みずうみ2023

暮らしの中で出会った言葉や考えの記録

デモと労働

昨夜、パリの息子氏に、フランスでは100万人規模のデモが起こっているみたいだけどだいじょぶー?と訊くと、「1日メトロがストで止まったけど、他は特に影響ないよ」と言っていた。フランスはデモやストが日本よりずっと身近。

息子氏は、語学学校、音楽院、アルバイトと3つのわらじを履いて忙しくやっており、自分の暮らしを軌道に乗せるまではまだまだ自分のことでせいいっぱい、周りのことはあまり見えていないという感じだ。

私としては、バイト先が仕事前に美味しい和食をたらふく食べさせてくれると聞いて、なにはともあれ、彼が週に3回まともなご飯を食べられていることにひと安心している。

 

それにしてもフランス政府の62歳から64歳への年金引き上げ案に反対する市民のデモ、あっという間に112万人か、すごいな。学校も7割が休校になったそう。

政府が撤回するまでデモを続けるという。

日本とは、デモクラシーに対する意識が全然違うんだなと改めて思わされる。

私たちの国では、デモなんてしても無駄だってすっかり思わされているけれど、もちろんそんなことはない。

 

日本のメディアは、デモを暴徒化、略奪、破壊と結びつけて報じがち。

だから、デモをすることは、あたかも暴挙で、恥ずべき逸脱で、犯罪に近いことのように思っている人も少なからずいる。

以前、特定機密保護法が決まりそうな時、これはさすがにあかんやろう、と思って国会前のデモにプラカードを持って家族で参加した。

そのことを何気なく周囲に言った時の反応は忘れられない。

気まずそうにスルーする人、サーっと引く人、冷笑的な相槌を打つ人。

学校で人権教育をしないことの「成果」の一つでもあるのだろうけれど、やはりこの国には、デモに対して何か重大な思い違いがあるのじゃなかろうか。

当たり前のことだが、デモは犯罪や暴力やなにか恥ずかしいこと、ではなくて、市民が権力の暴走を止めるために連帯して行なう、デモクラシーのための正当な手段だ。

日本では、皆大人しく諦めて従って、意思表示をしないでいることで、年金も含めた社会保障が目に見えてどんどん改悪されていき、汚職もフリー状態になっている。

デモを冷笑するって、誰目線で誰得なんだろう。

 

労働への意識も、日本とフランスではかなり違うんだなと感じた。

日本では「体が動く元気なうちは働いて社会の役に立つことが自分の生きがいにもなり、人生を生き生きとさせてくれる」というのが、人々の本音は色々だろうけれど、表向きの見解としてはそれが常識的とされてるっぽい。

でも、今、フランスの人たちは、余計に働きたいわけないだろう、いい加減にしろって堂々と怒っている。

 

斉藤幸平さんも「人間が働くことで地球環境が壊れているんだ」と著書で書いていた。

それはいささか極端な物言いかなとも思うけれど、でも、労働を美化しすぎたり、何よりも労働しないことを罪のように思う意識は、それこそ本当に罪深いと私は思う。

 

もちろん人それぞれいろんな事情があって、何歳だろうが仕事をしたい人もしたくない人も、働きたくても働けない人も、さまざまなケースがある。

「まだ働けるのだから、◯歳くらいまで働くのは普通で当然のことだよね」とかになると、それは違うよねと思う。

 

私は、もうしばらく前から、自分や夫の老いに伴う体の変化も感じて、夫も自分も50代はもう、がしがし働くフェイズではないでしょう、仕事はできるだけ自分の人生の時間をかける価値のあることをやって、気分としてはもう半分隠居でのんびり味わって生きていくでいいでしょ、というくらいの構えになっている。

「She Said シー・セッド その名を暴け」

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2022年アメリカ/原題:She Said/監督:マリア・シュラーダー/129分/2023年1月13日〜日本公開

 

監督はあの素晴らしい「アンオーソドックス」のマリア・シュラーダー。

「アンオーソドックス」で彼女は、NYのハシディック社会で生きる女性たちの袋小路みたいな人生の苦悩を、怖気立つような見事なリアルさで描いていた。

だから、#Me Tooという現象やハーヴェイ・ワインスタインという存在について、簡単な勧善懲悪ストーリーなどあり得ないし、きっと重層的に構造全体を描くだろうと思っていた。

