みずうみ2023

暮らしの中で出会った言葉や考えの記録

さよなら2023

2023年ももうおしまい。

3歳児の世話が最優先ゆえ、大掃除もせず、ほぼ日常通りに過ごしている。

朝、何品か、おせち料理を仕込んだ。

 

今年は、いいことも悪いことも想定外のこともさまざまある一年だった。

相変わらず、時間があれば映画を見て本を読んで、世の中のニュースには怒ること多く、人並みより少ない出会いや再会や別れがあり、そうしたことたちが日々の気付きや学びの源であった。

味わい深い2023年だったなあと思う。

 

アラフィフの私は、人生のラストターンという気持ち。

もう、評価とか成功とかお金とかは、どんどんどうでも良くなっている。

もちろん相変わらずくよくよと悩みがちだし、エゴの取り扱いには苦労しているんだけれど、他人軸の価値観に沿うようなことは本当にしたくないし、心底無駄でしかないってなってきている。

何が宝物か、その都度自分の心に問いかけている。

もはや自分の納得性だけだし、心あるプロセスが何より大事で、結果はおまけのようにしか思えない。

 

来年も、人に親切をモットーに(とりわけ近しい人こそぞんざいにせぬように)、人それぞれ固有の事情を抱えていることへの想像力を働かせ、嘘や適当なことを言わず、ますますシンプルに生きていきたい。

加えて加齢を感じるにあたって、精神を柔らかくしておくことに意識的であらねばと強く思うようになった。

それは、他者の視点を面白がり、己の間違いを認め、自分を軽やかに変容させていく勇気を持つということだ。

「自分はもうこのまんまでいいんだ」と頑固に開き直るのは、私はしたくない。

アートの心を持ち続けていたい。

いつも感性を生き生きのびのびとさせておく。

そのために、自分を粗末にせず、自分に優しくしてあげたい。

そうすることを自分に許可し続けたい。

 

 

2023年の個人的ベスト映画は、「波紋(荻上直子監督)」「エンパイア・オブ・ライト(サム・メンデス監督)」「ぬいぐるみとしゃべるひとはやさしい(金子由利奈監督)」

 

ベストドラマは「THE  BEAR(クリストファー・ストアラー監督)」「SOMEBODY SOMEWHERE(ジェイ・デュプラス監督)」

 

ベストドキュメンタリーは「プロフェッショナル仕事の流儀 宮崎駿スペシャル(NHK)」

 

本は、記録をつけていないこともあって、選びきれなかった!

今年は本たちにめちゃめちゃ助けられた一年だったのにな。

来年はブログにもっと本のことを書こうと思う。

 

 

ただでさえ季節感が薄いのに、地球温暖化のせいで年末とは思えない空気感の中で、今年が終わっていこうとしている。

視点を地球レベルにまでぐっと引きで眺めたら余計に、ただただ、いろんなことはなるようになっていくのだろうなあ、と思う。

隣にいるパートナーでさえ、自分には変えられない。

ほとんどのことは自力では変えられないんだろう。

でも自分がやることの全てが、何かしらの影響を世界に及ぼすのだとも思っている。

 

来年は、どんな年になるだろう。

私は、雪崩のような終わりの始まりが、とうとう誰もに認識される一年になっていくのではないかと思っている。

そして終わることはけして、悪いことばかりではなく、新たな芽吹きをいくつも見るのだろうという希望も感じている。

 

どうかできるだけ、自分や誰もが、自分のまんまで過ごせますようにと願う。

こういうフェイズにおいて、私たちにやれることとは、自分の人生を自分の手中に取り戻すということだと思うからだ。

 

今年も拙い文章を読んでいただいてありがとうございました。

どうぞ良いお年を。

 

 

失敗から学ぶ

昨日は娘氏のやっている居場所で、年末企画として対話の場を開いたが、あまりに進行が下手すぎて、終わった後はしょんぼり自己嫌悪に陥ってしまった。

 

やってみたいんですよね、というつぶやきから、「じゃあ、やりましょう!」と突然引っ張り上げてもらってしまい、場を作ってもらって「対話のひと」の活動があれよあれよという間に始まってしまったわけだけれど、まずは自分がどんだけへなちょこであるかを噛み締めるいい機会になった。

別段スキルがあるわけでも才能があるわけでもない。小学生から中年まで、年代も考え方もばっらばらな生身の人たちを前に、どう振る舞えばいいかが自分の中でうまく定まらなかった。

