みずうみ2023

暮らしの中でふと心が動いたことについて書いています

「ぼくのお日さま」

 

2024年/監督:奥山大史/90分/公開2024年9月13日〜

 

近年見た映画のどの作品ともこの作品は違う味わいを残した。

普段心の奥深くに注意深くしまい込まれているとても脆弱で柔らかな部分に、この映画はそっと遠慮がちに触れてくる。

深々とした溜め息が出て、胸のあたりに熱を感じた。

 

心の中にそんな場所があるということさえ忘れていた。

そんなものはとうの昔に失われてしまったと思っていた。

この暴力的な世の中ではなんの役にも立たない、邪魔になるばかりのものだから。

 

でも、ずっと大事にしまってあったんだった。

雑な無神経さや下劣さにずたずたにされぬよう、しっかりと蓋をしてしまいこんでいた。

自分でも忘れるくらいの長い間。

 

そのことに気づかせてくれたこの優しい映画が大好きだ。

普通、感動は時間が経つほどに薄まり失われていくのに、この作品は時間を経て思い返すほどに、幾つもの美しく愛らしいシーンがありありと蘇り、身体に温かさが広がっていく。

 

何もかもが損得に絡め取られ、あけすけさに汚されていくこの世界で、逡巡して結局何も言わないままでいることや、てらいのないただの好意は、今ではとても珍しく貴重なものみたいになってしまった。

でもそれらはなくなったわけではなく、きっと今の世の中ではとても見えにくくなっているだけ。

目をこらし、耳を澄ませれば、そこここに見つけることができる。

日常のなかで、私はすぐに浮き足立って、たくさんのものを雑に打ち捨ててしまうのだけど、願わくば密やかな宝探しをするような心持ちで、小さな声にいつも気持ちを向けていたい。

 

この作品は、感情や関係性を名付けようとしない。

一言も説明されないまま、自ずと浮かび上がるにまかせる。

考えてみれば、名付けられないのは当然のことだ。

感情や関係性は、複雑でいろんなものが渾然一体となって混じり合っているのだし、川の流れみたいに常に揺らぎ、移ろっていくものだからだ。

何かを名付けて規定化することは、時には暴力になるのだということに気付かされる。

 

結局、それってこういうこと?

誰と誰はこういう関係?

私たちは何でもはっきりさせたがる。

せっかちで、想像力をはたらかせることが面倒で、分からないものを分からないまま心に抱えていることに耐えられない。

だから、自分の知ってる卑近な何かに物事の全てを類別して落とし込むことで、簡単に分かったと思いたがる。

 

でも、ある感情や関係性を手垢のついた言葉で規定した瞬間、コアにある一番美しい微妙なものは切り捨てられ、ないものとされる。

確かにそこにあった尊い何か。一番大切だったはずのもの。

言葉って宿命的に不完全なものだ。

 

そして人には誰しも、他人には分かりえない領域がある。

他者を簡単に分かろうとしないことは、それをリスペクトすることでもあると思う。

 

 

少年がひそかに恋する相手と心を合わせて氷の上でダンスをするシーンは、これ以上人にとって幸福なことなんてあるのだろうかと思うくらいの多幸感が、苦しいほどだった。

人生にはごくたまに、偶然の巡り合わせで完璧に幸福な瞬間が訪れる。

それは突然天から降り注いだ僥倖であり、願ったからといって得られるものではない。

人間の力では留めることも再現することもできない。

今この瞬間の美しさに圧倒され茫然としながら、ただ味わう以上に私たちにできることはない。

だからこそ、こんなにもかけがえがなくせつない。

 

主人公の少年の幼い友達が、とても素晴らしかった。

彼は、一心に踊りきったふたりをひとつも茶化すことなく、そこにある名付けようのない全てをまるごと祝福するように素朴な拍手を送った。

その友達の清潔な振る舞いが、さらにその瞬間を完璧な幸福にしたと思う。

 

 

つらいことに、幸福な瞬間だけでなく、悲しみや孤独もまた、人間のコントロール外のところからやってくる。

どれほど自分なりに優しく誠実に生きたとて、人間世界のすれ違いや傷つきを全て避けることなんてできない。

生きていくことはきれいごとだけでは済まないし、誰もが異なる思いと異なる事情を抱えて生きている以上、軋轢は起きる。

 

自分の傷ついた思いを言葉に変換できない思春期の少女は、悲しみを残酷さに変換する。

自分の思いを口に出せない不器用な少年は、不可解な悪意を無防備に身体に受け、曖昧に笑いながら心の中で血を流す。

大人は、話すことで自分を理解してもらうことを人生のどこかの段階ですでに諦めていて、黙って現実的な対処に徹する。

それぞれのつらさを前に、饒舌でない彼らは彼らなりの切実さに従うしかなく、誰も悪くはない。

偶然や巡り合わせも相まって、その中で相手を失望させたり、悲しませたりすることは、どうしても起こってしまう。

 

「結果が全て」という言葉が私は嫌いだけど、形にならなかったことは、結果を残さなかったことは、成功しなかったことは、では全部無駄で意味がなかったことなのか?

その最中にいる者ほど気付くのはきっと難しい。

でもこうして画面越しに彼らを眺めているからこそ、全然そんなことはないって言い切れる。

全てが台無しになり、無に帰するわけではない。

全部終わったみたいになって、人々がすでに散り散りになってしまったとしても、その時、愛という種が撒かれていたのなら、それはいつかどこかで芽吹くことになる。

全く同じ完璧な幸福な瞬間はもう二度と訪れなくても、思いがけない別の完璧で幸福な瞬間が、いつかきっと唐突に、神さまからプレゼントされるんだろう、と。

 

今の世界では、「報われない」って感じられてしまうことも多い。

でも実は多分、巡り巡ってわりときっちり報われているのかも。

神様の律儀さをもうちょっと信じてみてもいいのかも。

だから私たちは、出来るだけ他者に優しく親切にあろうとすべきだし、合理性や損得や正しさなんかではなく、愛を行動原理にすべきなんだ。

言うは易しでこれほど難しいこともないんだろうけど。