予想以上に地味で抑制的だったけれど、それだけに物事の深刻さが伝わってくる作りだった。

終始辛抱強く無鉄砲さはなく、感情に安易に訴えない。分かりやすい勧善懲悪やカタルシスを一つも用いない。

いくらでもそれを挟み込む余地のあるセンセーショナルな題材なのに、最後まであえてそういう演出を選ばなかった。

それは、事実を辛抱強く積み上げて、積み上げて、裏取りをして、何度も確認をして、ようやくこのニュースを世に問うた記者たちのありようそのもの。

そして、そうだったからこそ、心の底のふつふつとした静かな怒りは、見ている間だけでなく見終わった今もずっと心の中で長くくすぶり続けている。

 

シスターフッドの物語でもある。

主演のキャリー・マリガンやゾーイ・カザン、彼女らの上司のパトリシア・クラークソンはめちゃ格好良かったし、この事件に関わる全ての女たちそれぞれが心に残る。

攻撃を受けたり、軽んじられたり、黙らされたりして彼女らは深く傷つき、自分を責め、やがてなんとかそこから自力で這い上がり、自らの人生を取り戻そうと踏ん張っている。

そこには、女を生きることの大変さを共有しているという、痛みと同時に暖かな、力強い連帯の感覚がある。

男憎しみたいな短絡に陥ることなく、女性をエンパワメントする。

率直でありながら、思慮深さと知性が貫かれていることが、この作品の素晴らしさだと思う。

 

もう記事を発表するという最終段階になって、ハーヴェイ自身がニューヨークタイムズ本社に弁護士を伴って乗り込んでくるというシーンがある。

終始後ろ姿だけで登場するハーヴェイは、大きな体躯を揺らしながらトランプ元大統領みたいに、性暴力を告発した女性たちを貶め、嘘つき呼ばわりし、自分は無実だとまくし立てる。

その彼の肩越しに、キャリー・マリガン演じるミーガン・トゥーイーが黙ってハーヴェイを眺めている顔が長く映し出される。

とても印象的な表情だ。眉を上げて軽蔑しているのでもない、怒っているのでもない。どちらかというと静かな微笑みにも似た、どのような感情も形容しがたい、中間的な表情。

 

性犯罪に限らず、今の世の中には、嘘や無理筋だと言っている本人も分かっていながら、大声で威圧的に、相手の発言を遮ってわめき立てれば、あたかもその人の言う通りに嘘も事実にねじ曲げられると思っているかのような社会的強者がいる。

そういう人々に対してまともな議論は成立しない。

揚げ足を取って、自分に都合の良い要素だけを拡大して、自分のことは棚に上げて相手を糾弾し、論点をずらし、都合の悪い質問には答えない。

ただ自分の主張を言い張るだけ。

どれほど論理破綻していようと、筋が通っていなかろうと、社会的なパワーをちらつかせながら、言い分を完璧に証明しろとか対案を出せと相手を脅して、相手を萎縮させて黙らせようとする。

そして、どのような形であれ、その場で相手を黙らせることに成功したら、「うっしゃ、俺の勝ち、俺が正しかった」ってことになる。

論破って、すごい能力みたいに言われるけど、実際に起こっていることって、そのレベルの愚かな行いだと思う。

 

そのように他人をねじ伏せてきた人は、ミーガンのあの眼差しを正視できるんだろうか。

言いたいだけ言わせ、脅したいだけ脅させたのち、彼女らは完璧に証拠と足元を固めて、堂々と記事を世に問うた。

その後、ハーヴェイ・ワインスタインは82人の女性に続々と訴えられ、懲役23年の実刑判決を受けることになる。

 

それにしても性暴力は、加害する側の意識の軽さと、被害を受けた側の深い傷のギャップがあまりにも大きい犯罪だと、作品を見ていて改めてひしひしと感じないわけにはいかなかった。

性暴力は、加害する男側にとっては「それくらいのこと」でしかない。

別に殺すわけでも、骨折させるわけでもないだろう?