交通整理もできなかったし、より深く潜る呼び水にもなれなかった。

沈黙がつきものの哲学対話で、あの場で一番沈黙を気まずく感じて焦ってしまっていたのは私だったんじゃないだろうか。

もっと学ばなければ、と思ったことだった。

 

娘氏からのアドバイスでとてもためになったのは「対話では、ファシリテーターは肯定の相づちをしなくていい。何かを肯定することは、誰かを孤立させたり否定することになるから」というもの。

子育てでの幼い子供への接し方に端を発している気もするが、私は普段から相手をエンパワメントしたいし、安心してもらいたいという思いから、ほめるような肯定の相づちをわりに良かれと思ってしてきたくちである。

でも、一対一の会話ではなく、複数の人がいる場で、特定の人に感心したり共感したりすると、その意見に加勢していたずらに特定の考えを強めることになってしまう。

それとは違った意見を持った人が居心地悪くなってしまう。

違う意見でも全然いいんですよ、といくら言葉で言ったところで、誰かを肯定すれば他の誰かは自動的に否定されてしまう。

パワーバランスが崩れ、公平性が失われる。

そこは誰もが安全に語れる場とはもはや言えない。

そんな基本的なことにも無自覚だった自分の未熟さが恥ずかしい。

 

参加者のひとりの女子高校生が途中参加だったこともあり、ディベート的にばちーんと言い切ってしまったり、小学生男子がひろゆき味を出して妙なマウントを取ってきたり、全く動じずJKとは5倍ぐらい流れる空気がゆっくりの大物感ある不登校15歳がいたり、更に常識感覚強めでソツない感じの40代男性、生き生き話しまくりの50代女性、哲学者風味で妙にシリアスな娘氏。なんか笑けるくらいばらばらだった。

 

夫氏に「こんなんだったよ、収拾付かなくって、ぎこちないままで私全然だめだったんだー」と報告をすると、「いいじゃない!」と夫。

「うわーまじ?全然考え違うんだけど、みたいな人が集まってぎくしゃくするのが対話の醍醐味でしょう。それでこそやった甲斐があるんじゃない?逆に、とってもいい対話になった、いい時間だったって満足してるようなのはうさんくさく思うよね」

とのことだった。

 

なんか、そう言われると救われる。

たしかに、万全に準備をして、逸脱なく和やかにまとまるのが良い対話か?というと、多分違う。

それよりは、不格好でも軋轢や食い違いがその場に可視化されること。

普段、波風立たぬよう隠されている、でも「あるものはある」ということが、そのままに提示されること。

予定調和で終わるよりは、そのほうがわざわざ対話の場をしつらえるだけの意味があるのかなあとは思う。

じゃあ、まあ、あれでも良かったのかあ。

あのムズムズする時間が、考えるきっかけ、違うということを感じるきっかけになり、それぞれなりの何かを持ち帰ってもらえたのだとしたら。

 

普通、調和や平和や笑顔があることが良きこととされる。

でも、対話の場合、それは必ずしも良きことではない。

通常、失敗とされるネガティブな反応が逆に値打ちになったりするのだ。

私やその場の誰かの言動の不器用さや、自分では恥ずかしいと思ってしまうような要素がむしろ、誰かの気付きや新たな思考につながっていく。

なんか自虐的だし、今後も対話をする限り、気まずさや恥ずかしさに耐えていくってことか。

何を好きこのんで、マゾですか?とも思うが、その価値観の逆転味たるや、ある意味無敵だなとも思う。

 

各々違う考えを持った他者と、当たり障りのないことを超えて、思っていることを本当に話すということは、難しく怖いことなのだ、当然。

それを、どう面白みとしてその場にいる人たちが共有できるか。

簡単ではないけど、取り組みがいのあることだと思う。

 

そして、夫氏からはもう一つとてもためになるアドバイスをもらった。

以前、アメリカの犯罪現場で活躍するプロのネゴシエーター(立てこもり犯を説得したりする人)が言ってたらしいのだが、

相手の言ったことに「あなたが言っているのはこういうことですか」と聞き返すということが、考えや言葉の通じにくい相手とのコミュニケーションにおいては、極めて有効にはたらく、という。

共感や肯定ではなく、あなたが言った言葉を、歪曲せず、間違えず、正しく受け取っていますよ、ということを、「聞き返し」によって示す。

聞き返しを適切に挟むことで、犯人は納得するし、落ち着くそうだ。

 

