっと接したくらいの人には、控えめで感じの良い息子氏の何が問題なのか全然分かってもらえないんだけど、家族としては、愛すべき奴なだけに、まあまあ罪な男なんだと言いたい。

 

3歳年下の娘氏は、「兄貴といるとなぜか、これいる?え、これも必要なの?もー仕方ないなあ、ってどんどん自分の着ている服をどんどん脱いで渡しちゃうみたいなことになる。えーいいの?ありがとう、って無邪気に兄貴は言う。で、気がついたら全裸になってるんだよね」という、秀逸な比喩でしみじみと語っていた。

 

彼の言動の起点は、いつだって彼自身の興味や欲望だ。

気まぐれでミーハーだったりはするが、周囲に流されたり、不安から行動を起こしたり、みんなと同じを求めるということがない。

自分軸がしっかりしているということは、もちろんとても素晴らしいことだ。

ただ、彼には、誰かに何かをしてあげたい、喜ばせたい、という気持ちが基本的に「ない」。

それが、薄情で他者を蹴落としても自己利益を追求したいから、とかでは全くないのがかえって厄介だ。

selfishだ、immatureだと非難されるのは、もちろんその通りでしかないのだけれど、いささか不憫なことでもある。

彼の社会性のなさ、他者の思いや考えへの想像の及ばなさは、努力すればすっきり解決できるようなものではないからだ。

 

そんな息子氏に、フランスですごく仲の良い友だちができた。

同じアパートの住人で少し年上のアーティスト、昨年息子氏の元を訪れた娘氏いわくその人自身も相当な変わり者らしいが、分け隔てなく親切で、しっかりとした考えを持つ素敵な人らしい。

毎日のように息子氏の部屋を訪ねてきては、しょっちゅう一緒に過ごしているみたいだ。

幼い頃を除いて、息子氏とそこまで気が合って長時間ずっと一緒にいられる人って、人生初くらいなんじゃないだろうか。

だから、楽しい時間を共に過ごしていることを聞くたびいつも心から嬉しい。

 

いろんな不便や人種差別や行政や医療機関交通機関のでたらめさなど、めんどくさいことや腹の立つこともそれなりにあるようだけど、フランスの方が日本より居やすいと彼は言う。

まあ当然そうなるだろう。

身も蓋もないようだが、その場の空気を察して周囲に合わせるという高等テクニックが日常的に求められる日本は、基本的にADHD民にとって居やすい場所ではない。

各々が自分の意見をはっきり言うことがコミュニケーションの基本である社会の方が、なにはともあれ、分かりやすくはあるだろう。

とはいえ、言語化も苦手な息子氏は、渡欧当初は言葉の壁もありかなり苦労したようだが、違うことを責められず、どんな意見も意見としてただ普通に尊重される経験を重ねて、だいぶ話せるようになった。

対して、察することを習得することはADHDの人々にとっては、自分の意見を言うよりも1万倍くらい難しいことだし、てか多分無理だし、日本よりも必要性が低い分、さらに察せない人になってパワーアップして帰ってきたという。

 

 

そんな息子氏に対して、今の私が分かっていることは、彼のことがやっぱり愛しくて大事だと思い、期待してしまう自分を手放せないからこそ、がっかりしてしまうのだということ。

そして私が今願っていることは、息子氏が帰国するまでの1ヶ月間、出来るだけ仲良く楽しく過ごしたい、ただそれだけだということ。

 

で、

ここ数日うんうん悩みながら考えて、このひと月余りの息子氏に対する私の基本方針は、「あきらめる」に決定した。

あきらめるの語源は「明らむ」、すなわち「明らかに見る」。

相手を変えようとせず、目の前にあることを、そのまんまそうなんだね、と受け入れる。

無理に理解しようとしたり、寛容であろうと無理をしたり、要求に過度に応えて自分を削るようなことはしないようにする。

嫌なことは嫌だと言い、同時にあなたの人生だから自由にしなと言い、ただ親切に接する。

という、修行をこれから1ヶ月やっていく。