週末は、病み上がりでおそるおそるの体調のまま、久々に友だちと集まってわいわい飲み食いをした。
お酒はまだほとんど飲めなかったけど、行けて良かった。
日々まじめに働き、明るくあろうとする人たちと共に過ごすと、自分もつられてちょっと浮上させてもらえる感覚がある。
長年の付き合い、ありがたいことだな。
店を変えながら長時間話し込む中で、話は身近なところから世界まであらゆる方向に飛び、それぞれてんで違う風に世界が見えていることをつくづくと感じながら皆の話を聞いていた。
今年も残すところあと半月になったが、今年はとても、何というか、あまりにweirdな年だった。
自分を含めた誰もが、漠然とした不安を持て余しているようにみえる。
寄る辺なく、スピードはあまりに早く、何に依って立てばいいか分からない。
誰もがちょっと宙に浮いていて、大きな主語でものごとを語りがちになっている。
至極当然で無理もないことだし、人間てそういうものだ。
ただ、そんな時だからこそ、不安という感情の取り扱いには慎重でありたいと私は思っている。
自分の中に巣食う不安とは、何なのか。
立ち止まって自分の心に問いかけるプロセスを今こそ大切にしたい。
もちろん不安は不快で恐怖で耐えがたいから、誰かや何かのせいにすることですぐさま手放してしまいたい。
でも、防御反応としての脊髄反射的なアウトプットが、対立構造を生み、隔たりを深め、憎しみを増幅させてしまうことが往々にしてあると思う。
解像度の低いままの感情を発露することを、あえてぐっと踏み留まり、静かに深い層で自分の感情を見つめてみようとする。
そのささやかなワンクッションが、自分を取り巻く世界と対峙する時に大事な作法になってくるのじゃないかと感じている。
友達に会うために家を出る直前、編集中の夫氏が「ちょっと来てごらん、とてもいいシーンが撮れたんだ」と私を呼んだ。
横からプレミアの編集画面を覗き込むと、彼が今作っている作品の被写体である5歳の男の子の横顔があった。
その子は生まれつき重度の障害があり、身体を思うように動かすことができず、基本はベッドに横たわって一日を過ごす。
話すことも、表情を動かすことも難しい。
その子が、同じ保育園の友達と一緒に、生まれて初めてたった数駅電車に乗って遠足に行くことになった。それに同行した時の映像だった。
リクライニングの車椅子で、その子はままならない身体を精一杯乗り出すようにして、車窓の風景を一心に見つめていた。
表情は動かないし声をあげることもないまま、涙をぽたぽたと流すその子の愛らしい目は力強く、きらきらと移ろう光を反射し、世界はこんなにも美しいのだと雄弁に伝えていた。
友達と会って話している最中もずっと、その黒々とした瞳がまぶたの裏に焼き付いて離れなかった。
今も思い返すと胸が苦しくなる。
私には何ひとつ見えてないような気がして。
自然は、美は、ただ目の前にある。
いつだって豊かにそこここにある。
できることなら、なるべくそれを真っ直ぐにrealizeできる自分でありたい、と願ってやまない。
でも、この脳化された世界を生きていて、私たちは、一人ひとり違う眼鏡をかけて世界を見ることから逃れられない。
生きていく中で眼鏡を掛け替えることはあっても、きっと眼鏡自体を外すことはできないまま、誰もが死んでいくのだろう。
え、もう時間切れですか?まじっすか、心の準備できてないんですけど、みたいな感じで。
その人の人生経験や、体調体質や生来の特性や、家族や近しく付き合う人々や、得意不得意や、知識や教養や、あらゆる巡り合わせや運。
そのようなさまざまな要素が絡まり合って、結果としてその人に世界がそのように見えていること。
それはほとんど選びようがないことで、自力でコントロールできることなんて、実はそれほどないのだと思う。
こんな風にものごとを見た方が幸せに生きられるとか、あるいは損とか無駄とか。人は好きなことを言う。
そうした情報に私たちの日常は全包囲されているといっても過言ではない。
比較や否定や羨望をベースにした情報で人の欲望や渇望をかき立てることによって、特定の消費行動に誘導することは、資本主義の基本でもあるから歯止めがない。
でも本当は、そんなものはテンポラリーな時代の価値観を反映した誰かの手前勝手なジャッジに過ぎない。
どちらが良いとか悪いとか、正しい間違っているとか、上等とか下等とかはない。
他者に迷惑をかけない範囲において、他人からどう見えようと思われようと、人には自分の思うように生きる自由がある。
そして、人が他人にしてあげられることは、ほとんどないとまでは言わないが、少ない。
基本的には、がんばってね、お互い頑張ろうねって言うことくらいしか、できない。
だから、私ごときが誰かのありようを否定したりジャッジしたりすることは、とてもおこがましいことなのだ。
同時に私自身も「今のあなたのままではだめである」という文脈で、もっとすごくなれ、変われ、と誰かや何かにプッシュされることに、もうほとほと疲れている、とにかくしんどい。
誰かや自分を不用意に責めたり傷つけないために、これらのことをいつも心のどこかに留めておこう。驕って忘れがちになるたび、何度も思い出して。
そんなことを考えるともなく考えている2024年の年の瀬。
The Only Thing I Do Know Is That We Have To Be Kind.
Please, Be Kind.
Especially When We Don't Know What's Going On.
ただひとつぼくに分かること、それはぼくらは親切であらねばならないってことだ。
お願いだ、ひとに親切にしよう。
とりわけ何が起こっているのか分からないような時には。
(「Everything Everywhere All at Once」ウェイモンドの言葉)
気が狂いそう やさしい歌が好きで あなたにも聴かせたい
このままぼくは 汗をかいて生きよう いつまでもこのままさ
ぼくはいつでも歌を歌う時は マイクロフォンの中からがんばれって言っている
聞こえてほしいあなたにも がんばれ !
人にやさしくしてもらえないんだね
ぼくが言ってやる でっかい声で言ってやる がんばれって言ってやる
聞こえるかい ? がんばれ !
(「人にやさしく」THE BLUE HEARTSより)