それって犯人に限らず誰でもそうだよね、と夫氏。

3歳の末っ子だってそうだもの。

彼はまだまだ訳の分からない日本語で、日々一所懸命何かを訴えてくるんだけど、生返事では納得せず、壊れたレコーダーみたいに、何度でも繰り返し訴えてくる。

でも、彼の言葉をおうむ返ししてやると、わりとすっと落ち着く。

そういうことを私たちは経験的に知っていて、日常的にやっている訳だが、それを対話の場でも共感や肯定のリアクションの代わりに取り入れてみるといいんじゃない、と。

 

聞き返しはオープンダイアローグでも紹介されていたことで、頭では分かっていたけれど、全然身に付いていなかった。

自分の下手さにしょんぼりしていたが、失敗したことで色々考え、良いアドバイスを家族からもらえて学べたから、良かったな。わりとすっと持ち直せそう。

 

明日は、忘年会!

一品持ち寄り・一芸披露という趣向で、最初はギャラリーのつもりだったが、勇気を出して、娘氏(ボーカルとハモニカ)私(ウクレレとハモり)でハンバートハンバートを一曲やることに。

ここ一週間二人で練習するのが楽しい〜。

何をやってもへたっぴだが、恥ずかしいを乗り越える経験って、自分のことを好きになれる近道な気がする。

 

明日が終わったら、2023年もおしまい、というかんじだな。

 

 

 

 

 

 

きぼうのまち

ほうぼく(抱樸)の「きぼうのまちプロジェクト」のクラウドファンディングがあと6日になった。

抱樸 活動35年"ひとりにしない"支援の集大成「希望のまち」(認定NPO法人抱樸ーほうぼく 2023/10/04 公開) - クラウドファンディング READYFOR

 

3億円目標で、今2億8000万円まできている。

すごいすごい、あと少し。

我が家も少ない額だけど寄付をした。

 

奥田知志さん率いる抱樸の活動は、自己責任の蔓延するこの国における数少ないワンストップの力強いセーフティネットであり、その名の通り希望の存在だと思う。

彼らが存在していて、元気で活動してくれているということを時々見ては、ああまだ捨てたものではないと励まされている。

「きぼうのまち」は北九州のことだけにとどまらない。

これが実現したら、きっと他の地域にも広がっていく。

 

こんなの、本来は税金で作るべきもの。

国立科学博物館もそうだけど、なぜこれがクラファンなのですか?としか言いようがない。

この国の政府は、武器やしょぼい万博や誰も必要としていないマイナンバーカードやゴミみたいな布マスクには、何百億、何兆円もつぎ込んでいる。

本来国がやるべき仕事を放棄しているから、やむにやまれず公共の福祉を肩代わりしてくれている彼らが、今必死に集めている寄付金は、3億円。

自民党にしたら、たったの3億って感覚だろう。

あまりにおかしすぎるだろって普通に思う。

 

 

マヒトさんが抱樸に寄せたメッセージを読んだ。

どんな世界を生きたいか。

「きぼうのまち」がある世界とない世界、どっちがいいのか。

あったほうがいい、というか、あってもらわないと困る。

今のままじゃあまりに寄る辺なさすぎる。

 

苦しい時代を生きている。

 

人を殺すのに理由をつけ、その理由にカタルシスを感じた輩が暴徒と化し理由を倍速で加速させる。人が当然持っているべき尊厳を平気で奪う戦争は、海の向こうの遠くで起こっているという理由で視線を合わすこともなく、目の前の暮らしに埋没する。

 

仕方がない。

 

生きることで精一杯だもの。わたしの暮らしがただあることにささやかな感謝をしながら目をつむり、耳を塞ぎ、口を閉じよう?誰もこの沈黙に文句なんて言わないさ。だから息を潜めて過ぎ去るのを待てばいい。そんな歪んだ卑しい心が自分の中には確かにある。きっとあなたの心の中にも目を凝らしてみれば、そんな因子がカビのようにこびりついていることに気づくはずだ。

 

そんな世界を当たり前と呼ぶ冷たい世界の中で、希望について考えている人たちがいる。想像することを今一度喚起させる集団がある。希望が「まち」をつくっていく過程がわたしたちに横たわる。こんな奇跡みたい時間が目の前を通過していくことを、風が過ぎ去るのを待つが如く無視するのか?この痛みを引き受けた抱撲の姿に何も感じなくていいのだろうか?

