みずうみ2023

暮らしの中で出会った言葉や考えの記録

「瞳をとじて」

 

2023年スペイン/原題:Cerrar los ojos/監督:ビクトル・エリセ/169分/2024年2月9日〜日本公開

 

人生の折り返し地点を過ぎた人にぜひ見てほしい作品。

長いしとても地味だけれど、しみじみと味わい深い。

 

主人公ミゲルは、何十年かぶりに謎のままに過去に置いてきたある記憶に向き合うことになる。

ひとつずつ人生の棚おろしをしていくように、当時を知る人たちと連絡を取り、会いに行き、言葉を交わす。

古い記憶を共有する人たちとの対話は、今の世の中ではありえないくらいに落ち着いてゆったりとしていて、とても心が休まる。

穏やかな対面での幾つもの会話のシーンが、冗長と言ってよいほどに長く続く。

不思議といつまでも見ていられる心地よさがある。

 

失われた恋も友情も、今さらどうかしようだなんて思わないくらいに全ては遠く過ぎ去ってしまったし、失われてしまった命もある。

誰かに去られたり、ないがしろにされたりしたことを、裏切りと思い、諦めて、悲しみを振り切って生きてきたけれど、いまいちど勇気をもって手を伸ばし、真実に向き合ってみた時、仕方がなかった事情や自分の勝手な思い込みを知ることになる。

誰も皆、それぞれ必死に生きていただけ。悪意はなかったのだ。

 

長年の傷が優しく癒されていくが、同時に決して取り戻すことのできない過ぎた時間の重みの前に茫然と立ち尽くす。

それでも、かつて愛した人とふたたび、言葉少なく優しい時間をただ過ごすことは、人生において掛け値なく美しいことのひとつだと映画は教えてくれる。

 

スペインの少し寂れた明るさをもつ自然が美しく撮られている。

スペインにとても行きたくなった。

なかでもミゲルが住んでいる海が目の前にある小さな集落の中の家は、私にとってのかなり夢の住処に近いものだった。

キャンピングカーを寝床に、敷地には小さな畑があって、大きめの雑種犬を飼っている。

のんびりトマトの世話をしながら、物書きをして、夜になるとお隣さんたちと庭先で集ってお酒を飲みながらゆるゆると喋ったり、ちょっとギターを弾いて歌ったりしているミゲルが羨ましくて仕方なかった。

あー私もこれがしたい、って思った。

この先の人生、できる限り、こんな風な時間を過ごすことができれば本望だよなあ。

 

フィルム映画へのノスタルジーも切なく描かれていた。

フィルム映画時代の最後をまだ覚えているから、ひとつの文化が早晩避けがたく失われていくのを為すすべなく眺めているのは、なんとも言えず寂しい気持ちがした。

 

全ては失われていくし、色んなことは仕方がないことばっかりで。

それでも誰もの人生が愛おしいと感じさせてくれた。ありがとうという気持ち。

人はひとりでは生きられない

毎日のように17歳の娘氏から議論をふっかけられている。

最近、あ、なんか話が面白くなりそうだなーと思った時は、ボイスレコーダーのボタンをぽちっと押す。

でも大抵は録ったきりで、どんどん溜まっていってしまっているのだけど(夕飯作りながら1時間喋ってるとかざらだから)、昨日は短く切りあがったので、試しにちょっと書き起こしてみた。

取りとめのない話だけど、私は結構面白かったので。

これは昨日の朝の会話。

 

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(娘氏、以下娘)

みんなさあ、「人間関係に悩んでる」って言うじゃん。

職場でのいざこざーとか、恋愛沙汰に巻き込まれたーとか。

そういうもののことを「人間関係」だとみんな思っている。

でもそうなると、人間関係っていうのは、めんどくさくて自分にとってなんの益もない、嫌なものでしかなくなるよね。

 

(私、以下母)

「人間関係=ネガティブなもの」になっちゃってるってことかー。

 

(娘)

「人間関係に悩んでます」とか「人間関係めんどくさい」とか、大抵そういう語り口になってるでしょ。

だけど、人間関係ってそれだけじゃなくて、他の人と人と繋がり方、ポジティブな人間関係はいっぱいある。

でも、こういうシステムの中で隙間なく年を重ねていくうちに、だんだん人間関係のポジティブな側面に気づきにくくなっていくのかもしれない。

私も人と関わり合いになりたくないなんてしょっちゅうだけど、でも自分は他者がいないと生きられないって切実に思う。自分は一人では何もできない存在だから。

 

(母)

今って「人は一人では生きられない」って言葉がすごく空虚に響く時代だよね。

きれいごとっぽく響く。

頭では分かっていても、体感としてどうも切実にそうは思えない。

「一人で生きていける」って感覚を持っている人は相当多いと思う。自分も含め。

家から一歩も出ずに生きながらえることができてしまう世の中だからさ。

 

でも娘氏は一人では生きられないって切実に思えるんだね。

どんな時に他者がいないと困るって思うの?