「ほら、さっさと突っつかせろよ、すぐに終わるんだから。俺に恥をかかせるな」

ハーヴェイは部下の女性を押さえつけてそう言った。

 

暴行を受けた女性たちは、20年以上前のことにも関わらず、記者が電話口でハーヴェイの名を出しただけで泣き出す人もいるほど、長きにわたって深く傷つき続けている。

彼の所業は、女性たちの人生の形を不可逆的に変えてしまっていた。

それも、誇張でなく何百人という数の女性の人生を。

ハーヴェイは日常茶飯のように取っ替え引っ替え、手当たり次第に女性たちを性的に損ないながら王のように振舞って生きてきた。

死刑も含めてどんな罰も見合わない。あまりに残酷なことで、取り返しがつかない。

 

そして、作品で強く言及していたことは、何よりも深刻なのは、ハーヴェイが少なくとも10回以上、金と権力次第で検察や警察やメディアを買収して、腕利きの弁護士を雇って女性に秘密保持の書類にサインをさせ、被害者に金を握らせて完全に口封じをしてしてきたという事実。

誰もが事実から目をそらし口裏を合わせ、印象操作に加担してきた。

そのため、ハーヴェイ・ワインスタインは安心して何十年も性犯罪を続けた。

 

性犯罪は、身体的に大きく屈強な男性と小柄で力の弱い女性という身体的格差の上だけで起こるものではない。

経営者と彼から仕事を得る労働者という圧倒的な立場の違いもある。

とりわけショービジネスの世界は年端のいかない少女を含む、人生経験の浅い若い女性が激しい競争にさらされる業界。

俳優においては、容貌的魅力が仕事と直結するため、仕事関係者に美貌をアピールする必要性が生じることも多々あるだろう。

そのような中で、同時に性的な視線から自分の身を守らなくてはならない。

さらに、社会にいくらでも便宜を図れるほどの権力者と、後ろ盾のない個人という社会的パワーと経済の格差。

それら全てが合わさって起こっている。

権力と金で次第で隠蔽できるアンフェアなシステムの上に、権力者の犯罪が支えられている。根本的な問題はそこにある。

 

ただし、この作品はついに告発したメディアを正義として描くだけで、それまで長きに渡って、ハーヴェイの所業を知っていたのに、被害者の訴えがあったのに、記事化しないで沈黙してきたメディア業界の罪についてはほとんど触れられていない。

メディアもハーヴェイの犯罪にめちゃめちゃ加担してきたのだ。

自省って本当に難しい、、、。

正直、そこにはかなりのもやもやが残ったし、そこに踏み込まずに本当の解決はないだろうとも思う。

 

アメリカだけではない。

日本だって、伊藤詩織さんの事件が象徴的だが、民事で何度も有罪と判決が下された人物が、元首相に近い人物であったゆえに、直前で逮捕されず、不起訴になっている。

日本にも同じ構造があるのは明らか。

ミソジニーは、ジェンダー感覚で説明できる問題ではなく、社会構造の問題。

小さな個人にとっては、誰もが対岸の火事ではなく、ほんとうに明日は我が身なのだ。

年末年始の映画(最近の映画)

「再生の地」

2021年アメリカ/原題:LAND/監督:ロビン・ライト/89分

 

小さい子のママをやっていると子供に対して「人に迷惑をかけてはいけません!」というメッセージを強めに発しているお母さんに結構出会う。

それは一見良識的なように見えて、「誰かと関わって謝ったりお礼をしたりする事態がとても煩わしいので、できるだけ関わり合いになりたくない」という気持ちのあらわれである事は、まあまあ多い。

現代社会では、お金で多くのことが解決できるし、お中元お歳暮のようなやりとりもすっかり廃れて、健康で経済的に成立していれば、誰とも貸し借りせずに生きることにすっかり慣れているという人も少なくない。

ところが、子供を育てるのは頭を下げることの連続なので、自分でなく子供のやった事で謝ったりお礼をしたりということが急増して心理的に負担が増す。気持ちはよく分かる。

でも、相応のサバイバルスキルを身につけないまま、誰とも貸し借りを作らずひとりで生きられると思うのは、自分を過信している。

どんなに煩わしくても、やっぱり人に迷惑をかけたりかけられたりしながらやっていくことが人間社会で生きるという事なんだと思う。

 