 

別に選べない人を責めたりをするつもりはない。心と呼ばれる場所が自分のことでいっぱいになる時、何も感情が湧いてこないなんて体験は例外なく自分の中にもある。愛がいかに余白の中からしか生まれないか、その軽薄さに真夜中、肩を叩かれ問いかけられることがある。

 

でもこのままでいいだなんて思わないし、わたしは希望がある世界で生きていたいと思う。仕方ないとかそんなもんだとか、そういう言い訳じみた弁明には飽き飽きしている。とてもとてもシンプルなこと。こんな動きをしている抱撲が倒れるような世の中が正しいとは思えない。

 

そう、だからとても簡単なことを最後に問う。

 

あなたはどんな世界を生きていたい?

(マヒトゥ・ザ・ピーポー(GEZAN)寄稿文より引用)

 

人間は、誰もが老い、病み、死ぬ。

ほぼ全員が、どこかのタイミングで福祉を必要とする。

だから、オードリー・タンが言ったように、社会は、一番弱く貧しく困った者を基準に考えるべきなのだ、他ならぬ自分のためにも。

誹謗中傷している場合じゃない。

明日は我が身なのだから。

 

あっぱれな人 追記 

昨日の朝食の時、件の豪快さんについての今の自分の考え(前記事に書いたようなこと)を家人につらつら話す中で、やはり彼女は全くノープロブレムだとも言い切れないかもなあ〜と思い直したことだった。

 

有限なひとりの人生において、人それぞれキャパシティーに応じた優先順位があり、その中で自分にとって納得性のあるように暮らしをデザインしていくのが大事だというのはもちろんそう。

でも家人は「そもそも自分は人と守れないかもしれないような安易な約束をしない。また〇〇しましょう的な社交辞令も極力言いたくない。他人に何かを期待させて嫌な思いにさせたくない。自分は、約束を果たせなかったことはいつまでも忘れられないから、申し訳なかったなあと思い出し続けるのも嫌だから」と言っていた。

 

できない約束はそもそもしないか、他人を振り回さないよう思いやることは、やっぱり自分だったら確かにそうするなと思う。

私は例によって「他人に期待をする自分を改めなくっちゃ」とすぐ自責的に考える癖があるんだけど、「他人に期待させるような言動をする」という加害性もあるよな、と思い当たった。

 

そして私も安易に社交辞令ぽい言葉が口をついてしまうことはあるんだけど、調子がいいというのは考えものだなと反省した。

豪快さんを皆笑って許してるから、それで成立してるようにあの時私には見えたんだけど、

「皆、彼女が言うことは、全部話半分で聞いているってことでしょう。そういう関係性ってさびしいなと自分は思うけどね」と家人は言っていた。

そして「全員に対してそういう対応だったら、誰からも信頼してもらえないだろうけど、彼女は押さえるところはきちんと押さえているはずで、だから楽しく暮らせているんだろうね」と言っていた。

 

加齢とともに、ますます無理がきかなくなってきている。

だから、社会や他人の要請にいちいち答えるようなヒマもないし、義理もないと年々開き直る一方である。

そういう意味では、豪快さんはとってもお手本。

でも「自分の特性をよく分かって、無理がないよう対策・工夫する」ということは、他人だけでなく自分に誠実に生きる上でも大事なことだなあと思ったことだった。

ふむ。

 

さて、ささっとラーメンを食べてから、外出だ。

 

 

 

 

あっぱれな人

金曜日。

曇っているけれど、それほど寒くはない。

この薄暗さにほっこりしている。

 

先週は末っ子の病気で引きこもっていたが、今週は家族以外の人とよく喋ったり(メールやラインなどの)やりとりをし、成り行きで仲介的なこともし、刺激の多い一週間であった。

 

長い付き合いで何となく知ったつもりになっている身の回りの人たちを、いかに自分が知らないかを思い知ったし、

考えの大きく異なる他者を前に苦しく感じる自分を通じて、普段無邪気に自分の考えを話すことで、周囲の人を苦しくしてしまっていることがあるのではないかということに改めて思い当たったし、

だから普段、多様性大事とか偉そうに言ってるわけだが、気がついたら「違う」ことにモヤモヤしたり、心の中で反論したりしてしまっている自分の器の小ささにがっくりしたり、