 

(娘)

ごはん食べてる時。

牛乳飲んでる時。

どこかの遠い地で、まず牛乳を生み出した生物がいて、それを人間が囲って、牛乳を瓶詰めするなどして、それを運ぶ人がいて、それをまた別の人に渡して運ぶ人がいて、それを並べる人がいて、それをお母さんが手に取って買って、そうやってようやく辿り着いたものを私は飲んでるだけなんだけど。

いろんなことが全部そうじゃん。

誰かがいなかったら成立しない。

考えたら辛い気持ちにもなるんだよ。

その人たちの労働によって自分が生かされている。

その人たちの労働が権力者をよりのさばらせてこの現状を維持させている。

その人たちの労働環境がいいとも思わないし、生物に対して人間が傲慢に振る舞うこともいいことだとは思わない。牛乳はおいしいけどさ。

 

何ひとつ自分一人ではできない。

それは精神的な面でもそうでさ。自分だけで自分を立て直すことは大抵できない。

パパとママと話したり、音楽を聴いたり、映画を見たり、何かしら人に触れて助けられている。

ただ、人の助けや親切に感謝を感じて、その記憶を大事に持っていられる人ばかりではなくて。

かつての自分がそうだけど、辛い経験は記憶を消すから、ポジティブな記憶も消えてしまいがちなんだよね。

でも、自分にとっての危機的な状況、ものすごく不快だった出来事、そういう記憶は生存に関わるから、選択的に強烈に刻まれる。

そういうことが積み重なっていくと、「人に助けられている」というよりは、「人に苦しめられている」と感じるようになると思う。

 

そもそも私が「人間関係=学校での友達や先生とのやりとり」という感じじゃなくなって、自分が親切な人に囲まれ、温かい人間関係に恵まれていると感じられるようになったのは、学校というシステムを抜けたからってことは大きい。

 

だから、学校に行っている友達と喋っているとすごい壁を感じる。

籠の中にいる人と喋っているみたいな感じがする。

それだけじゃないよ、こういう人間関係もあるよ、出ておいでよ、って言ってみても、「何言ってんの、ここから出られるわけがないじゃん、大変なことになるんだよ?そんなの当たり前のことでしょう」って絶対に出てこない。

 

(母)

なーるほどなあー。

一杯の牛乳を飲んでそこに思いを馳せられるようになったのは、パーマカルチャーでファームステイしてたことも影響してると思う?

 

(娘)

そだね、(ソーヤー)海さん、いちいち「そのエネルギーどこから来てると思うの」ってところから始まるからね。怖いんだよー(笑)

私はなんの自覚もなくこのエネルギーを享受していました〜!ってなったよね。

豆塚エリさんの本(「しにたい気持ちが消えるまで」)を読んだことも大きかった。

「あなたのその服は誰が作ったのか。自分で何を作り出してきたのか」って問われるような文章に出会った時に、「え、やば、自分何ひとつ作ってない」ってなって。

「買う」とか「家族に養育されてる状態」を「自分で生きてる」って思ってたけど、何も自分でやってなくない?って。

ただただ既存のシステムに乗っかっているだけ。

 

もちろん私も食事するたび毎回毎回そんなことに思いを馳せてるわけじゃないんだけど。

ひとりの限界というか、そういう風に思うようになったのは、(不登校の時期に)自分で動けなくなったっていうのも大きいと思う。

ベッドから体が動かないとか、人との約束が守れないとか。

今まである程度自分にはパワーがあるって思ってた、自分の生活を自分でコントロールできるって。

そのコントロールが乱れたからこそ、「これまで自分は何によって動かされてたんだろう」とか、「今、自分は何によって動かされているんだろう」といった視点が出てきたというか。

 

(母)

やっぱり「人は一人では生きられない」という実感を得るためには、弱者性の獲得みたいなものが必要になってくるということなのかな。

そういうものがないと、

 

(娘)

麻生太郎みたいな感じ?

 

(母)

ねー。だってあの歳まで何の弱者性も持たずに生きることが果たして可能なのかなって逆に思うんだよね。

誰だって生きてりゃ色々あるでしょう、って思うもの。

 

(娘)

弱者性よりも強者性の方が強いってことなんじゃないの。

自分の一言で人が動く、結果が変わる。

自分の言ったことを押し通せる。

それも国みたいな単位で。

 

(母)

ホリエモンみたいな人もいるよね。

数年でまた傲慢な人に戻っちゃったみたいな。

人間は忘れる生き物だからってことなのかな。

 

(娘)

私も記憶力悪いのは同じだけど、だからこそ書いたり音声で残している。

それを時々読み返すと思う。

2年前の自分の文章は、今の自分には書けない。

こういう言葉は、今の自分からは出てこない。

その時の自分しか持ってないものがあるんだよね。

その時はもう、手放したくて手放したくて、しょうがなくてアウトプットしたものなんだけど。

もう忘れてるわけ。

忘れてるし、身体的な記憶もなくなってきてる。その残された文章がなかったら。

読んで初めて、それが今の自分にはないってことを認識できる。

脆いよね。

 

幼少期からティーンエイジャーにかけての記憶って身体に刻まれる部分てあると思うんだよね。

写真の榊先生も「どうしてもあの時期見たものはのちのちまで響いてくる、それはもうどうしようもない。それがその人の人生のテーマになったり、繰り返し十代のことを描いていくということが多くの人にあると思う」って言ってたし、新海(誠)監督も「自分は全部十代の記憶で作品を描いてる」って言ってたし。

 

十代の頃は誰にも弱者性ってある、誰でもその期間に何がしかの無力感を感じている。心のどこかで。それはすごい大きいことだと思う。

 

(母)

強者性の加害性もある一方で、今人を殺しているのは、むしろ「人を雑に扱う」ということから起こっているのではないかという思いがある。

権力勾配とは違う、雑さって、忙しさや余裕のなさから生じる加害性なのかな。

 

