みずうみ2023

暮らしの中で出会った言葉や考えの記録

灰色の天然

最近、近所のパン屋さんで働いている娘氏が、バイト先の職人のオーナー夫妻に何か分からないことを尋ねるなどすると、たびたび「イラっとするような、引くようなリアクション」をされて、だんだん萎縮してしまうようになった、としょんぼり話すようになった。

 

私は「そうかーそうだよねえ」と言うばかり。

そう、我ら『灰色の天然』なのだよね。

私も娘氏が今受けているようなリアクションを人からされることが多い人生だったので想像がついてしまう。

それをあんまり克服することもできないまま、自分を疎んじたり異物として引き気味に扱うような人たちからはしょんぼりと背を向け、自分を受け入れてくれる人たちに助けられながら何とか小さく生きていく方向でやってきたクチだから、適切なアドバイスなんて、なかなかできない。

でも、今17歳の娘氏に、自分が自分であることを否定するような、罪悪感や劣等感をこじらせた私のような暗い青春は送ってもらいたくはないなあ、と思う。

なので、今更ながら、このことについてちゃんと考えてみなくては、と思った。

 

 

子供の頃から、大人に質問をすると、怒りをあらわにされて面食らうことがよくあった。

素朴な疑問を口にしただけなのに、相手から怒りや、侮蔑の感情を乗せた思いがけないほど強い反応が返ってくる。

そのたびに驚き傷つき、謎すぎるので対処のしようもなく、やがて大人に怯え、大人を憎むようになっていった。

とりわけ、学校の先生との関係は、長く尾を引くトラウマになった。

不良でもなんでもない地味な生徒だったのに、私はなぜか先生に全然好かれない子供だった。

授業中、目立たぬよう下を向いて存在を消していても、なぜか彼らは放っておいてはくれなかった。

(母親になって、上の息子氏の幼稚園のおばあちゃん園長先生に嫌われた時にはまじか、でもやっぱりか!と思った)

バイト先や職場の先輩や同僚、クラスメイトの中にも、大抵そういう人はいた。

思えば私の人生っていつの時代も、どんなグループや組織に所属しようと、このパターンでうまく行かないという人が必ず一人は現れて、やもするといじめられっぽくなるってことが高い確率で起こってきたなあと思う。

それゆえ、群れに所属すること自体が苦痛に思われ、最初から諦めて背を向けるようになっていった。

 

もちろん、全員に好かれる人はいないし、人から嫌われるようなことは、誰の人生にも起こる。

だから、私が弱い、と言われてしまえばその通りではあるんだけど、やはり改めて考えてみると、私が対人関係に感じる怖さの大部分が「自分が無防備にフラットに話した・あるいはただいるだけで、自分の何かが相手の気に障り、唐突な敵意を向けられる」という経験に、あまりに集中している気は、する。

 

基本は自分は人をイラつかせる、ずれた人間なんだ、と諦めてやってきた。

そりゃあ自己肯定感も低い仕上がりになろうというものだ。

でも、おかげでそんな私をひとつも引かずに受け止めちゃんと応答してくれる、もの好きな人に出会ったなら、感謝して大切にし、そんな人たちは皆人間的に尊敬できる人ばかりなので、彼らと一緒にいる人生は今、私にとって狭くともそれなりに良きものになったとも思う。

それでも正直に言って、基本的に今も自分はどこかに雇われて働ける自信はほぼない。

もちろん状況に応じて必要ならだめになるまで頑張って勤めるのみだが、いつも挫折感と共に去る、という繰り返しの人生。

 

 

「灰色の天然」とは、俳人穂村弘さんのエッセイにあった、ある種の人々の特性を絶妙に説明した単語である。

私たちは、灰色の天然について書かれた穂村さんの文章を読んだ時、「残念ながら我が家は揃いも揃って灰色の天然なんだと認めざるを得ないね!」と半ばやけっぱち気味に盛り上がった。

天然には二種類あると穂村さんは言う。

「白い天然」は、罪のない、微笑ましい可愛い天然さん。

「灰色の天然」は、言われた人を微妙な気分に陥れてしまう、残念な天然である。

いずれも「天然」とは、一般的な人とは気にするポイント、気がつくポイントが異なる人のことを指すと思われる。

そして天然本人には、一般的な観点からみて独特だったり、瑣末なことだったりする彼らなりのこだわりポイントへの重要度が、あまりに自明なものと感じられている。

それゆえ、なにかと会話が通りづらい。

 

それにしてもなぜ、おしなべて白い天然は好かれ、灰色の天然は疎まれるのか。

思うに、白い天然は、オリジナルで独自の発想なのである。愛すべきトンチンカン。

で、灰色の天然とは、多分、特別でもオリジナルでもなく、本質的思考なのである。

例えば、目に見えている表象の一段深い層での共通性や法則みたいなものを見出そうとする、考え方のパターンというか癖のようなもの。

あるいは微に入り細にわたる観察や、答えの出ない問いへの探究心。

本質にしか興味がないタイプの人たちは、どんなジャンルであっても、それとこれとを結びつけたり、切り離したり、ものごとの共通項や普遍性や因果関係を見出すことに面白みや快感を感じるので、いつもそういう理路で物事を考えがちである。

これが、そうでない人たちにとっては意味不明だし、心底どうでもいいし、面倒くさい。

 