人はそれぞれ大事に思うこだわりポイントがあって、私はそれをちゃんとリスペクトできただろうか、無神経に傷つけなかっただろうかと悩んだし、

そんな、人と関わる嬉しさと人間に対するどうしようもない敗北感がぐじゃぐじゃに混じり合って、気持ちが乱れた。

夫氏は感情の振れ幅が少ないので、私は気持ちが混乱した時は、クマみたいな彼のお腹に無言で巻きついて、落ち着くまでしばし「放電」する。

娘氏や末っ子がそれを見るとすかさず自分も巻きついてくるので、やにわだんご状態になる。

いつも突然始まるだんご状態に、夫氏はなんだなんだと苦笑いして腹をかしているが、そのうち飽きるとみんなぱっと散開して、何事もなかったみたいに自分のことをやり出す。

そのようにして、クマの腹の力も借りつつ、なんとか平常心を保っていく。

 

 

今週、ほぼ1年ぶりに会った友人が、早朝から夕方までばりばりと人の生き死にに関わるハードな仕事をして、仕事が終われば格闘技したり、お酒を飲んでわいわい騒いだり、子供の送り迎えなどの世話をしたりしている、家族の朝晩のご飯も作っている、来月子連れでヨーロッパへも行く、睡眠は平均3時間、それでも全部笑い飛ばして豪快に生きているさまを見て、心から感心したし、いっぱい笑わせてもらえて、会えて嬉しかったなあ。

とても真似なんてできないけど、見習うものがたくさんあるなあと思った。

 

雑多な人にまみれて生きている彼女と違って、自分は日頃、いかに安全で傷つくことの少ない安全地帯でちっちゃくまとまって生きていることかと思う。

自分は狭く偏っており、とにかく弱すぎるように思えた。

十代でもないのにガラスのハートかよ、という感じ。

 

高齢出産と更年期で身体が長期間よれよれだったので、体力を温存しつつ無理せず過ごすということが至上命題みたいになっていた。

コロナでステイホームの3年だったので、そんな生き方がしやすかったということもある。

だいぶ身体も回復してきてもいるし、私もそろそろ世の中に出ていかねばなるまいよ、と彼女を見ていて強く思ったことだった。

 

正直に書くけど、私はその豪快な彼女のことが、ずっと苦手だった。

彼女はとにかく予定をいつもぎゅうぎゅうに詰め込んで、常にダブルブッキング、トリプルブッキングしているような暮らしで、約束をしても予定を忘れたりドタキャンしたりが9割みたいな人である。

それでも予定をキャパ内でセーブしようとはせず、仲間内の集まりにもノリノリで関わってこようとする。

色々気を回して調整しても、彼女の対応はいつもルーズで、返信もろくに来ないのだった。

(今年の夏の集まりの時は、ハードスケジュール過ぎて倒れてさすがに諦めていた)

でも、会えばいつも楽しく愉快な人で、一瞬で場の中心になってしまう。

私はそういう彼女のいい加減さにイラっとすることが多かったし、彼女の楽しむことへの貪欲さもどこか疎ましく思っていたと思う。

彼女は確かにとても魅力的な人だけどとても信頼はできない、したら裏切られて悲しい思いをするから。こういう人とは一対一では付き合えない、と。

 

でも今回、彼女の生き方がいよいよ極まってきたさまと、それを笑って受け入れている他の仲間たちの様子を見て、深く感じ入るものがあった。

彼女は、それが他人にはどれだけ破綻して映ろうが、自分が幸せで充実して生きていられるように人生をまっすぐデザインできている。全方位的に他人の目を全然気にしていない。

なんの無理も見栄もなく、家族は仲良く、みんな母ちゃんが大好きで、もし明日死んでも悔いないんだろうなと思うような清々しさを感じた。

彼女は今回もやっぱり約束を忘れていたし(念の為ラインしてみたら案の定)、来ればお酒もザルでどんだけのペースで気にせず飲むねん苦笑、という感じだったけど、他人に迷惑かけてはいけない呪いや、同調圧力があまりに強いこの日本の社会で、自分の生き方やり方を貫いて、見事周りにそれを認めさせる域に達したのだなあと思った。

彼女のありようってほとんど坂口恭平じゃないか、って。

 

そっかー、私は彼女がずっとねたましかったんだなと思った。

自分はいい加減な人だと思われたくなくて、自分をすり減らして「ちゃんと」して、貪欲だと責められぬよう自分を後回しにして、そういうことに自分はいっぱい時間や労力を割いて、余力もない。

私もいちいち返信なんかせず、彼女みたいに1ヶ月半放置して「やっべ、まいっか」とかできればどんだけいいだろうと思うけど、小心者だから難しい。

自分も彼女みたいに堂々と「選択と集中」をしたかったんだよなあ。

とりわけ今の社会は、配慮的であろうとすると、どこまでも奪われてしまう、だから鬱の人もこれだけ多いのかもしれない。

 