(娘)

私は以前に比べたら今はだいぶ忙しくなってるとはいえ、まだまだ余裕はある方だと思うけど、「あ、雑に扱っちゃった」と思う時あるよ。

約束を忘れた時、返信が遅くなった時、相手の気持ちを考えなかった時。

自分に相手がどういうことを問うているのかを考えなくて、「あ、やば、返信しなきゃ」ってばばばって書いて、よしっこれでいいだろう、みたいな。

相手と会いたくて約束したはずなのに、いつの間にか、相手がタスクになっている。

そうなった時は雑にしたって思う。

人間を数字にするみたいな感じで。

「通知」って、人間を数字にしてしまうよね。

人は数字になりやすい。

 

 

お祈りの習慣

昨日からの雪は、夜半に雨に変わったが、今朝もたくさん溶け残り、霧雨も降って底冷えがする。

それでも、いっぱい着込んで熱い白湯を入れたマグを片手に、暗いなか早朝のお散歩はした。

新鮮な空気を吸い込んで、小さなお祈りをしながら近所をひと歩きする。

しばらく前からの習慣になっている。

実は、自分は神様というものはさほど信じていない。

でも、お祈りをすると、自分が人生に何を求めているかを改めて確認することになるので、自分の大事にしているものや自分の中の優先順位がクリアーになる。

今ある状態で自分がどれだけ恵まれているか、どれだけすでに持ってて叶ってるかを改めて感じられる。

お祈りとは、焦ったり驕ったり気に病んだりしがちな自分にとって、今に立ち返る確認、点検作業みたいなものだ。

自分を信じる心や感謝の心は、花に水をやるみたいに毎日お世話してあげないとすぐにだめになるから、お祈りの習慣はなかなかいいものと思う。

昔はどの家にも仏壇や祭壇があった。毎日仏壇のお世話をして、りんを鳴らす習慣は、今ではだいぶ廃れてしまったけれど、信心深い人においてはもちろん、そうでない人にとってもそれなりに理にかなったことなのだと今更ながら気付かされている。

 

ふと立ち止まって、心を鎮めるひとときをもつこと。

自分のいる場所をきれいにしたり風を通すこと。

そういうささやかな、ちょっとおままごとめいた儀式が、思うより人を励まし立て直す底力になってくれる。

 

今日は風呂の日らしい。

このあと、今日の仕事を終わらせたら、娘氏と近所の日帰り温泉に行く。

おしゃべりしながら雪見風呂。わーい。

 

「ペトルーニャに祝福を」

毎年のことながら、確定申告が完了するまでは、経理のことがずっと頭の上にずーんと灰色の雲みたいにのしかかっている日々である。

ブログも当分は断片的で短いものになると思う。

 

お金の計算をすることが苦にならないように慣れるようにとあれこれ工夫してみたけれど、やっぱ無理。私は数字のことは、一生人並みにはなれないままだと思う。

基本、人は得意に磨きをかけることだけに集中した方が良い。

でも、苦手なことでもやらないとしょうがないことが人生にはある。

自分のポンコツさや「これくらい普通」とされてることの出来なさと向かい合うことの良さは、苦手への必死の努力は小さいことでも大きな達成感が得られることと、他者へのリスペクトや感謝の念を深くすることだなあと思う。

 

自分が苦もなくできていることって、自分にとってはあまりに当たり前のことだから、なかなか自覚ができないし、自分をいちいち誉めたりもしないし、それが出来ることへの喜びも薄く、何ならさらなる高みを勝手に設定して、不足してるところを探そうとさえしてしまう。

これってかなり傲慢な心だよなあ。改めて考えると嫌気が差す。きりがないし。

みそっかす状態を自覚して無心に努力している状態は、謙虚で配慮的な心もち。

で、習熟を目指して頑張るのだが、いざ習熟すると加害性を帯びてきたりする落とし穴もあったりして、やはり人間たあ・・・ヨルゴス師匠の言う通りなものである。

 

ま、つべこべ言ってないで、毎日こつこつやってくだけだ。

 

ペトルーニャに祝福を」

2019年北マケドニア・ベルギー・スロベニアクロアチア・フランス合作/原題:Gospod postoi, imeto i’ e Petrunija/監督:テオナ・ストゥルガル・ミテフスカ/100分

マケドニア映画を見たのは初めてだったけれど、かなり好きだった。

この作品の良さは、人物造形が複雑で見事ということに尽きると思う。

脇役に至るまで、ステレオタイプに安易に断ずることのできるような人物が誰も出てこない。

それぞれの人間がただ生きて醸している迫力みたいなものがある。

だから、どのような型にもはまらない映画になっている。

一見地味な映画なのに、人と人とのやりとりがとてもスリリングで、先がどうなるのか釘付けになる。

古い因習や男女差別を描いていても、フェミニズム映画って感じでもない。

社会正義や貧困を描いていても、社会問題の映画って感じでもない。

いろんないろんな要素が絡み合ってマケドニアっていう国の今のありさまがあって、そこで生きる人々の自尊心の低さや何とも言えないホープレスな感じが結果として立ち現れている。