「白い天然」の突拍子のない発想に人は虚を突かれ、それは容易に笑いに転化する。あまりに変化球な発想ゆえ、誰もおびやかされることがないからだ。

「灰色の天然」は、そんな愉快な存在ではない。

灰色の天然の投げかける素朴な疑問や考えは、ある種の受け手にとっては、時に容赦のない指摘であり、今考えたくもないような複雑で答えのない問題であり、効率のために採用された便宜的な型や思考停止的なあり方に根本から疑義を呈する気まずいものだったりする。

 

そう考えると、自分がなぜ学校の先生に嫌がられてきたのかも、だいぶ分かるような気がする。

教師は指導要綱や教科書に基づいてカリキュラムを把握・準備しており、それによって安定した指導的な立ち位置にいる。

しかし私はおそらく、教科書の枠組みから外れたことばかりを選択的に投げかける、先生を居心地の悪い気分にさせる生徒だったのだろうと思う。

「教科書の範囲内のことなら何でも聞いてね」という構えの人に、いちいちそこから外れたことばかりを聞いていたんだろうよと思う。

先生方からすれば、悪意か嫌がらせか?というくらいだったかもしれない。

灰色の天然が気になることは、大抵教科書に書いてあることの外側にしかないからだ。

 

頭ごなしに怒ったりしないで「先生も分からないから次までに調べておくよ」と言ってくれるような先生は、少なくとも当時私の通っていた公立学校にはいなかった。

「先生なのに知らない、分からない」は、あってはならない、という社会的な圧もおそらくあったろうと思う。

そもそも、この国には「無知は恥」という価値観が根強くある。

でも、全部知ってる人なんていないし、無知は単に今まで知る機会がなかったということで、必要なら新たに知ればいいだけのことなのだけど。

 

つまり、私は質問することによって「先生たちに恥をかかせていた」ということになる。一貫してそんな意図はなかったが。

しかし、先生にとっては、おそらくそれは子供らしく反抗したり口ごたえすることなんかより、よほど腹に据えかねることだったのだ。

だからこそ、彼らはほんの子供の私に向かって、あれほどあからさまな敵意を見せたのだろう。

 

娘氏が中学校に行かなくなって、週に何回かフリースクールに行っていた頃に、そこの先生にこういうことを言われたのを覚えている。

「娘さんに一次方程式を教えようとしたら、まず『一次方程式の一次って何ですか』と聞いてくる。

そういうお子さんなんですよ。

だから高校までの学校の学習は正直向いていないように思います。

むしろ大学の勉強は向いているのでしょうけれどね」

 

いつも親切なその先生は、心から懸念しているという雰囲気だった。

例によって私は鈍いので、その時は「はあーそうなんですかー」と相づちを打っていたのだが、しばらく後で考えると、おいおい色々めちゃくちゃだなと思う。

でも、まさにそういうことを先生に聞いちゃうのが「灰色の天然」なのだ。

相手が想定している範囲の外を常に切り込むゆえ「え、そこ?」って突っ込まれがちな灰色の天然。

 

数学によらず、人はいろんなことを「とりあえず〇〇ということにしておく」という処理の仕方や単純化でもって、便宜的に仕分け済みの箱に入れているものだ。

それは世間的には、おおむね賢く、軋轢の少ない、要領の良い生き方とされている。 

示された決まりがあるのだから、そのルール下で全て運用すればいいのだ。

それ以外のことやそれ以上のことを考えることは無駄だし、要らぬ混乱を呼ぶことになる。

ましてやルールの前提を疑うようなことは、冒涜であり、反逆だ。

で、灰色の天然の根底にあるスピリットとは「Question authority」だから。

当然相容れないのだ。

 

そして、むやみに悩んだり考え続けることを好まない人は、普通にたくさんいる。当然である。

自分がなぜこう感じているのか、そこには何があるのか、この現象って何なのか、そういうことをどこまでもどこまでも考えていくみたいな人間は、やっぱり少数派になると思う。

そんなめんどくさいボールこっちに投げてこないでくれる?って言われてしまう。

 

灰色の天然が「ここが大事なポイントだし、面白いよね」と投げかけたものが、非天然にとっては、不快なもの、回りくどい攻撃や押し付けられた厄介ごとのように受け取られてしまうという、ディスコミュニケーションの構造を、娘氏は(そして今更だけど私も)理解しておく必要がある。

基本は、タイプが全然違うということだけで、どっちが正しいという話ではない。

ただ、灰色の天然がマイノリティーであることは多分確実で、どんな分野においてもマジョリティーは、自分たちの正当性を疑わない、という構図は変わらない。

 

この齟齬は、簡単に解決なんてできないから、まずは自覚しておくことが第一の対処になるのだろうと思う。

その上で、似た者同士だけで閉じてつるまずに、非天然なワールドもそれなりに楽しめるように、各種工夫をして、娘氏が世界を楽しく広げられたら私もハッピーだ。

 

それにしても、つらい齟齬ではある。

でも誰もが互いに補完しあって存在しているのだ、と胸を張りたいものである。

できればより平和な共存の道を模索したいなあと思うから、これからも折々考えたい。

(って、ほんと考えるのが趣味なのねえと自分でも呆れるが)

 

 

 

「老後とピアノ」

週末は、いつものように風邪気味鼻水だーだーの末っ子に沿ったシフト。

連日屋内施設で遊ばせる三連休だった。

最近ではもうさすがに、この子はどっちかというと身体の弱い子なんだという構えでやっていくということなのだなと観念している。

とことん振り回され、めちゃくちゃ救われている。

このあくまでイキのいい謎の小動物は、それでもまあまあこの家で暮らしていることを楽しそうに、私のことを心から好きそうに基本笑顔でいるので、そーかそれなら良かったよ、と情けないほど疲れていても、日に何度でもにっこりと気持ちを立て直させてくれる。

