昨年末から年始にかけては近場の映画館では観たい作品がほとんどなかったけれど、これからしばらくは期待作がめじろ押しで嬉しいー。
一番の楽しみは、2/23公開の「落下の解剖学」と「哀れなるものたち」。
ヨルゴス・ランティモスの作品は、どれも好きだけど、めんどくさい。
ああーめんどくさい。でも見逃すわけにはいかない。
今回はどんだけ風変わりな作品だろう、終始意味不明なままかも・・・と思いながら見に行ったが、鑑賞後は見られたことへの感謝の思いにしばしじーんと浸っていた。
こんなすごい作品を、世界中の人がご近所で、分け隔てなく安価で楽しむことができるなんて。
映画というジャンルがもつ大らかさや豊かさが大好きだ。
それにしても、ヨルゴス・ランティモス、なんて作家だろう。
天才の脳内を惜しみなくさらけ出した作品になっていた。
彼の作品で一番好きな作品になった。
奇天烈でドリーミーでグロテスク。隅々まで高い美意識が貫かれて、どこまでも本質的。
ちょうど昨年の今頃「イニシェリン島の精霊」を見て、何日もざわざわわなわなしていたなあと思い出す。今年も年始早々、そんな映画に出会うことになるとは。
あまりに多層的で深いので、一度では全然受け取れてない。
この先も長く考え続け、見返すごとに発見があるんだろうと思う。
(以下、内容に触れています)
エマ・ストーン演じるベラ・バクスターは、科学の実験によって作られた命。
無垢な愛らしさと美貌をもつベラを取り巻く者たちは、それぞれの欲望に基づいたやり口で彼女を支配しようとする。
けれど、ベラはあまりに無垢で本質的な存在なので、男性原理(家父長制や男性優位社会)に基づいて設計された今の人間世界のルールを軒並み吹き飛ばす。
あまりの滑稽さと痛快さに思わず声をあげて笑ってしまう一方で、たまらなく居心地の悪い気持ちにもさせられる。
我々は誰もが多かれ少なかれ、性に関してそれぞれの思い込みや抑圧を内面化しているからだ。
本作の中心をなす重要なモチーフが「性」。
性をベラがどう捉えているかを通じて、人間社会における性とは一体何なのかが浮かびあがっていく。
ベラは、ある日「自分で自分を気持ちよくする方法」を発見する。
彼女にとっての性行為とは、それ以上でも以下でもない。
彼女は性行為を「熱烈ジャンプ」と呼び、自分をすごーくハッピーな気分にさせてくれる遊戯行為としか思っていない。
通常、性に関する規範や倫理において、女性は常に受身で表現される。
「受け入れる」「貞操を守る」「捧げる」「買われる」・・・。
女性は、男性を脅かさない程度に無知で愚かで弱く、見た目が美しいほど価値が高いとされる。
意識のアップデートも例外もあるが、基本的に女性は「査定され、養われ、世話をし、対等には並ばない者」として社会に規定されている。
ところが、ベラはそれらの規範を戦わずして軽々と飛び越えてくる。
ベラには罪悪感や羞恥心がなく、性の規範や既存の価値観にみじんもとらわれない。
契約や約束としての愛という概念も持たない。執着もない。
金や社会的地位にも一切興味がない。
徹底した主体性、自分のやりたいこととやりたくないことだけがある。
そして常に変化し、成長していく。
誰かからの支配や抑圧は、激しい怒りをもって断固拒絶する。
そうした時、女はここまで清々しく自由な存在になるのだということに、目を開かされる思いがする。
だって私たちは「女の体を持って生まれてきたから仕方がないのだ」って思わされるような社会にずっと生きてきたのだから。
貞操観念や恥や性道徳は、いずれも女性を「性」の縛りと呪いによって社会に屈服させ、支配するための後づけのイデオロギーに過ぎないということが、この映画を見ているとよく分かる。
人間が性に過剰な意味づけや付加価値、あるいはタブーを与えた。
それがだんだん命よりも大事な価値観みたいな倒錯的なことになっていき、真に受けた人が死ぬほど悩んだり実際命を絶ったりするほど、性のことは重大事になっている。
でも動物においては、そんな苦悩はまるごとない。