そして、そこには自分ごとに通じる普遍性が明確に感じられる。

その絡まり合った毛糸玉みたいな現実を、うーーーむと唸りながらただ眺め、そんなしんどい現実の中で自分の尊厳を守り通したペトルーニャを心丈夫に感じた。

同時に、人が誇りを貫くのはいつだってこんなにも命がけのことにならざるを得ないという現実を思う。

それは誇りと勇気を貫けなかった者たちが「お前も理不尽に従え、共に泥に漬かれ、自分が目を背けたり踏みつけられている現実に気づかせるな」と、それなりに命がけで口を塞ごうとし、足を引っ張ってくるからだ。

 

自分の尊厳を守るには、どんなに気弱でも戦いたくなくても、尊厳が侵害された時には言うべきことやノーをきっぱりと言う必要がある。

「哀れなるものたち」のベラもそうだったけれど、いざという時の勇気がその人の真価に直結する。

でも、勇気は瞬発力では発動しない。

蓄えられた怒りや思索や悲しみ、自分がどうありたいかを日頃から自分に刻んでいる、そういう土台がかなりしっかりとしてないと、おそらく発動しない。

多分、毎日をしっかり生きることでしか勇気は生まれてこない。

「哀れなるものたち」

昨年末から年始にかけては近場の映画館では観たい作品がほとんどなかったけれど、これからしばらくは期待作がめじろ押しで嬉しいー。

一番の楽しみは、2/23公開の「落下の解剖学」と「哀れなるものたち」。

2023年イギリス/原題:Poor Things/監督:ヨルゴス・ランティモス/142分/日本公開2024年1月26日〜

 

ヨルゴス・ランティモスの作品は、どれも好きだけど、めんどくさい。

ああーめんどくさい。でも見逃すわけにはいかない。

今回はどんだけ風変わりな作品だろう、終始意味不明なままかも・・・と思いながら見に行ったが、鑑賞後は見られたことへの感謝の思いにしばしじーんと浸っていた。

こんなすごい作品を、世界中の人がご近所で、分け隔てなく安価で楽しむことができるなんて。

映画というジャンルがもつ大らかさや豊かさが大好きだ。

 

それにしても、ヨルゴス・ランティモス、なんて作家だろう。

天才の脳内を惜しみなくさらけ出した作品になっていた。

彼の作品で一番好きな作品になった。

奇天烈でドリーミーでグロテスク。隅々まで高い美意識が貫かれて、どこまでも本質的。

 

ちょうど昨年の今頃「イニシェリン島の精霊」を見て、何日もざわざわわなわなしていたなあと思い出す。今年も年始早々、そんな映画に出会うことになるとは。

あまりに多層的で深いので、一度では全然受け取れてない。

この先も長く考え続け、見返すごとに発見があるんだろうと思う。

 

(以下、内容に触れています)

エマ・ストーン演じるベラ・バクスターは、科学の実験によって作られた命。

無垢な愛らしさと美貌をもつベラを取り巻く者たちは、それぞれの欲望に基づいたやり口で彼女を支配しようとする。

けれど、ベラはあまりに無垢で本質的な存在なので、男性原理(家父長制や男性優位社会)に基づいて設計された今の人間世界のルールを軒並み吹き飛ばす。

あまりの滑稽さと痛快さに思わず声をあげて笑ってしまう一方で、たまらなく居心地の悪い気持ちにもさせられる。

我々は誰もが多かれ少なかれ、性に関してそれぞれの思い込みや抑圧を内面化しているからだ。

 

本作の中心をなす重要なモチーフが「性」。

性をベラがどう捉えているかを通じて、人間社会における性とは一体何なのかが浮かびあがっていく。

ベラは、ある日「自分で自分を気持ちよくする方法」を発見する。

彼女にとっての性行為とは、それ以上でも以下でもない。

彼女は性行為を「熱烈ジャンプ」と呼び、自分をすごーくハッピーな気分にさせてくれる遊戯行為としか思っていない。

 

通常、性に関する規範や倫理において、女性は常に受身で表現される。

「受け入れる」「貞操を守る」「捧げる」「買われる」・・・。

女性は、男性を脅かさない程度に無知で愚かで弱く、見た目が美しいほど価値が高いとされる。

意識のアップデートも例外もあるが、基本的に女性は「査定され、養われ、世話をし、対等には並ばない者」として社会に規定されている。

 

ところが、ベラはそれらの規範を戦わずして軽々と飛び越えてくる。

ベラには罪悪感や羞恥心がなく、性の規範や既存の価値観にみじんもとらわれない。

契約や約束としての愛という概念も持たない。執着もない。

金や社会的地位にも一切興味がない。

徹底した主体性、自分のやりたいこととやりたくないことだけがある。

そして常に変化し、成長していく。

誰かからの支配や抑圧は、激しい怒りをもって断固拒絶する。

そうした時、女はここまで清々しく自由な存在になるのだということに、目を開かされる思いがする。

 

だって私たちは「女の体を持って生まれてきたから仕方がないのだ」って思わされるような社会にずっと生きてきたのだから。

貞操観念や恥や性道徳は、いずれも女性を「性」の縛りと呪いによって社会に屈服させ、支配するための後づけのイデオロギーに過ぎないということが、この映画を見ているとよく分かる。

人間が性に過剰な意味づけや付加価値、あるいはタブーを与えた。

それがだんだん命よりも大事な価値観みたいな倒錯的なことになっていき、真に受けた人が死ぬほど悩んだり実際命を絶ったりするほど、性のことは重大事になっている。

でも動物においては、そんな苦悩はまるごとない。

結局のところ、人間が自分たちで作った檻の中で苦悩している。

 