大人として生きていると、皆、色んな不本意なものにもかかずらって、それらに時間や資源を奪われたり消耗させられたりして、人生の時間が過ぎていく。

彼女にももちろん人生で降りかかってくるものたちはある。家族のことやお金のことなど色々あるが、それらから逃げたり、他人に押し付けるという感じでは全然ない。

彼女はやりたいことをやっているが、ちっとも自分勝手な人ではない。

むしろそのバイタリティーでもって、ライフイベントや災難を、すごいクリエイティビティとリーダーシップでやっつけて、最終的には笑い話にしてしまう。

 

彼女の生き方は、一つの達成だし、純粋にあっぱれだよなあ。

自分が一番機嫌良くいられるようなライフスタイルはどんなかを良く知って、それに従って生きている。

どっちも欲しい、どっちもやりたいなら、なんとかやれる方法をひねり出すのみだ。

まず自分を満足させて、家族やコアメンバーを大事にして、仕事の責任を果たして、そのサークルの外側にいる人々とは、適当にその場その場で楽しく関わっていくのみ。

彼女にとって本質的でないことに関わっている暇はない。

身体的にも、精神的にも。

 

 

広告や教育は「こういうのが幸せ、まっとう」みたいな型を押し付けてくる。

いつの間にやら洗脳されて、そんな型に自分をはめ込んで合わせようとするから、自分の人生が腑に落ちない。

自分がどうだったら幸せかは、当たり前だが全員食い違う。

他人にとってどれだけ意味不明でも、自分にとってはこれだなってものが分かっていることがほとんど全てだなと思う。

 

腐敗しすぎ

昨晩も末っ子の夜泣き(っていうか夜怒り)で4時起き。

枕元を照らして「くらしのアナキズム」の続きを読んで、目からうろこがハラハラ剥がれ落ち中である。

それだけに、ふと目に入った国内の政治腐敗のニュースにかーっと怒りがこみ上げてしまう。

 

 

自民党の幹部が一人残らず裏金を受け取っていた、と。

裏金というだけでなく、脱税もやっていた、と。

組織的な裏金化による裏金の総額は、5億円を超える、と。

5億円はおそらく氷山の一角で、少なすぎる金額なのだろうということも容易に想像がつく。

 

自民党は、国民の税金から政党助成金をこれまでに4000億円以上受け取っている。

そもそも政党助成金は政治が金の問題で腐敗することを防ぐための制度なのに。

さらに現在、日本の国会議員の年収は、諸経費を入れると世界最高レベルの金額だ。

国民は30年全く給料が上がらない中、物価高に苦しんでいるのに。

彼らはそれだけ潤沢なお金を得ていてもなお、カルト宗教や経団連からも金をもらい、今では金をくれた人々対する利権をかませないことには、何ひとつ物事が動かない国になってしまった。

官房機密費をまるで小遣いのように好き放題使って、使途を明かさない。

その一部はメディアや言論文化人を買収するなどして、権力強化や世論操作に使われたことが明らかになっている。

 

今の与党はあまりにも腐敗しているし、控えめに言っても、国民の代表ではなく利権の手先でしかないし、生活者を苦しめ、害を及ぼす存在に成り果てている。

 

「権力があれば何をやっても罰されずに見逃される」ことが、第二次安倍政権下で既成事実化してからの、政治家の資質の低下は凄まじい。

ほとんどギャグみたいなこともいっぱい起こってきた。

一旦何をやっても許されるとなったら、人間ってここまで堕落するのだ。

この10年くらいの与党(と維新の)政治家たちはそのことを身をもって体現している人たち。

少なくとも、あんな偉そうで、開き直っていて、不正をしても失敗しても何の責任も取らずに居座り続けるような非常識で不愉快極まりない人は、わたしの身の周りにはいない。

 

自分たちにはとことん甘く、お金と権力に簡単になびき、国民に対しては福祉を削って増税をし、監視を強め、情報公開には応じず、説明責任も全く果たさず、意味不明な言い訳を繰り返している。

そういう人々が、国の権限を握っていることで、私たちの生活は坂道を転がり落ちるように悪化し続けている。

 

と、同時に、今起こっているメディア状況を額面通りに受け取ってはいけないと、自分の中のアラートが鳴っている。

ここからが本題。

 