こんなめんどくさいうちに来てくれて、メンバーの一員になってくれてありがとう、という気持ち。

 

稲垣えみ子著/2022年/ポプラ社

 

私は、そんな幼き火の玉小僧を育てながら、同時に自分と夫の老いた両親のことを気にかけ、自分自身の老後についても日々つらつら思索しているという、まことにシュールな状況を生きている。

多分、私はこの先の人生の様相がうまくイメージできていないことが不安なんだと思う。

あまりにもドラスティックに社会は変わり、ばあちゃんの生き方はもちろん、母親の生き方も全く指針にはならない。

時代の気分やモラルの感覚も、社会システムも、すごいスピードで移ろい続けている。

 

だから、少し先行く先輩がシェアしてくれる「生きる勘どころ」みたいなものを、なんとか少しでもキャッチして、良い思想を自分なりに取り入れていきたいなと思っている。

私も含まれるいわゆる就職氷河期世代は、不遇の年代。

今、主要メンバーとして社会を牽引する役割を担っているはずが、目立った活躍をしている同世代人は存外に少ない。

もちろん、どの年代もそれぞれに大変とは思うが、この世代は社会に出るタイミングでのバブル崩壊で、世の中の状況が急激に悪化したためにチャンスを奪われ、激務で努力しても出世は見込めず、不安定な立場のまま年を重ねてしまった人は多いと思う。

だから、いわゆる目立ったロールモデルが不在なのだ。

そんな中でも、私にとって「この先輩の考えや、やることは共感するし参考になるな」と感じている人は何人かいて、稲垣えみ子さんはその一人。

ここまで何事も徹底して、入れ込んでやる意思の強さは自分にはないが、方向性は同じくしていると感じる。

彼女の語り口は、ちょっと自虐的で朗らかなトーンだけれど、一見軽い読みものに思わせて、内容は本質的である。

だって、彼女の生き方や各種チャレンジはどれも、小手先のハウツーではなく、既存の価値観を根底からひっくり返し、自分の人生を自分の手に取り戻す作業に他ならないからだ。

 

先日の「家事か地獄か」に続き、本書にもいろんなことを教えられた。

「何かしらの目標を定め、それに向かって懸命に努力し、誰かに認められることが成功であり価値である」

というのが、何をするにあたっても今の世の中で推奨される「当然の道のり」。

でも、本当に欲しいものは、そのプロセスの中には存在せず、自分の内の奥深くに既にあるという考え方にとても共感した。

 

力みとは、ああしてやろうこうしてやろうというガッツであり、もっと頑張らなきゃという切羽詰まった決意である。

ずっと、それがなけりゃ何も成し遂げられないと信じて生きてきた。

ところがそれを取り去ったとき、まるで水道管の詰まりが取れたように、生の自分とでもいうべきものが表に出てきたのである。

で、その生の自分というものが「美しいもの」であることに驚く。

私はずっと何事も目標を定め、それに向かって邁進すればすごいものを手に入れられると思ってきた。

でも、「本当のすごいもの」は、そんなものとは関係なくそこにあったのだ。

エゴを捨て去るとは、何かを信じるということだ。

自分を、曲を信じる。それは自然と歴史を信頼するということだ。

その巨大なものの中に自分も連なっているのだ。

勇気を出して、そう信じる。

自分の小ささと、大きさを同時に認めるということ。

(「老後とピアノ」稲垣えみ子著より引用)

練習とは「自分を掘り起こすこと」だったのだ。

硬く自分を覆っていたコンクリートつまり見えとか世間体とか、こうじゃなきゃ行けないという思い込みとか、そういう硬い覆いを柔らかく掘り起こし、その下に眠っていた一件平凡な、でも世界に一つしかない「石ころ」を取り出す作業が練習だったんじゃないだろうか?

焦らず、ダメな自分を認め、少しずつ辛抱強くそれを掘り返していく。

その中から少しでも何かが出てきたら、ほんの一小節でも自然に弾くことができたなら、それが私のゴールなのだ。

そして、もし明日も生きていたら、明日もまた同じことをすればいいのである。

それを気の遠くなるほど積み重ねていけば、いつかは6ページの曲が弾けるようになるかもしれない。

でもそうならなくても嘆くことはない。

何しろ毎日、知らなかった「ほんとうの自分」に出会えるのである。

それ以上何が必要だろう。

(同著より引用)

 

力みを抜くこと、信じること。

うーーん、言うは易しで難しい。

でも、この考え方は、自分には何かすっと腑に落ちるものがあった。

基本は、心から幸せにあれると感じることを、一歩一歩やっていくのみ。

その中で、自分の中にある思いがけない「美」にほんの少しでも出会えたらいいなあ。

それを想像するだけでわくわくしてしまう。

何が起きようとも何も起きていない国

震度7地震が起こってから6日が経って、改めて言葉を失っている。

この国の劣化に。

13年前に起こった東日本大震災を教訓に生かせていないとかいうレベルの話ではない。

政治、行政機能、経済、社会のインフラ、メディア環境、そして人心。

13年前よりも、全てが大きく劣化しているさまが災害によってあらわになっている。

ほんとうに今、日本の社会はやばいことになっていることを実感する。

 

年頭記者会見で、首相はおろしたての防災服を着て、憲法改正実現に向けて最大の努力をすると語った。

震災のたった3日後に言うことなの。

更に首相は、同日夜のフジテレビに90分間テレビ出演し、次期総裁選への思いを語った。

同じ時刻、極寒の被災地には、行方不明者が200人以上、生き埋め状態の人が100人以上残されていた。

 