女たらしの弁護士ダンカンは、ベラが「肉欲」や「特別な存在」へ執着するだろうと勝手に仮定して優位に立とうとしてみたり、「金」と「社会的地位」の力でかしずかせようとしたり、「貞操観念」や「恥の概念」で抑圧しようとしたりする。

でも、彼女にとって今の人間世界を形作る男性原理が完全無意味なので、聞こえてないみたいにただスルーされる。

流れ着いたパリで成り行きで娼婦になったベラをダンカンは軽蔑の言葉で罵るも、ベラは痛くも痒くもない。

そもそも既存の性道徳が無価値だから、損なわれようがない。

その結果、ダンカンは哀れなほどの一人相撲状態に陥る。

自らのエゴの拠り所を見失い、ぐらぐらと不安定になって、執着で気が狂ったストーカーみたいになって、自分で自分の人生をあっという間に台無しにしていく。

 

つまり、性って、性欲や性衝動のことじゃないのだ。

人が人の全部を自分の好きにしたいっていう、究極のエゴで支配欲のことなのだ。

 

ずっと素朴に不思議だった。

立て続けにリークされる社会的強者や権力者の性犯罪の多さってなんなのと。

ジャニー氏とか、松本氏と後輩芸人たちとか、長渕剛とか、アラーキーとか、ハーヴィー・ワインスタインとか、ジェフリー・エプスタインとか、まー挙げるときりがないくらいの#ME TOO案件。

権力はなぜ、ばかの一つ覚えみたいに性加害に向かうのか?欲を満たす他のバリエーションないんか?

権力者以外でも、従軍慰安婦の問題をはじめとしたあらゆる性搾取、痴漢やストーカーやレイプなど性加害は今も昔も世界中で溢れかえっている。

そこまでして、何よりもヤリたいことなのか???

性犯罪のニュースが出るたびに、ほとほとげんなりしてきた。

そしてうっすらとした絶望や無力感を感じてきた。

女は女の体をして生まれてきてしまった以上、値踏みされたり踏みにじられたり加害される脅威と共に生きねばならず、「危機意識や自衛の甘さ」のために被害に遭ったなら、それは自業自得だなんて、なんて不合理なことだろう、と。

 

ベラはそんな絶望をある意味において突き崩した。

社会が勝手に意味づけた性規範が根底からひっくり返った時、女は生まれながらの被害者という属性から解放されるのだ。

 

繰り返すが、性加害は抑えがたい性欲とか、本能とかのなせるわざではない。

暴走して見境がなくなったエゴが欲望していることだ。

性加害への欲望とは、「人をモノ化して自分の好きなようにしたい」ということだ。

 

人は、誰もが異なる感情と意志と尊厳を持つ。

人間同士の関わりは実に面倒くさく、喜びや温かさや幸せをもたらす一方で、傷つきや寂しさや不快もいつも隣り合わせにある。

人間をやってくことは、どうしたって面倒くさくみじめなことなのだ。

誰もそこから逃れて楽をすることはできないし、勝者でいつづけることもできない。

 

でも性加害をする者たちは、思い違いをする。

相手が複雑な心と生々しい肉体と意志を持つ存在だということを一切無視して、モノのように扱っていいのだと。

自分のような優れた、あるいは強い人間は、他人を軽んじたり使い捨てにしても許されるのだと。

 

そもそも、それってそんなに病みつきになるくらいに楽しいことなのだろうか。

でもきっと、ある種の人間にとっては、ほんの一瞬全能感を満たす行為なのだろう。

だからリスクを負いながら、必死に、依存症的に繰り返すのだろう。

エゴと支配欲に身体を乗っ取られて人としての矜持を失った、哀れなるものたち。

 

 

だから、性加害は、男性であることが原因なわけではない。

それこそヨルゴス・ランティモスのように、男性原理や家父長制に与しない、むしろそれらを憎む男性はたくさんいる。

性被害に遭う男性もいるし、性加害をする女性もいる。

「男性原理」とは、〈男性〉の原理ではない。

「男性的」「女性的」という言葉がすでにバイアスが強すぎだし、雑すぎるのに、それに替わるもっと正確な表現が見当たらない。

雑で不正確な言葉しか手元にないために、男性vs女性という本質からずれた単純化された構図にすぐにすり替わってしまう。

フェミニズム研究者でさえ、男性と男性性をごっちゃにして語る。

憎むべきは、家父長制や「有害な男らしさ」なのに、ともすると男という存在自体に憎しみが向かってしまう。

男性たちだって、家父長制や有害な男らしさの被害者なのに。

そのことをとてももどかしく思う。

脱線するようだけど、そういうこともすごく考えていた。

 

 

再び胎児から人生をはじめたベラの人生の冒険は、人の人生の成熟の過程を辿っていく。

まず、行きたいところへ行く「自由」を獲得し、

他者を通じて「知識や思想」に出会い、

同時に世界の不平等や残酷な「現実」を知り、「理想」をもつ。

その後、流れ着いたパリで娼婦という「仕事」と社会主義の「学び」を経て、彼女の精神は成熟してゆく。

つまり「大人」になる。

各シーンは、彼女の精神の成熟に絶妙にリンクするような音楽や美術や衣装で彩られている。

特にベラが自由を満喫し、知識や思想をぐんぐん吸い込む時代の、夢見るようにビビッドな世界観がたまらなく好きだった。

若い頃、いろいろきついこともあったが、世界は確かにずっとカラフルにビビッドに見えていたことを思い出していた。

でも、私は今の世界の見え方も、とても好きだ。

これまで美しいと思わなかったものを美しいと感じるようになることは、長く生きていることの素晴らしい側面だと思うから。

 

