みずうみ2023

暮らしの中で出会った言葉や考えの記録

意地悪なのは誰か

今年も無事、確定申告を提出できた。

滅多に自分を褒める気持ちになれない私が、唯一手放しで自分を褒めてやりたくなるほどの達成感を感じさせてくれる毎年恒例の苦行、確定申告。

エブエブでも、確定申告で役所の人にあーだこーだ言われてる最中に、マルチバースに飛んでっちゃうというのが、大スペクタクルの始まりだった。

いやあ、分かるなあ!きっとダニエルズも確定申告で頭ぐるんぐるん、お尻むずむずで逃げ出したくなったクチなんだろうな。

 

何十年生きてもやっぱり数字というものが、苦手である。

そして辻褄を合わせる行為というものが、苦手である。

さらに申請スキルというものがいささかもない。てか、申請という行い自体が全く好きになれない。

経理関係の職業は、最も自分には適性のない職業なんだろうなと思う。

年に一回確定申告することで、経理というものからほぼ無縁で人生が成立していることの幸せを感じて、胸をなでおろす。

私にとっては経理や税務のプロって、スーパーマンみたいにすごい人たちだ。

ミッションが無事終了した後は、他ではないほどせいせいとした開放的な気分を数日に渡って味わえる。もはやこの気分のために毎年確定申告をやってると言っても過言ではない。

 

 

日頃、銀行の通帳記帳すらしたくなく溜め込みがちなので、いつもこのシーズンには慌ててまとめて記帳をしている。

先日、駅前の銀行の支店へ末っ子乗っけて自転車で行ったら、銀行前のスペースが有料駐輪場になっていた。利用者サービスもない。

記帳のために5分停車しても100円かかる。

もったいないなと小さく躊躇してしまう。

 

このところ、私の住むエリアではちょっと駐車したり、駐輪したりというスペースがどんどんなくなっていっている。

これまでは無料で停めていた区画も、ここ数年でどんどん工事されて有料化している。いつの間にか料金もじわじわ値上がり。

地域の大きい公園は、さすがに自転車は無料だけど、車だと3時間も滞在すれば1000円超え。

 

はー、いちいち高いなーってふっと小さなしんどさが心をよぎる。

ただ生きて、生活圏内をちょこちょこ動き回っているだけでお金が目減りしていくことに、気付かないうちに心が削られてるように思う。

ただの日々の活動にこまごまと課金しようとする社会って、おおらかさに欠けるよなあ。

都市部に住んでいるから仕方ないと言われればその通りなのだろうけれど、世知辛い。

 

 

その銀行前の駐輪スペースには、有料スペース外に駐輪させないよう見張るための監視員が、ねずみ色の制服と帽子と緑の腕章をつけて立っていた。

もう老人と言ってよいほどの年代の人だ。

ああやって、ちょっとした隙間に停められないように目を光らせてるのか。もうなんかやだなあ、記帳はまた今度にしよう。

そう思って踵を返そうとしたら、監視員のおじいさんに、

「銀行に用事なの?じゃあ、この宝くじの店の前にちょっと停めるといいよ」

と声をかけられた。

一瞬虚を突かれて、え、そうですけど、いいんですか、と訊き返すと、

「すぐ済むんでしょう、いいよいいよ」とおじいさんは言う。

ありがたく目の前のスペースに停めさせてもらって、あちこちせわしなく動き回る末っ子に気を配りながら記帳をすませ、そそくさと自転車に戻る。

「ありがとうございましたー」と小さな声で言いつつ、末っ子を後ろの座席に座らせる間、おじいさんは遠くをぼんやりと見つめて返事をしなかった。

去り際、この人はここでねずみ色のぎこちない制服を着て、一体一日何時間、黙って立っているんだろう、とふと思った。

 

帰り道、自転車を漕ぎながらこういうの良くないな、ともの悲しい気持ちで考えた。

意地悪なのは、店舗の前の道路スペースを駐輪場にして、利用者からもお金を取ろうとする銀行側で。監視員を置いて見張らせる経費はかけるのに。

あのおじいさんは、多くの高齢の労働者同様、仕事の選択肢が少ない中で、あの仕事をおそらくお金のためにしている。

おじいさん自身がなにも意地悪な気持ちで見張ってるわけではなくて、「銀行が」おじいさんにああいう仕事と憲兵みたいな格好をさせて、意地悪な存在として記号化している。

でも、私はおじいさんを、あの制服の印象もあいまって、非寛容で意地悪い存在として反射的に嫌な気持ちを抱いた。

非寛容なのはああいうシステムにした企業の方なのに、おじいさんが行き交う人々に無言のうちにうとまれることになる。

ただでさえ高齢者に冷ややかな昨今なのに。

 

こういうズレをきちんと認識せずに、ものごとを切り分けずに、雑に印象で判断してしまうことで、人と人は簡単にすれ違い、ぎすぎすしてゆくものだと思う。

分断って、大仰な言葉だが、こういう些細なズレに端を発していることのようにも思う。

気をつけなくっちゃ。

 

 

自分の暮らす町の保水力みたいなものが、コロナ禍以降、また一段と目減りしているように感じる。

個人店や古い商業施設が潰れて、大資本の分譲マンションや大手チェーン店ばかりが増えていってる。

住宅街のお年寄りの住むゆったりとした敷地の家は、そこに住むお年寄りがいなくなったらすぐに潰されて、土地を4つとか6つとかに切り分けて、あっという間にぎゅう詰めで建売住宅が立ち上がる。

自転車を少し走らせれば親子三代手作りの和菓子屋さんなんかもまだあるけど、いつまで持つかな、と心配している。

 

いろんなものがどんどん変わっていっても、できるだけ親切に、丁寧であるために、意地でも余裕を手放すものかと思う。

気付いたら深呼吸をして、空を見上げて雲や月の形をしげしげと眺め、住宅地の小さな緑の変化を感じ、鳥の声を聴き、風を肌に感じる。

本当はもっと自然の多いところで暮らしたいけど、難しい。

そうやってなんとか余白を保とうと思ってる時点で、実際、相当しんどさを感じているということなんだろうなあ。