政治家を一般人と一緒くたに「交通渋滞の懸念のため自粛」って、一体どんな屁理屈だよと思う。

大勢で行く必要はなくとも、誰も行かないなんてありえない。

政治家には、現地で何が起こっているのか、何が必要なのか、自らの目で見て耳で聞いて対応する義務があるはず。

国民の税金で雇われた代理人なのだから。

とっととヘリで現地に入れ、仕事をしろ、と思う。

激甚災害認定は今日ようやく。全てが無能すぎて怖い。

的外れなネット叩き、しょうもない言い合いが繰り広げられているさまも、嘆かわし過ぎる。

今起こっている「ボランティア自粛バッシング」は、緊急事態に際して、何のリーダーシップも発揮できない無能な人間が、自らの無為無能を正当化するための保身の言い訳でしかない。

でもそのしょうもない保身のために、被災地で見捨てられたり危険に晒される人がいるという現実は、許しがたいことだと思う。

 

混乱のさなか、TVメディアは早々と通常通りに戻りつつある。なぜ?

今回の震災に対する強い違和感の一つのアンサーともなる内田先生の見解。

官邸が震災の報道に接して取ることの出来る選択肢は二つありました。

一つは「国難的危機である」ことを訴え、記者会見で、党派を越えた挙国一致的支援を求め、すぐに現地入りして陣頭指揮を執り、「万博中止も視野に」くらいの前のめりな発言をして、リーダーシップをアピールすること。

もう一つは正常性バイアス」に従って、たいした災害ではないという印象をメディアを通じて訴えること。

そして「原発稼働は日本列島では不可能」と「万博中止」の世論形成を抑え込むこと。

財界と維新に「いい顔」をするためには必須の選択肢でした。

官邸は第二の選択肢を取りました。

国難」だという世論は「だからこそ緊急事態条項が必要」という方向にリードすればいいと踏んだのでしょう。

余りに支持率が低いので、もう国民的人気を目指す気を失ってしまい、「身内への利益供与」にしか関心がなくなったようです。

内田樹@levinassienの旧ツイッター 2024/1/5のツイートより引用)

 

第二の選択肢を採ったと仮定すると、首相のテレビ出演も含めて辻褄が合う。

人の命を何とも思っていない、身内への利益供与にしか関心のない首相なんて、頼むから今すぐにやめてほしい。

 

でも、これまでだって彼らはずっと同じことをやってきたのだ。

辺野古もオリンピックも不必要な布マスクも度重なるワクチンもマイナンバーも、どれも身内への利益供与のために、民意も合理性を度外視して無理やり行われてきたのだし、その陰で弱者はいつだって翻弄され、見殺しにされ続けてきた。

マスメディアも裁判所も警察も検察も権力に従わせながら、緊急的な状況さえ利用し、都合の良い情報だけを流し、本当に必要なことは知らされない。

今回の震災に対する政府の対応は、「これまで通り」でしかない。

そのことを、私たちは知っているのに、どこまでも知らないふりをして生きている。

いつまで、知らないふりをし続けるのだろう。

それを長い間続けた結果、何が起こったのか。

この国は「何が起きようとも何も起きていない国」になった。

何が起こっても、情報操作と世論捏造によって、事実が歪められたり、ないことにされたりするということが、日常茶飯事になっている。

 

今の政府のような、権力にとって都合の悪いことを隠す体質においては、権威の言うことを鵜呑みにすることはほんとうに命取りになる。

なぜか多くの人が、支配者目線、経営者目線で物事の適否を考える。

自分もないがしろにされ、打ち捨てられる側でしかないのに。

 

何が真実かを見極めるのがとても難しいからこそ、第一次情報であるかどうかを意識することや、多数派や強い側ではなく、弱く困った立場にある側にエンパシーを寄せながら考えることを、自分の中の最低限のルールにしている。

 

「本が語ること、語らせること」「その道の向こうに」

「本が語ること、語らせること」

青木海青子著/2022年/夕書房

 

「その道の向こうに」

2022年アメリカ/原題:Causeway/監督:リラ・ノイゲバウアー/94分

 

今年は、気持ちを静かに保ち、ささやかなヴォイスに耳を澄ませる一年にしたい。

大声や威圧や想像力に欠けた無粋な語りは、もうたくさん。

 

傷つき怯え、自信のなさを抱え、本来なら表舞台には上がらなかったような人たちのおずおずとした語りには、合理的で自信満々な語りのような華麗なレトリックや、スムースさや明快な断定はない。

弱々しく、煮え切らないかもしれないけれど、自分を安全な高みに置かず、つかえつつ思索しながら話すような、誰かを思いやりながら言葉を慎重に探すような、謙虚さと緩やかさと優しさをもつ。

その場しのぎのいい加減なことを言わない誠実さは、今の世の中ではとても貴重に思える。

 

私が近年、弱く控えめな語りにより魅かれるようになったのは、もうノリやスマートさや映え(ばえ)みたいなものが心底どうでもよいし、不器用さやもどかしさを乗り越えて相手の話をじっくりと聞く構えが、以前よりは多少備わってきたせいもあるかもしれない、だとしたら嬉しい。

 