その後、ゴッドの家に戻ったベラは、マックスと自立した人同士としての「パートナーシップ」を結ぶことになる。

そして、「感謝と思いやりと許し」をもって親(ゴッド)を見送る・・・。

短期間に次々と変容し、成熟してゆくベラの佇まいを違和感なく全身で表現していたエマ・ストーン、素晴らしかった。

 

しかし、ここで大円団で終わるわけにはいかない。

今の人間世界が抱える大きな問題に言及しないわけにはいかないからだ。

それは、主体性と断固とした拒絶をもってしても回避することのできない、強者の圧倒的な暴力による恐怖支配に我々はどう対抗するのか?ということだ。

問答無用の暴力の象徴としての元夫が、ベラの前に立ちはだかる。

彼は常に相手に銃をちらつかせながらでないと話すことができない。

 

ラストシーンを見ながら、レベッカ・ソルニットのこの言葉を思い出していた。

ここ100年の間、ストレスや危険に対する人間の反応は「戦うか逃げるか」だと定義されてきた。

しかし2000年UCLAの心理学者チームは、「戦うか逃げるか反応」のもとになった研究は、大部分においてオスのマウスと人間の男性のデータしか使っていなかったことを指摘した。

女性も研究対象にすることで、第三のしばしば効果的に展開される選択が見つかった。

集まって連帯し、助け合い、アドバイスを与え合うことだ。

(「わたしたちが沈黙させられているいくつかの問い」レベッカ・ソルニット著 より引用)

 

まさに男性原理とは戦うか逃げるかの二択であり、今の世の中の主流は概ねその通りになっている。現実だけじゃない、フィクションの世界だってそうなってる、マーベルとか鬼滅の刃とか。

 

本作で、ベラは最後に「連帯し、助け合い、与えあう状態」を獲得するに至る。

そして、対話不能で暴力で全て思い通りにしようとする元夫を殺さず「無力化」した。

とはいえ、元夫に動物の脳を移植することは、残酷であり、復讐性をはらんでいる。

これもまたひとつの暴力と言ってしまえばそれまでなのかもしれない。

だから、一見平和なあのラストシーンをどう見ればいいか、今はまだちょっと考えがまとまらない。

 

結局、脳がある限りエゴがある限り、男だろうが女だろうが、人間はどこまでいっても、堂々巡りから抜けられない。

そんな風にも感じられる。

一つの地獄を抜けたと思ったら次の地獄が待っているのだし、うまくいっている状態というのは、微妙なバランスのとれた瞬間に限定的に存在するもので、安定的恒久的に実現することは不可能だ。

それでも私たちはそこを目指してあくせくし続ける。

それが人生。

 

人間とは、Poor Things、哀れな生き物だ。

往復書簡はじめました

写真家の長島有里枝さんは、去年出会った中で、最も好きな書き手のひとりだ。

以前からもちろん名前やあの有名な家族ヌードの写真は知っていたし、テレビや雑誌のインタビューを見かけたことはあったけれど、これまで文章は読んだことがなかった。

 

長島有里枝、山野アンダーソン陽子著/晶文社/2022年

昨秋、本屋で偶然手に取った「ははとははの往復書簡」(山野アンダーソン陽子さんとの共著)を読んで、心強い同志を得たような思いになった。

こんな同世代が踏ん張って力強い言葉を発しているなら、まだまだ捨てたものではないな、私も頑張らなくっちゃ、と。

それで、昨年後半は彼女の著作や写真集やネット上のインタビュー記事などをぐんぐん読み込んでいた。

 

本業写真家なのに、文章もあまりに上手いんだけれど、やはり彼女の生きる姿勢や本質をぐっと逸らさず見つめる強く深いまなざしに魅きつけられる。

とりわけ、個人のことから社会のことまで、目の前に立ちはだかった問題や課題に対して、ごまかしたり傍観したりすることを潔しとしない、長島さんの肝の据わった「応答性」にはハッとさせられた。

今のご時世、なかなか見られない貴重な資質だと思う。

 

今って、ほんっと誰も聞いたことにとことん答えないよなー!という感覚が私はある。

直接の当事者として応答責任を問われるような場面においてさえ、都合の悪いことは平然と答えなかったり、スルーしても大して追及されずにうやむやに許されてしまう。

説明の場にさえ出てこず、隠れたままでいるケースも多い。

もちろん大元は権力者たちの悪い振る舞いにあると思う。

「あれが許されるんなら自分も」って、誰も彼もがあっさりとあのやり口を採用するようになって、あっという間に全国的なスタンダードみたいになってしまった。

本当に本当に罪深いことだ。

 

また、炎上や誹謗中傷が日常になってしまったことの弊害もあるだろう。

何か意見を言おうとしたら、結局どこまでも角が取れて毒にも薬にもならないくらいに薄まった、一般化された意見ばかりになる。

全方位からの攻撃を避けるあまりに。

今の時代は、自分の考えを言うことがあまりにもリスキーな世の中になってしまった。

 