結局のところ、人間が自分たちで作った檻の中で苦悩している。
女たらしの弁護士ダンカンは、ベラが「肉欲」や「特別な存在」へ執着するだろうと勝手に仮定して優位に立とうとしてみたり、「金」と「社会的地位」の力でかしずかせようとしたり、「貞操観念」や「恥の概念」で抑圧しようとしたりする。
でも、彼女にとって今の人間世界を形作る男性原理が完全無意味なので、聞こえてないみたいにただスルーされる。
流れ着いたパリで成り行きで娼婦になったベラをダンカンは軽蔑の言葉で罵るも、ベラは痛くも痒くもない。
そもそも既存の性道徳が無価値だから、損なわれようがない。
その結果、ダンカンは哀れなほどの一人相撲状態に陥る。
自らのエゴの拠り所を見失い、ぐらぐらと不安定になって、執着で気が狂ったストーカーみたいになって、自分で自分の人生をあっという間に台無しにしていく。
つまり、性って、性欲や性衝動のことじゃないのだ。
人が人の全部を自分の好きにしたいっていう、究極のエゴで支配欲のことなのだ。
ずっと素朴に不思議だった。
立て続けにリークされる社会的強者や権力者の性犯罪の多さってなんなのと。
ジャニー氏とか、松本氏と後輩芸人たちとか、長渕剛とか、アラーキーとか、ハーヴィー・ワインスタインとか、ジェフリー・エプスタインとか、まー挙げるときりがないくらいの#ME TOO案件。
権力はなぜ、ばかの一つ覚えみたいに性加害に向かうのか?欲を満たす他のバリエーションないんか?
権力者以外でも、従軍慰安婦の問題をはじめとしたあらゆる性搾取、痴漢やストーカーやレイプなど性加害は今も昔も世界中で溢れかえっている。
そこまでして、何よりもヤリたいことなのか???
性犯罪のニュースが出るたびに、ほとほとげんなりしてきた。
そしてうっすらとした絶望や無力感を感じてきた。
女は女の体をして生まれてきてしまった以上、値踏みされたり踏みにじられたり加害される脅威と共に生きねばならず、「危機意識や自衛の甘さ」のために被害に遭ったなら、それは自業自得だなんて、なんて不合理なことだろう、と。
ベラはそんな絶望をある意味において突き崩した。
社会が勝手に意味づけた性規範が根底からひっくり返った時、女は生まれながらの被害者という属性から解放されるのだ。
繰り返すが、性加害は抑えがたい性欲とか、本能とかのなせるわざではない。
暴走して見境がなくなったエゴが欲望していることだ。
性加害への欲望とは、「人をモノ化して自分の好きなようにしたい」ということだ。
人は、誰もが異なる感情と意志と尊厳を持つ。
人間同士の関わりは実に面倒くさく、喜びや温かさや幸せをもたらす一方で、傷つきや寂しさや不快もいつも隣り合わせにある。
人間をやってくことは、どうしたって面倒くさくみじめなことなのだ。
誰もそこから逃れて楽をすることはできないし、勝者でいつづけることもできない。
でも性加害をする者たちは、思い違いをする。
相手が複雑な心と生々しい肉体と意志を持つ存在だということを一切無視して、モノのように扱っていいのだと。
自分のような優れた、あるいは強い人間は、他人を軽んじたり使い捨てにしても許されるのだと。
そもそも、それってそんなに病みつきになるくらいに楽しいことなのだろうか。
でもきっと、ある種の人間にとっては、ほんの一瞬全能感を満たす行為なのだろう。
だからリスクを負いながら、必死に、依存症的に繰り返すのだろう。
エゴと支配欲に身体を乗っ取られて人としての矜持を失った、哀れなるものたち。
だから、性加害は、男性であることが原因なわけではない。
それこそヨルゴス・ランティモスのように、男性原理や家父長制に与しない、むしろそれらを憎む男性はたくさんいる。
性被害に遭う男性もいるし、性加害をする女性もいる。
「男性原理」とは、〈男性〉の原理ではない。
「男性的」「女性的」という言葉がすでにバイアスが強すぎだし、雑すぎるのに、それに替わるもっと正確な表現が見当たらない。
雑で不正確な言葉しか手元にないために、男性vs女性という本質からずれた単純化された構図にすぐにすり替わってしまう。