もちろん、時代の様相を切り離すことはできない。

近年の世界の映像作品の潮流として「Invisible people(見えざる人々)」は欠かせない重要なテーマで、「その道の向こうに」もそういう映画。

寡黙な女性帰還兵リンジーを、ジェニファー・ローレンスが演じている。

アメリカ社会がどのようにリンジーのような貧しい若者たちを社会的に幅寄せするようにして戦争に取り込むのか。

戦場では、替えのきく部品のように兵士を次々送り込んではいとも簡単に人間が壊され、なんとか生き残って帰っても、深い傷つきと恐怖を抱えた状態から、再び自分の人生を立て直していくことがいかに困難で時間のかかることか、希望を見いだすことがいかに難しいのか。

そんな彼女の孤独な道のりと彼女を救うことになるささやかな友情のさまが抑制的に描かれていた。

 

「本が語ること 語らせること」の著者は、厳しく早い日本社会の価値観に適応できなくて、心を病んで一般社会から降り、奈良の山奥で夫婦で私設図書館を始めたという人。

自分を売り込むようなタイプでは全くなく、夫の青木真兵さんの存在がなかったら、ずっと人知れずひっそりと暮らしていたのだろうと思う。

挫折や傷つきもありながら、自分のやり方と流儀を守り、地道に人の役に立とうとするなかで自分の生き方を見つめる姿勢にとても共感した。

 

彼女たちのような、こちらから尋ねなければいつまでも黙っているような人たちの声がもっともっと聞きたいな、と思う。

静かにじっくりと耳を澄ませなければ聞こえないくらいの、か細い声。

不思議とそんな声に、自分自身の傷つきや疲労や悲しみが呼応し、静かに慰撫されてゆく。

世間では、地味だしのろいしめんどくさいと捨て置かれてしまうような、強くも華やかでもない、不安で傷ついてぐるぐる同じところで逡巡している、そんな人たちが自分を語ることが、惨めな私を救ってくれていると感じる。

 

本や映画だけでなく、愛読している幾つかの匿名の個人ブログたちも私にとってそういう存在だ。

それらは寄る辺ないインターネットの暗闇に、ぽつん、ぽつんと淡い光を発して浮かんでいる。

世間的な評価や資本主義からは遠く切り離されている。

でも、感服するほど文章が上手いものも少なくないし、何よりそこでしか出会えない切実な言葉と思想とリアルな人の人生がある。

それでも、皆おしなべて自分の書くものを取るに足らぬと多かれ少なかれ思っていて、だから誰もが匿名なのだろう。

 

私はこんなすごいものがいつでも読めるなんて、インターネット世界とはなんと途方もない豊穣なものなんだろう、と何度でも圧倒されてしまう。

社会学者の岸政彦さんが、以前エッセイで、全国津々浦々の一般の人のブログを探して読むのが趣味と書いていたけれど、すごい分かる。

いつも私はリスペクトの気持ちで大事に読ませてもらっている。

何人か、言葉も交わさないままに長年互いに文章を読み合い続けている人がいることも、光栄だし、しみじみ不思議なこととも思う。

 

今日もささやかなヴォイスをできる限り聞き逃さぬよう、雑にならず、浮き足立たず、私なりに善く暮らしたい。

YOASOBIの紅白のステージを見て思ったこと

紅白をリアルタイムでは見なかったんだけど、いくつかのステージを遅ればせながら見た。

どのアーティストにもさすがの気合いを感じつつ、YOASOBIの完璧に作り込まれたステージが圧倒的だった。

これがトリでないなんて、なんともったいない。

今、この時代が目の前で歌い上げられている、という感じだった。眠気が吹っ飛んだ。

 

自分自身はアイドルに疎いが、ジャニーズ喜多川による大規模な児童性虐待の問題があって、昨年はアイドルや推し活について考えることが多かった。

娘氏が撮影の実績を積みたいためにコスプレ界隈に足を踏み入れたことで「コスプレイヤー」なるアイドルとホストの中間のような独特な存在を知り、色々闇が深い話を多く聞いたこともある。

今年の紅白ジャニーズ不在も、ジャニオタの妹や姪っ子はものともせず。

晦日はジャニーズの夜通しのライブ鑑賞で寝不足だよー!と年明けにご機嫌なLINEが来ていた。

 

楽しそうで良かった良かった、と思う一方で、私はアイドルへの推し活をあまりに爽やかなものとして語る、最近よく聞かれるようになった語り口には違和感を覚えてきた。

推し活の形は十人十色で誰がどのように推し活しようとその人の自由なのは当然。

ただ、推し活という行為が避けがたく含むある種の側面をまるっと「ないこと」みたいにして、諸手を挙げて健全な行為とみなすような流れにはもやもやしていた。

そういうことは大抵別の何かに利用されるから、注意が必要だというリテラシーの観点からもそう思うし、何であれ、あるものをないとすることにはアラートが鳴る設定になっている。

 

でもまあ、人間のやることなすこと全てがいびつさや狂気と背中合わせなのだと言われたらその通りとしか。

今ではあらゆるジャンルで情熱を持って応援すること全般を推し活と言うけれど、ことアイドル界隈の推し活に関しては1980年代からずっとあったこと。

ファンが自らのアイドルを神格化して、そうすることでアイドルは生身の人間であることが許されなくなるというある種の人権侵害的な関係性も、これまでもずーっとあったことで、その狭間で何人ものアイドルが人生を損なわれていったこともよく知られている事実。

 

YOASOBI「アイドル」のアイドル像は、健全でもポジティブでもない、そして神格化もされていない。

妬み嫉みにまみれ、美しさは過酷な食制限の上に築かれたものであり、弱みや汚点を隠して誰よりも強く完璧に振る舞い、そうでない自分を誰より自分が許せず、自らを無敵で最強と常に鼓舞し、完璧な嘘つきを自認する。