それでもやはり、誰もが自分の考えを自由に言う、声をあげる権利は、簡単に手放してはいけない大事な基本的人権

ばらばらで矛盾もはらんだ無数の言葉たちが彩る世界が、多様性や自由を担保する。

 

「ははとははの往復書簡」で、長島さんが言っていたいくつかの印象深い言葉たち。

しれっと本当のことを言って場に一石を投じる

ただ言いたいことを言っている人でいい

言葉にできていないことを、言葉にしてその辺に落としておく

往復書簡みたいに二人が対話しているところを公開するみたいなのはいいよね。

結果こうなりましたを見せるより、途中経過で生まれたやりとりもそのまま残すことができて。

 

ふーむ、時には分からなさや相容れなさもあったり、やりとりする中での気付きや変容も見えるような、正直な言葉を交わす往復書簡かあー、私もちょっとやってみたい。

そんな訳で、数年前に某創作教室でご一緒して以来、互いの文章を読み合ってきた同世代のMさんに思い切って声がけさせてもらったところ、快諾してもらった。嬉しい!

 

プラットフォームもまだ立ち上げたばかりだけど、おそるおそるスタートしてみたので、興味あればぜひ訪れてみてください。

言葉をぽとんと落としていただけたら喜びます。

Mさんの本業が多忙なデザイナーさんゆえ、更新は月1〜2回くらいとゆるゆるの予定で、(きっとあちこち脱線しつつも)「女の人生と愛」について語れたらいいねと言い合っています。

 

 

 

 

 

ただ違うだけ

殊更に冷え込む日。

ヨガのレッスンに行くのが億劫だけど、ほんの数日身体を動かさないと、体に滞りを感じるから、気力を振り絞って行こうと思う。

「スポーツや身体を動かす系のことは、何かこれとひとつ決めて、それを気長に細く長く続けていくのが健やかであるコツのひとつだ」と、以前村上春樹さんがエッセイに書いていた。私にとってはそれはヨガ。

今月は、思いがけないご縁で、誘ってもらって気功の体験レッスンに行くことになったが、こちらも楽しみ。

ようやく体調が平常に戻ったけれど、今年も寝込み正月だったし、周囲にも病気の人がとても多い。そして罹るのは、風邪、インフル、コロナ、アデノなど人によって違っても、なかなか治らない、いつまでもぐずぐずで病気が抜けた感じがしないと誰もが口を揃えて言っている感じ。

なんなのだろう。

 

そんな中、夫は何ヶ月も待って、ようやく最近、サーフィンのロングボードの日本チャンピオンのプライベートレッスンを受けたのだけど、その方のストイックなまでの健康管理は、やはりトップアスリートのもので、いろいろと感銘を受けていた。

彼は湘南の混雑した海が嫌いで、事故の危険も高まるので、年間通して夜明けと同時にレッスンを始める。

夏は夏で、3:45集合で4:00スタートで、まだ夜やん・・・という時刻だし、冬は冬で、7:00スタートなものの、極寒!!で、どっちにしても過酷。

でも彼は年中そうやって、日の出と共にレッスンをし、その後は自分の練習にジムでのワークアウトというルーティンをベースに、オンシーズンは世界中を旅して大会に参加するという多忙でストイックな人生を送っている。

プロアスリートだから常に本番に備えて体調を万全に保つ前提だろうし、レッスンは常に3ヶ月待ちで海外から受けに来る人も多いから、そうそう病気になんてなれないだろう。

自分のような、日頃から限界値を低く設定して、極力約束事もしたくないくらいな人からすれば、別世界の生き方だなあと思う。

 

話変わって、今朝のとりとめのない考え事。

夫は、仕事の関係もあって、いわゆる著名人や何かに秀でて広く知られているような人と直に接する機会が多めなのだけれど、そのサーフィン日本チャンピオンもやはりそうした人々と同じ雰囲気をまとっていたなあ、と呟いていた。

それは何かというと「一見どれだけ親しみやすくフランクに見えようと、誰ともなれあう感じがなく、すごくひとりで、すっくと太い幹の木のように立っている感じ」だという。

そういう感じはなんとなく分かる気がする。

私は夫と違って著名人と話す機会なんてほぼないけど、特定の分野での才能や経験知の元に人が集うタイプ、小さくとも何かの集団やグループやコミュニティがその人を中心に広がっているというタイプの人に、その印象を持つ人が何人か思い浮かぶ。

そういう人は、大抵「すごい人」と皆に認知されている。

一般人より人生哲学を極めたゆえにその域に行った、みたいな。

 

そういう人たちは、おしなべてかなり多忙である。

余白を埋めるタイプの忙しさではなく、「自分のやるべきことが明確で、それを全部やるには人生はあまりに短い」と思っている人ゆえの忙しさだ。

自分の適性や才能が自他共に明確で、自分もそれをやりたいし、人々にも必要とされているから、そのことに迷いなく邁進している。切り捨てるものもはっきりとしている。

優先順位の峻別が極めて明確で、他人の目を気にする暇もない。

自信があって迷いなく清々しく、特定の分野で周囲を圧倒するような才能を持つ人は、それは憧れられたり、尊敬されるであろう。

 

ただ、そういう太い幹の木のような人だけがすごいのかと言われると、最近はなんかそうとも思えない。

否定するわけでは全然なく、それも人間のひとつのタイプだなあと思う。

むしろ、あまりに「何かを極める人生を目指せ」という風潮が強すぎるのはどうなんだろうと感じる。

ひとつのことを極めるのが向いていて、集中してるのがハッピーな人はもちろんそうすればいい。

でも、全員がそうである必要なんてないし、何かを極めてない、集中できてない人は下等みたいなのは違うよねと思う。

 