メディアが一つのニュースで大騒ぎをしている時には、普通ではとても容認できないような国民にとって不利益の大きい何かがほとんど報じられることなく決められていくということが、この国では常態化している。

陰謀論とかではなく、単なる事実として。

 

ジャニーズの件でも明らかなように、政治と同じくらい今の主要メディアは癒着でがんじがらめになっている。

そんなメディアが急に正義の味方のように振る舞うことを、まずは疑わしく思うリテラシーを持つのは、これまで彼らの行いを踏まえればごく当たり前のことだと思う。

つまりそれは、このタイミングで自民党の裏金のニュースを盛大に報じることに許しを与えている存在があるということを意味する。

しばらく前の自民党女性部のフランス視察旅行が炎上した時もそうだったが、注意深くニュースを眺めていると、裏からせっせと薪をくべるようにして世論を燃え上がらせている存在が見え隠れする。

何年も前の失言などが急にニュース化したりするのは、いかにも不自然なサインのひとつ。

 

フランス旅行の時は、松川るい氏に人々の怒りが集まるような流れがどんどん醸成されていった。彼女を「罰して」人々がほどよくガス抜きができるように。

今回、ガス抜きのためのスケープゴートは、誰になるだろう。谷川弥一氏あたりか。

いずれにしても、今の政府は統一教会と癒着していた議員ひとり罰することができないくらいにガバナンスが崩壊しているのだから、不正議員を一掃できる可能性は低く、時期が来たらフェイドアウトしていく可能性が高いだろうと思う。

そんな見通ししか想像できないのはとても残念だし、検察には頑張って欲しいと思っているけれど。

結局ほとぼりが冷めた頃に全員不起訴とか、普通にあるのだろうなと思う。

今の日本は、これだけ政権支持率が下がっても、もう何も起こらないのだから。ちーん。

 

パーティ券で大騒ぎの中、今日の午後、大学人たちが激しく反対の声を上げている「国立大学法人法改正(改悪)法案」が強行採決されようとしている。

これほど問題の多い法案なのに、このことはほとんどメディアで報じられていない。

今のメディアでは、あえて報じられないことの方が重要なのだと、私は今ではそう考えるようになっている。

だから、今回は何がなんでもこの法案を強行してしまいたいのだろうと思われる。

 

この法案は「特定機密保護法」のように負の影響を広範囲に及ぼす法案だと予感している。

これが通ってしまったら、この国の言論の自由は、段階的に相当失われていくだろう。

今この国で、一定の影響力をもって良識を説き、権力を堂々批判するのは、もう一部の大学人くらいだから、彼らの口を塞いでしまえば、ますます与党の政治家たちはのびのび嘘を吐けるし、好き放題やれることだろう。

企業は、大学を企業にとって都合のいい人材教育や企業にとって儲かる研究を国の税金で担ってくれる、ていのいいアウトソーシング機関のようにますます扱うようになるだろう。

これから、公共財産を私企業が貪る、ショック・ドクトリンの図式が教育でも推し進められていく。

長期的視野を持たず、企業の短期的な金儲けに寄与することが優先され、基礎研究や人文学への投資を徹底して冷遇することによって、今後この国からはノーベル賞どころか、まともなイノベーションはほとんど生まれず、高い能力を持つ若者はどんどん国外に流出して、国はますます衰退していくだろう。

そのようにして大学は企業に食い散らかされ、もう取るものがなくなったらあっさり放り出されるのだろう。

 

大学だけに限らない。

このまま自民党が与党であり続けたら、権力者は焼き畑農業的にあらゆるジャンルの公的財産を私財に付け替え続け、この国は東欧の貧しい国みたいにどんどんなっていくだろう。

例えばルーマニアみたいな、政治家や高級官僚以外のほとんどの国民は貧しく、社会福祉は薄く、しかしもう誰も怒る元気もない国に。

東欧は、世界で最も自殺率の高いエリアでもある。

 

だから、私たち生活者は、力を合わせて今の与党と、(隠れ与党である)維新と国民民主をまずは追い出さなくてはいけない。

作り込まれた体制を切り崩すのがとても大変でも、野党が頼りなくても、まずやらなくちゃいけない。

暴動とか革命とかじゃなく、選挙で平和的に追い出さなくちゃいけない。

自民党政治は終わらせなくてはならない、本当に。

 

 