ストイックに完璧であり続けようとするあまりに歪みと欠落を抱えた人間丸ごとを、胸を張って歌い、その周りをびっしりとバービー人形みたいな完璧な肢体と笑顔の日韓のスーパーアイドルたちが取り囲み、紙吹雪舞う中、キレッキレのダンスを見せるさま。

これぞショービジネス、という凄みがあった。

 

そう 嘘はとびきりの愛だ

誰かに愛されたことも 誰かのこと愛したこともない

そんな私の嘘が いつか本当になることを信じてる

嘘と毒を双方承知の上でひとときの夢を見せる命がけの遊び。

そんなアイドルの世界の禍々しさを正面切って歌い上げることで、欺瞞を華々しく昇華して見せた。

これは一種の解毒だと思うし、Ayaseは心ある作り手なのだなと思った。

 

日本で一番たくさんの人が見るであろうステージの上にいる人が、嘘を嘘とちゃんといい、アイドルを不完全で生々しい人間だとちゃんと言うことの意義は、大きいと思う。アイドルにとっても、ファンにとっても。

なんてったってアイドル」を歌った小泉今日子が、1980年代アイドルをもっともまっとうな人としてサバイブしたように。(しかし昭和と令和のダーク味の違いに白目になる〜)

 

誰もが自由に存分に推し活を楽しめばいいけど、推しは生きた人間であることを忘れず、自分を損なうほどには真に受けないでほしい。

結局のところ、思うことはただそれだけなのかも。

「料理と利他」「家事か地獄か」

年末年始は、認知症の義父にとって不安が増幅する期間だ。

彼がいつもランチに通っている近所の地域の人々でやっている食堂(兼居場所)が長期休暇になるし、生協の夕食の配食サービスも数日間はお休みになる。

彼の住む鎌倉の山上は、ハイキングコースなどもあって自然豊かな場所だけれど、お店はほとんどなく、一番近いドラッグストアも徒歩ではとても行かれない距離にある。

昨年車も処分して、足は市バスのみだが、バス停の場所を忘れてしまったりと使うのはおぼつかなく、一回2000円は超えてしまうが、配食のない時は、ほぼウーバーイーツ(たまに出前館)に頼ることになる。

高いなあと思うけど、遠隔でお願いできるので本当に助かっている。

 

何かイレギュラーなこと、とりわけ何か納得のいかないことが起こると一日10回、20回と夫の携帯が鳴るけれど、基本的に彼の不安の源は「三度三度の食事が自分の元にきちんと届くか」それに尽きる。

10時には昼食の注文を心配する電話が夫の携帯にかかってくるし、17時5分に夕食がまだ届いていない時は、軽いパニック状態で連絡が来る。

もちろん17時までに食事が届くように手配しているが、なぜか義父が家のインターフォンのコンセントを何度でも抜いてしまうので、配達に気がつかずに「どうなってんだ」となる。

 

ここまで時間に厳密に連絡が来るというのは、身体的な空腹感ではないのだろうと思う。もうめっきり山歩きもしなくなってしまって、ずっと家の中にいるようなので、お腹もそれほどすかないんじゃないかなと思うし。

生存へのとても強い不安感なんだろうな、と思う。

 

 

土井善晴中島岳志著/2020年/ミシマ社

 

稲垣えみ子著/2023年/マガジンハウス

 

この年末年始に、土井善晴中島岳志著「料理と利他」、稲垣えみ子著「家事か地獄か」を読んで、自分が毎日食事をこしらえる人で本当に良かった、助かったと思った。

米を炊き、ありあわせの野菜を放り込んで味噌汁を作り、あとは少々のおかずや飯の友。

そんな簡単な食事を、今ではほぼ自動操縦でやることができるということが、今後歳をとっていくにあたって、どれほど自分への確かさに繋がっていくことだろうと思う。

 

全く家事をしない実家の父も、病に伏せる前から口を開けば母に「昼めしは〜」「夕飯は〜」と毎日聞いては母にうっとおしがられていたし、よく聞く話ゆえ、そういう中高年男性は世の中多いのだろうと思う。

義父はもう10年以上一人暮らしで、生前から義母は料理をできなかったが、毎食外食に頼る暮らしだった。

お店での人間関係が彼の元気の源でもあったので、それはそれで良かったと思うけれど、どうしてあくまで自分で料理をしてみようとは思わないのかな、外食ばかりで普通に疲れないのかしら、と不思議に思ってはいた。

 

でも、私たち主婦でも子供が巣立ってしまった後に食事を作る気が全然起きない、という話をたびたび聞くし、私も家人がいない時は「わーい休める!」と途端に食事づくりを放り出している。

健康的で質素な食事を自分の体が欲するということはもちろんあるが、「毎日自分のために作るのだ」という意識はまだまだ低い。

皆で外出して帰ってきて、他の皆はソファで当たり前に、なーんも気付かずに寛いでいるのに、私は座ることもままならずせかせか食事の支度をしなくてはならない時などは、食事づくりを当然のように押し付けられていることをすごく理不尽に感じる。

 

でも、この二冊の本を読んで、別の価値観のスイッチが小さくカチリと入った。

「毎度毎度の簡単で健康的な食事を自分の手でこしらえ、自分で自分の世話をして生きてゆく」という主体的な決意を持ち、日々実践することは、実は生きる不安を払拭する最大かつ不可欠な方法なのではないか。

第一、目の前の男親たちが身をもってそれを証明している。

 

体よく家事、とりわけ食事づくりを自分以外の誰かに当然のようにやってもらっていたり、お金で済ませている人は、楽だし得だくらいに思っているかもしれないが、それは、生き延びる能力の大きな部分を自ら手放していることに等しい。