近頃、色んな分野で、自分の中でこれまでの価値観を再考したくなることが起こってきている。

それはやはり、絶対的なものとして長く君臨してきた資本主義の価値観がいよいよ揺らいできたことと無関係ではないと思う。

 

大量生産、大量消費、効率重視、競争原理をベースとした資本主義の世界は、多数派の価値観が全肯定され、画一的な価値観の刷り込みがなされ、皆が同じものを欲望するように仕向けられる。

そういう世界では、結果的に多数派の考え方がより良いとされる。

多数派意見が大手を振って道の真ん中を闊歩している。

でもよく考えてみると、どちらが正しいという話ではなく、たんに「違う」という話のはずなのだ。

 

大谷翔平が、ものすごい年棒を手にするのは、野球というメジャースポーツ競技で、余人をもって代えがたい飛び抜けた才能によって、ひとりで多くの人を喜ばせ、ひとりで多くのお金を生みだす超高効率な存在だからだ。

ハリウッドの映画俳優や、有名コメディアンもそう。

皆に大人気の分野で、ひとりで多くの富を生み出す、超高効率な人々だ。

野球が例えばセパタクローカバディだったり、介護や保育の天才でも、その才能を向ける先が数人規模では、(個人レベルではなく)社会的にはずっと軽んじて扱われる。

マスに大きな経済効果をもたらさない、そう、「生産性が高くない」から。

 

大谷翔平イチローは、あくまで資本主義的にすごいんである。

それなのに、なんなら人格者みたいな言われ方すらしていて、なんでやねんと私は思う。

何かを一所懸命極めた人という一定のリスペクトはあれど、社会的成功者の人間性をそこまで褒めそやすのは、いささか雑だし、少々ごっちゃになっているような気がする。

 

だから、資本主義って経済形態のことだけにとどまらない。

人間の基礎的な価値観は資本主義によって相当規定されているし、そこには明らかな偏りがある。

そのことに私自身、長年自覚が薄かったなあと思う。

なんとなくそういうもんかーみたいに、流していた部分も多々あった。

けれどもそういう風になあなあにしてきたせいで、自分に何が起こったかいうと、気がつけば劣等感や罪悪感をこじらせた、いささかややこしい仕上がりになっていた、という。

もちろん、誰しも状況に応じて多数派になったり少数派になったりするが、多数派が善で正しく美しいとされる社会では、少数派要素が色濃い人ほど、自分を罪深く思ったり、間違っていると思ったり、醜く思ったりする状況に頻繁に出合うことになる。

 

でも、今さら、本当に今さらなんだけど、いろんなことは、「違う」だけで本来等価のはずなのだ。

好き嫌いはもちろんあるけれど、すごい人とすごくない人がいるっていうのは、資本主義的幻想なのだ。

「何かに秀でた、その人の元に人が集う太い木のような人」は、そういう役割と適性があるのであって、そうでない人より人として尊いわけではない。

見方を変えると、彼らは非常にエゴの強い人たちだ、ということもできる。

 

年末に見た、宮崎駿のドキュメンタリー(NHK「プロフェッショナル仕事の流儀」)を見た時もそう思ったことだった。

若い頃は、仕事のしすぎで気が触れるのを誉れだと思っていたが、なってみたら、面白くともなんともない。

演出ってのは加害であり、自分のやりたいことを人にやらせている。

励ましや慰めなんてなんの意味も無い。

全部自分。その時自分で自分を許せるか。

それによって色々な運命が分かれてくるんですよ。

簡単に自分を許せるような人間は、大した仕事をやらない。

別のインタビューでは、「自分は結局、後進を一人も育てられなかった。全部潰しちゃう。全部食っちゃうんだよ」とも自嘲気味に言っていたことを思い出す。

極端な一例とはいえ、世間的に天才と言われて尊敬を一身に集める存在が、いかに持て余すほどの巨大なエゴと共に苦しみながら生きているのかを、彼は隠さず見せてくれていた。

サポートメンバーあってこその宮崎駿だし、一貫してその人たちに多大な犠牲を強いてきた。

このドキュメンタリーで、宮さんはパクさんに一生片思い、という描かれ方をされていたけれど、私には、高畑勲さんは宮さんによる愛という名の侵害や加害を、絶対に拒否すると固く決意しているように見えた。

 

 

長々書いたが、別に何とも戦いたくないし、誰かを言い負かしたくもない。

資本主義のほころびと共に、これまでの思い込みが、少しずつ時間をかけてだいぶ解除されつつあり、入れ替わるようにして、オルタナティブなアイデアがあちこちでぽこぽこと持ち上がってくる流れは、私にとっては優しく好ましいもので、もうこれ以上、真に受けて劣等感や罪悪感を無駄に背負い込みたくはないなと思っているだけだ。

 

声の大きさや、効率や、数の多さと、正しさは全然関係がない。

才能は個性さまざまあるんだけれど、それぞれの場所で補い合い、生かし合うイメージ。

目立って賞賛される分野の才能それだけで人の価値ははかれない。

みんなただタイプが違うだけ。

そして、ばらばらな個人的な好みがあるだけだ。

そのように、自分が納得して言語化していれば、それでいいな、と思っている。