この先には、憲法改悪が目前に迫っている。

ルール違反や犯罪をした者たちが「自分たちに全権力を委任せよ」というルールを作ろうとしている。

そうなったら、公平な選挙も失われてしまう。

緊急事態条項は、ナチスドイツの全権委任法と同じ内容なのだから、全権委任法が「民主的な手続きを経て」成立した後のドイツに何が起こったかをみれば、これから起こることは相当想像がつく。

第二次大戦中の「治安維持法」を令和バージョンで復活させる。

それが今回目論まれている改憲の真の姿だと、私には見える。

人間て、何百万人死んでも学ばないし、すぐにいろんなことを忘れてしまう。愚かで怖い生き物だ。

 

改憲も、何か別のニュースで大騒ぎしている間に、どんどん進んでしまうだろう。

本当に毎回、うんざりするくらい同じやり口なのだ。

でも皆怒りに浮かれて卑近な目の前のことに夢中になってしまう。

そのことがとてもやるせない。

 

リーダーが決断して意思決定するだけであれば、それは民主主義とはほど遠い。

首長たちは弁舌によって人々を説得し、納得させようとする。

つまり決断を下すのではなく、人々の同意を得ることがリーダーの仕事になる。

それは、皆が同意できる状況を作れなければ、集団としてのまとまりを維持できなくなるからだ。

レヴィ=ストロースは「同意」こそが権力の源であると同時に、その権力を制限するものだと言った。

それは明らかに民主主義の理念そのものだ。

本来なら、国民が納得できる言葉を持たず、同意を得るどころか、発言するたびに失望させるような者に政治家の資格などない。(「くらしのアナキズム」松村圭一郎著 より引用)

 

職責を果たさないリーダーも、記者会見で人を見下すような態度をとる政治家も、偉くないどころか、本来的には異様な、倒錯的な存在だ。

それを超えて偉いとか尊敬されるべきだと思わせる仕組みがあるとしたら、それこそが民主主義を機能不全に陥らせている国家の強制装置だ。(同著より引用)

 

Enough is enough、だよもう本当に。

「わたし」をやめない

火曜日から続いた末っ子の高熱は、昨日からようやく平熱になり、明日は久々に登園できそう。今回も、長かったなあ。はああー深いため息。

 

自分の場合、子供が病気になって一日中子どもシフトになっても、もちろん余白がゼロということではなく、隙間時間に本を読んだり動画を見たりもするし家事もやる。

でも(今みたいに熟睡しててくれないかぎり)基本的に「ものを考える」ということがまるでできなくなる。

誰かとメールのやり取りをすることなども、すごく難しくなって、溜め込みがちになる。

「わたし」という個人がひゅっと消えてなくなってしまって、おかあさんと奥さんという役割のみになるという感じ。

1、2日ならどってことないのだが、それ以上長引くと、寝不足も相まってボディブロー的にだんだん心がやられてくる。

 

世の人々が皆わたしのような不器用ではないとは思うけど、個と役割の切り替えは誰にとってもそれなりに難しいのじゃなかろうか。

実際、今の日本で、家族をもっており基本家の中にいる女性が「ただのわたしであること」をやめないでいることは簡単ではない。

しっかりと死守するという心づもりがないと「ただのわたし」はいつの間にか輪郭がぼやけて、やがて見失ってしまう。気がついたら役割に自分をすっかり明け渡してしまっているようなこともある。

無我夢中に子育てすることも、もちろん素晴らしい。

でもそれで子育てや介護がひと段落着いた時、あれ自分ていったいなんなんだろう、自分にできることなんて何もないみたいに思ってしまうのは、すごくやるせないことだ。

いっときぐらぐらしても、実際何もないなんてことはないのだから、遅かれ早かれその人なりに復活してくのだとは思うけれど。

 

それでも、アラフィフの自分にとって、残りの人生の短さを思うと、上の子の時よりも、もうちょっと切り替え能力を上げていきたいなーと思う今日この頃。

幼児がいながらも、自分自身が打ち込みたいこと、考えたいことを、諦めずに楽しくやっていきたい。

むしろ幼児がいるからこそ、より豊かな思索や今の大事さを感じながら毎日を過ごせたらいいなと思う。

誰かのケアを担いながらも、自分のアートをいきいきと生きる人生を送っている身近なお手本たちの存在がとてもありがたい。

彼らにとってのケアが、不本意な雪かき仕事だけではなく、むしろその人の人生に深みを与えてくれるものになっていることにも希望と尊敬を感じる。

 

てなわけで、明日はスローに過ごそうと思います・・・。