この半年、土曜日の午前中は、末っ子の療育の親子クラスに通うのが我が家のルーティーンになっている。
親の参加は、夫婦で週ごとの交代制にしている。
昨日は私の番だったが、今回も濃い時間だったなあ。
末っ子自身も土曜日を楽しみにしてるし、親の私たちの学びは多く、子供は美味しい給食も食べられる。
大体3〜7人の少人数で、それぞれの親に加えて2人に1人職員がつくという手厚さ。
毎回取り組むアクティビティには明確な意図があり、自分も子供と共に体験しつつ、他の親子も眺めつつ、末っ子を客観的に見ることができる興味深い時間だ。
アクティビティの後には、親だけで30分ほどの振り返りの時間があって、いろんな意見交換をする。
さまざまな異なる特性を持つ子の親の、その日の気付きや最近の出来事や子育ての悩み事がシェアされ、その子なりの成長を認め合って喜ぶ時間でもある。
深い配慮と見識に基づいた先生からの的確なコメントや励ましはもちろん、子供と関わる上での行動や言葉遣いの工夫、どんな構えで子供に接しているか、他の保護者さんの話や考えも、すごく興味深いし参考になっている。
私自身も改めて言語化することで、考えがクリアになる。
親子クラスは結構気を張る時間で、帰りにはいつもぐったり疲れてしまうけれど、誰もが得られるサポートではなく、貴重な機会に毎回感謝しながら参加させてもらっている。
昨日は、騒々しい環境かつ見通しの立たない状況に置かれると、いかに末っ子が自分を見失ってしまうかということがつぶさに観察できた。
普段通っている保育園は、いつもわいわいがやがやと賑やかで、大人数縦割りの自由保育。カリキュラムのようなものは基本的にない。
そのような中で、さあみんなで何かをやりましょう(工作やおゆうぎなど)、というシチュエーションになると、末っ子は今目の前で起こっていることが理解できず、いつもぽつんと取り残されていると、保育園での様子を定期的に観察報告してくれる専門職から話を聞いてはいた。
昨日は、その様子を実際に目の当たりにすることになった。
なるほどー、末っ子は普段ちょうどこんな感じで、集団の中で何をどうすればいいか分からず混乱したまま、やみくもに暴れ回り、走り回っているのだろうな、と思った。
大人数の中にあると、お友達がたくさんいて嬉しいんだけど、浮き足立ってわなわなして、完全に外側に矢印が向いてしまって、自分がないがしろになってしまう。
顔は笑っているし、走り回っているから楽しそうに見えるんだけど、同時に強いストレスも感じているのだということが見てとれた。
そして、隅のちょっと隠れられるようなスペースに入ろう、入ろうとする。
一緒に遊びたい他の子供が「わたしもいーれーてー」と何度声をかけても頑なに拒む。
Rちゃんが、末っ子が立てこもっているクッションブロックをドアに見立てて、「あ、かぎがあった、ガチャ」と開けるフリをすると、「これはちがうかぎですから開きません」と中から末っ子が答える。
あ、ここにもあった!ここにもかぎがあった!と何度も違う鍵でドアを開けようとするRちゃんに、「このドアはうちかぎでした」と機転を聞かせて拒否っていたのには思わず笑ってしまった。
結局、しびれを切らした別の子が、強引に末っ子の隠れていたクッションブロックを引きはがすと、末っ子はとても嫌そうで、ちょっと泣きそうな表情もあった。
これが公園やプレイパークで起こったことだったら、普段の私は「独り占めしないでみんなで仲良く遊ばなくっちゃだめだよ」と早々に末っ子に注意をしていたと思う。
それがいわゆる一般的な親の声がけだからだし、今は、「迷惑をかけてはだめ」に超センシティブな親が多いので、大人に気を遣うということもある。
でも療育では、子供の言動を大人の都合でジャッジするのではなく、あらゆることを「なぜこの子はそのようにしたり、言ったりしたんだろう」というスタンスで眺めるという基本姿勢で子供に接する。
だから、私も変な気遣いにとらわれたりすることなく、子どもの行動を落ち着いて観察できるのだと思う。
昨日は、一見ただ元気に気まぐれに遊んでいるだけのように見える末っ子が、単なる独占欲や意地悪で他の子を寄せ付けないのではなくて、自分でも無自覚なままにカオスからなんとか逃れて、外界との境界を作って自分を守ろうとしているさまを発見できた。
それは、私にとっては大きな気付きだった。
毎回、何かしらそういう発見がある。
ただこの子は多動なんだ、というのではなく、一体何が不安でじっとしていられないのか、どんな工夫やサポートがあれば少し安心できるのか、と解像度高く子どもの行動を見つめることで、末っ子への理解が深まる。
わがまま、かたくな、自分勝手、人の話を聞かない、乱暴や動きの荒さ、人の嫌がることをする、大人に従わない、など、ある種の子どもは周囲の人たちにそういう印象を与え、ネガティブな評価をされる。