フェミニズム研究者でさえ、男性と男性性をごっちゃにして語る。
憎むべきは、家父長制や「有害な男らしさ」なのに、ともすると男という存在自体に憎しみが向かってしまう。
男性たちだって、家父長制や有害な男らしさの被害者なのに。
そのことをとてももどかしく思う。
脱線するようだけど、そういうこともすごく考えていた。
再び胎児から人生をはじめたベラの人生の冒険は、人の人生の成熟の過程を辿っていく。
まず、行きたいところへ行く「自由」を獲得し、
他者を通じて「知識や思想」に出会い、
同時に世界の不平等や残酷な「現実」を知り、「理想」をもつ。
その後、流れ着いたパリで娼婦という「仕事」と社会主義の「学び」を経て、彼女の精神は成熟してゆく。
つまり「大人」になる。
各シーンは、彼女の精神の成熟に絶妙にリンクするような音楽や美術や衣装で彩られている。
特にベラが自由を満喫し、知識や思想をぐんぐん吸い込む時代の、夢見るようにビビッドな世界観がたまらなく好きだった。
若い頃、いろいろきついこともあったが、世界は確かにずっとカラフルにビビッドに見えていたことを思い出していた。
でも、私は今の世界の見え方も、とても好きだ。
これまで美しいと思わなかったものを美しいと感じるようになることは、長く生きていることの素晴らしい側面だと思うから。
その後、ゴッドの家に戻ったベラは、マックスと自立した人同士としての「パートナーシップ」を結ぶことになる。
そして、「感謝と思いやりと許し」をもって親(ゴッド)を見送る・・・。
短期間に次々と変容し、成熟してゆくベラの佇まいを違和感なく全身で表現していたエマ・ストーン、素晴らしかった。
しかし、ここで大円団で終わるわけにはいかない。
今の人間世界が抱える大きな問題に言及しないわけにはいかないからだ。
それは、主体性と断固とした拒絶をもってしても回避することのできない、強者の圧倒的な暴力による恐怖支配に我々はどう対抗するのか?ということだ。
問答無用の暴力の象徴としての元夫が、ベラの前に立ちはだかる。
彼は常に相手に銃をちらつかせながらでないと話すことができない。
ラストシーンを見ながら、レベッカ・ソルニットのこの言葉を思い出していた。
ここ100年の間、ストレスや危険に対する人間の反応は「戦うか逃げるか」だと定義されてきた。
しかし2000年UCLAの心理学者チームは、「戦うか逃げるか反応」のもとになった研究は、大部分においてオスのマウスと人間の男性のデータしか使っていなかったことを指摘した。
女性も研究対象にすることで、第三のしばしば効果的に展開される選択が見つかった。
集まって連帯し、助け合い、アドバイスを与え合うことだ。
(「わたしたちが沈黙させられているいくつかの問い」レベッカ・ソルニット著 より引用)
まさに男性原理とは戦うか逃げるかの二択であり、今の世の中の主流は概ねその通りになっている。現実だけじゃない、フィクションの世界だってそうなってる、マーベルとか鬼滅の刃とか。
本作で、ベラは最後に「連帯し、助け合い、与えあう状態」を獲得するに至る。
そして、対話不能で暴力で全て思い通りにしようとする元夫を殺さず「無力化」した。
とはいえ、元夫に動物の脳を移植することは、残酷であり、復讐性をはらんでいる。
これもまたひとつの暴力と言ってしまえばそれまでなのかもしれない。
だから、一見平和なあのラストシーンをどう見ればいいか、今はまだちょっと考えがまとまらない。
結局、脳がある限りエゴがある限り、男だろうが女だろうが、人間はどこまでいっても、堂々巡りから抜けられない。
そんな風にも感じられる。
一つの地獄を抜けたと思ったら次の地獄が待っているのだし、うまくいっている状態というのは、微妙なバランスのとれた瞬間に限定的に存在するもので、安定的恒久的に実現することは不可能だ。
それでも私たちはそこを目指してあくせくし続ける。
それが人生。
人間とは、Poor Things、哀れな生き物だ。