まじでほんとうにそうなのだ。

 

土井善晴さんの「料理は食材が勝手に美味しくするんですよ、味噌自体が上手いんやから、まずくなりようがない。味噌汁が濃くても薄くてもそれぞれに美味しいんです。野菜から出汁が出るんやから毎度毎度鰹出汁なんて取らんでよろしい」という言葉、魔法の言葉だったなあ。

日々の料理が責務である私にとって、「私が作った料理」は家族に「ジャッジメントされるもの」であった。

夫は灰色の天然(@穂村弘)なので、昔のバイトの先輩が言ってたらしい「まずい食材はない、下手な料理法があるだけだ」を何かの名言風に言ってみたり、同じおかずが続くのを嫌い、育ちのせいもあってファミレスぽい重たい洋食メニューを好むわりに「普通に美味しいものが食べたいだけ」(毎日失敗せず「普通」にするのは相当大変なことだし、「普通」っていう本人にしか分からない物差しでジャッジされる人の身にもなってほしい)とか言う。

たまにでもそういうことを言われるのはすごくプレッシャーで悲しくもなったし、終わりのない料理作りにますます嫌気が差していた。

毎日のことで慣れきっているから仕方がないとは思うが、作ってもらっている側にとっては料理って当たり前のことで、あんまり感謝もないものだ。

 

でも「料理は食材が自ら作る、人はそれに手を添えるだけ」という土井さんの考えに触れ、料理が「自力で」作ったものではなくなったら、とても気持ちが楽になったし、面白くなった。

ままならないことが当たり前で、食材が違う以上、毎回違うものができるのは当然で、それら全部が私の責任ではない、ということの軽やかさ。

きっちり作らず「ええ加減」を見る、というスタンスになると、かえって料理がうまく行くようになったことも驚きだった。

そういう実験精神で、もっと自分のための料理を面白がれるようになるといいなあと思っている。

 

稲垣さんの「老いてしんどくなったら、都度無理のないようにサイズダウンして楽なものにしていく。食べるものも、住まいも、着るものも、持ち物もどんどん小さくしていけば大丈夫」という清々しい思想も、とても希望あるものだった。

家族がいると彼女ほど大胆に減らせないが「たくさんのものを所有することが豊かで得」という価値観が、根底からひっくり返った一冊だった。

今のご時世、断捨離本は山のようにあれど、稲垣さんの本はどれも「自分が限りある資源と状況の中で、いかに幸せに生き切るか」という問いがベースにあるため、やはり他のライフハック本とは一線を画すのが「食事づくりという生きる最大にして基本の技術を決して手放すな」という思想だったと思う。

 

 

「生きることは食べること」なのは、義父の食事に対する執着からも明らかだ。

資本主義の便利な社会に生きていると、すっかり忘れられているけれども、食べるものを自分で作れないということは、生存のもっとも根幹に関わる部分を自力で賄えないということを意味している。(料理していた人が作れなくなる状況ももちろんあるが)

それは本当はかなり怖いことなのだ。

自分でやろうと思えばできるのに、誰かに食事作りを丸投げしたり買ったりして、楽だラッキーと思っているのは、思う以上に深刻な思い違いかもしれない。

 

今の世の中は、めんどくさいをお金で何とかすることに罪悪感を持つ必要はないというイデオロギーがある。

もちろん、誰もが多忙な中、便利な何かに頼ることは悪いことではないが、世の中の大半のイデオロギーは「その思想の方が企業が儲かるから」という理由で広められていることは多いので、注意が必要と思う。

実は、大抵はめんどくささの中にこそ、面白さや喜びや大事なものはあるのだよな、と長く生きてきた実感として思う。

 

ジェンダーギャップ指数が世界最低レベル、かつ世界一の超高齢社会のこの国で、男たちがやらなければいけないことは、女たちの手から家事を取り戻すこと、なんじゃないのー、と冗談交じりに思ったり。

なんという幕開け

昨日は、義実家にてお正月の集まり。

おせちとお雑煮を食べてから、みんなで神社にお参りに行った。

夫の弟のパートナーさんと、楽しく喋れたのが嬉しかったな。

いつも来るか来ないか五分五分だから。

なんか、喋りたそうな感じでずずずっと寄ってきてくれる感じであった。

彼女は、マンガやアニメといったオタク文化が大好きな人で、ゲーム実況のyoutuberをやっている。年齢も一回り以上若い。

爪を伸ばしていつもきれいにジェルネイルをしている。

私はお店でネイルをしてもらったことがない。

で、私は会話の糸口を見つけるのに苦心してしまうことがあったのだけど、私も立派なおばちゃんになり、女やってりゃ誰しもあるあるなことでゆるく盛り上がれる感じにもなった。

 

私の長年のコンプレックスの一つは「世間話が超苦手」なので、何気ない世間話を誰かと楽しくできたというのは、自分にとって地味に達成感の大きい出来事なのである。

ヨガで通っているジムで、他の女性たちのオープンな可愛らしい会話を、いつも羨望のまなざしでうかがい見ているものの、いざ顔を覚えられて話しかけられようものなら、緊張と負担感がはんぱないので、いつもそっと気配を消している。

でも、内心うらやましい。

重いこと一つもなく、軽やかにお互いを明るく励ましあえる雑談力が欲しいなあ。

 

 