受け取る側に余裕がなく、ものごとの捉え方の解像度が低いと、ほんの幼い子どもがやっていることであっても、悪意として受け取られることもある。
ていうか、私自身、末っ子の行動を悪意に変換してしまう瞬間は、ままある。
他者のネガティブな反応の積み重ねで、子どもは自分を否定的にとらえるようになっていく。
幼い頃の私自身がそうだったように。
自分は人に迷惑をかける存在なんだ、自分は身勝手で性格が悪いのだ。
幼い頃、両親にたびたび言われて傷ついた言葉は「お前は可愛げのない子だ」だった。
まあ大変な子どもだったのだろうとは思う。
でも、これって言われたところで子供にはどうすることもできない、ただただ呪いにしかならない言葉だよなとも思う。
私自身は、こういう言葉を末っ子にぶつけたくはないと思う。
療育の助けを受けながら、まず親の私たちが末っ子に対して不完全なのは仕方ないながらも、致命的な加害はしないようにしたいと思っている。
週末の親子クラスに加え、支援員が定期的に保育園に訪問して、末っ子の様子を観察報告してくれるというサポートも受けている。
支援員のOさんの、末っ子の様子が生き生きと伝わってくる、同時に鋭い指摘も含む詳細な報告書は、とても勉強になる。
末っ子はOさんによく懐いているようで、Oさんもとてもかわいく思ってくれて真剣に考えてくれていることが話していて伝わってくる。
子育ての味方がいるということに、いつも温かい気持ちになる。
訪問支援は当初は半年間の予定だったけれど、先方から今後も支援を継続したいという申し出があった。
それは小学校に入ってからも続けてくれるというお話で、本当にありがたく思っている。
同時に、末っ子は、やはり専門家から見てそれなりの課題を抱えた子ということなのだろうな〜と実感させられもした。
こうした療育機関のおかげもあり、末っ子の特性や課題がだいぶクリアになったこの半年であった。
末っ子は、一見普通に見えるから、関わりの困難さを周囲に理解してもらえることはほとんどなく、私自身の親としてのいたらなさを突きつけられているように感じてしまうことも多かった。
療育のお世話になるようになってから、末っ子も親の私たちも、半年前よりも気持ちがずいぶん安定したなと感じる。
ボーダーの子どもを育てるしんどさのひとつは、周囲の人からの「私にはごくごく普通に見える」「特別なケアを受けるほどではないのでは」という言葉や態度で、親が今感じている困難さの存在自体を否定されてしまうことにあると思う。
昔、私自身も励ましのようなつもりで「全く問題ないと思うよ、普通に見えるよ」と、誰かのお子さんに言ってしまったりしたこともある。
見えるものを見えたままに悪気なく口にしてしまうことは、ある程度無理のないことだと思っている。
そこに悪意がなければ、基本的には気にしない。
でも、ひとりの大人として「自分の眼に見えているものはかなり限定的である。誰もが他者には分かり得ない固有の事情を抱えている」ということへの想像力はできるだけ持っていたいなと思う。
療育では、末っ子の特性を当然「あるもの」という前提で思いを共有してくれる。
困難さや悩みを、大げさとか気にしすぎとか言われる心配がない。
その前提をベースに、何が末っ子のためによりよいことだろうかと一緒に考えてくれる人たちがいるということは、私にとっては本当に心強いことだ。
私は自分の感じ方や認識にあまり自信や確信が持てないから。
いろんなことをしつこく考えて、こうして書いたりしながら、ひとつずつ落とし込むようにしないとなかなか次に行けないのも、そもそも自分が何を感じ、何を考えているのかを見つけることに時間がかかるからだし、なぜ自分がそのように感じ考えるのかが、なかなか分からないからだ。
そんな脆弱な自分だから、自分が「ある」と思った物事を誰かに「ない」と言われると、世界がぐらりと揺らいでしまう。
末っ子はどこにあっても意に介さず末っ子のまんまで、療育は遊びに行く場所が一つ増えた、くらいの感覚だと思うけど、私自身が療育につながった時に心に湧き上がった思いとは、「はー助かったー」というものであった。
あんまりほっとして、面談の中で少し涙が出てしまったくらいだった。
4月からは、保育所訪問支援に加え、子供単独の通いの療育が週2日新たに増え、親子クラスもあと半年続けることになった。
本当に手厚くてありがたい。
我が家は恵まれているなと思う、他にも支援を必要としていて、支援に繋がることができない子はいると思うから。
小学校まであと1年。
保育園と療育で色々学ばせてもらいながら、何が末っ子にとってよりよいことかを試行錯誤し、考えながら過ごしたいと思う。
そして、このかわいい5才の時期を、すぐにおっきくなっちゃうこの短いひとときを、めいっぱい楽しみ、味わって過ごしたい。

後ろ姿の写真があまりない