神社から帰って、サッカーの天皇杯をなんとなく眺めていたら、緊急地震速報

震度5強、大津波警報。第一報では、それ以上のインフォメーションはない。

元旦からなんてことだろう、石川は災害が多い受難の都市。雪も降っていてきっと大変に違いない。

でも、災害列島に生きる私たちは、「震度5強」はそこまで致命的ではないと思うくらいには、災害に対して感覚が麻痺している。

なんだかんだ、テロップが張り付いたままのテレビ画面でサッカー観戦をし続けた。

 

帰りの車で気が抜けた私は、どんどん寒気がひどくなって、喉の奥が痛くて唾がうまく飲み込めない。

帰ってすぐに熱いお風呂に飛び込んだものの、体の表面がひよひよして痛い。

ここを大事に過ごさないと大変なことになると経験上分かっているので、早々に末っ子の世話を家人に任せて寝室へ引っ込むことに。

 

二階に上がりぎわ、地上波のNHKを点けると、震度が実は7で町がごうごうと炎に包まれている映像を見て、衝撃で言葉も出なかった。

よれよれに弱っているときに見たので、泣きたくなったし、これ以上見てはまずいと思い、逃げるように寝室に引き上げた。

 

 

一日汗だくで湯たんぽを抱きながら寝て、ようやく起き上がれるようになった。

全く、なんて幕開けだろう。

「雪崩のような終わりの始まりの一年になるのではないか」という怖れを裏付けるような出来事が、元旦早々から起こってしまうなんて。

災害の第一次情報の次には、この国の政治の誤りのせいで、人々がさまざまなリスクに晒されている現実が次々可視化されている。

 

何よりもまず原発

日本には今54基もの原発があって、再稼働されている原発のほとんどは日本海沿岸に集中している。

政府は、昨年5月の「GX脱炭素電源法案」によって、規制緩和して60年間も原発を運転できるように法律を変えてしまった。

案の定、本当に案の定、「原発に異常なし」という公式発表の後に、実は志賀原発の変圧器から出火があった(現在は鎮火済)が報じられている。

官房長官は、原因は不明、と言う。

これが何を意味するかというと「地震によって原発が被災した」とは彼らは言わない、ということだ。

かように、この国はいつだって原発に関して普通に嘘をつく、とても信頼はできない。

不幸中の幸いは、今回大きな被害のあった珠洲で、長年の市民運動によって、原発の建設を中止させていたということ。

原爆被災国であり、毎年のように地震津波が頻発する日本で、原発を無理やり稼働するのは、あまりにリスクが高すぎる。やっぱりありえないって。

 

政府は、軍拡の一方、防災予算を安倍政権以降、1/4以下にまで激減させており、極寒の中、相変わらず劣悪なダンボール仕切りの雑魚寝避難所しか用意ができていない。

万博やめて被災地救済を、そして性犯罪への注意喚起のツイートを幾つも見かける。

 

東京に自宅のあるセクハラや汚職疑惑の元プロレスラー石川県知事や、首相の残念すぎる指揮力。

ツイッターは、イーロン・マスクに買収されて以降、情報がフィルタリングのために時系列にあがらなくなったので、災害時のインフラとしての機能をかなり失っている。

 

自民党の大規模汚職松本人志の性犯罪告発、そしてこの震災がとどめのように皆の心を釘付けにする裏で、あの危険すぎる自民党改憲案が発議されようとしているし、今回の災害も例によってショック・ドクトリンに回収されていくのだろう。

犯罪を犯している議員たちの手によって、彼らに全権を委任する「緊急事態条項」を与えてしまったら、選挙はきっとすぐに行われなくなるし、この国は、ネポティズムの蔓延する希望のない独裁国家にどんどんなり下がっていくだろう。

国民投票は、有権者の半数の賛成が必要と思っている人も多いが、実際には投票者の半数で可決になるので、現在のような政治に対する無関心な低投票率の社会の場合、組織票や大金をかけてプロパガンダ広告を大々的に打つ者が圧倒的に有利になる。

だから、憲法は一旦発議されれば、改悪されてしまう可能性が極めて高い。

この国の民主主義は、今とても危機的な状況にある。

 

年末の忘年会や対話の場で、「中国に攻められる」「難民と偽った移民に乗っ取られる」という意見がその場にいる人からふっと口をついて出るようなシーンが複数あって、すごくびっくりしたり、ただしんみりと絶句していた。

 

私はやっぱり違うと思う。

そういうリスクもあるのだろうが、敵は外側だけにいるのではない。

私たちの暮らしを壊し、奪う者はむしろこの国の内側にいる。

与党政治家たちが買収されて、この国の政策を都合よく変え、公共資産や国民の税金をグローバル企業に売り飛ばし続けている。

隣国に戦争を仕掛けられるより、過剰な搾取と圧政によって、人々の暮らしが焼け野原になる可能性の方が、ずっと高いように思える。

だって今現在進行形で、増税や、情報統制や、黒塗りや、中抜きや、福祉削減や、差別容認など、いろんなことが目の前で起こり続けているじゃないか。

それは、高い可能性とかいうより、すでに現実として起こっていることじゃないか

 

99.9%を排除している難民や、経済をはじめとしてあらゆるジャンルで深い共存関係にある中国が私たちを攻め滅ぼすより、与党政治家の存在の方が余程危険だと私は思う。

そんな私の意見も偏っていると言われればそうなんだろう。

人々の政治的意見が、ますます分断を深めていることを実感した昨年の暮れでもあった。

 

はー新年早々吐き出すみたいに暗い話をしてしまった。

何を信じればいいのか。

何に騙されてはならぬのか。

折々考えさせられることになる2024年になりそうだ。