ロビン・ライト演じる主人公エディは、ほとほと人間に嫌気がさして、誰にも会わない山奥の掘っ立て小屋で一人で生きようとする。

彼女は辛い出来事があって、半ば死にたい気持ちでそういう思い切ったことをしているので、考えが足りないし、大自然を完全になめている。

でも、不便だし不潔だし寒いし簡単に食べ物の調達はできないし、熊は出るし、すぐに立ちゆかなくなって、逆ギレして、死にそうになる。

見かねた地元の漁師ミゲルが彼女に自然の中で生きる手ほどきをするわけだけど、好意はあれどけして踏み込まず、報酬ももらわず、たまたまこんな王子様並みの良い人がいてほんとラッキーだったよね、と思う他にあんまり感想が浮かばなかった。

エディはそれなりに傷を抱えたりもがいたりしているはずなのだけど、どこかスマートにするする行き過ぎているように思えて、あまり共感できなかった。

 

「スタッツ 人生を好転させるツール」

2022年アメリカ/原題:Stutz/監督:ジョナ・ヒル/2022年11月14日〜配信

 

フィル・スタッツ氏は、世界的な精神科医で、多くの著名人の患者を持つ。本作の監督、俳優のジョナ・ヒルもそのひとり。彼のセオリーである「ツール」は広く共有する価値があるという思いで、主治医へのインタビューを作品化したもの。

ただ、レクチャー的な作りでは全然なくて、あくまでスタッツ氏と、ジョナ・ヒルのパーソナルな人生における悲喜こもごもをとりとめなく語り合う。その中で、「こういう必然があってこういう対処(ツール)が生まれてきた」という形でスタッツの考え方が紹介されている。

 

プロジェクトのはじめは、スタイリッシュなドキュメンタリーを作ろうと意気込んでいたものの、行き詰まり、こんぐらかる。

格好つけて都合の悪いものを見せないようにしていては人の心に訴える本物の作品にはならないとヒルは悟って、途中でちゃぶ台返しするみたいに全部種明かしをして、これからは腹を割ってただ話そう、という方向転換をする。

スタッツは融通無碍で、悠然としている。スタッツは、自分をすごく見せようとかいうことには全然関心がない。

 

その後の語りは率直で、見ている側も痛みを感じるほど正直に自己開示されていた。

多くの人を救ってきた凄腕の精神科医も、一流の俳優も、一人の生身のただの人間として、不完全な人生を、愛する誰かのことを気に病みながら生きている。

どんな人もちっぽけで小さな人生をその人なりに切実に生きているということを目の当たりにして、人間がとても愛おしく感じられた。

 

SNS 少女たちの10日間」

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2020年チェコ/原題:V siti/監督:バーラ・ハルポバー、ビート・クルサーク/104分

 

童顔に見える大人の女性数人が12歳という設定でSNSに登録すると、どういうことが起こるかをつぶさに撮影した、社会実験のドキュメンタリー。

果たして、たった10日間で1200人以上の男性が、信じがたいほど卑猥で愚劣な行動を少女たちに次々に仕掛けてくる。

期間中に「普通に楽しくおしゃべりしたい」という目的でアクセスしてきたまともな男性は1人だった。

スタッフが安全性を確保した上で、その中の数人と実際に会って話すシーンも盗撮されている。

いい年をした男性たちが、自分のいっときの性欲を満たすためなら少女の人生などどうなろうが知ったことではないという態度の人ばかり。

もちろんまともな男性は、世の中にたくさんいて、このプラットフォームが特に掃き溜めみたいな場所なんだとは分かっているが、こうも糞みたいな男性ばかりを選択的にずっと見せられてしまうと、男性不信に陥りそうになる。

一緒に見ていた娘氏は「パートナーは女性の方がいいなって思ってしまう、、」と呟いていた。

 

今、十代少女向けのシェルターを運営するcolaboと仁藤夢乃さんが誹謗中傷に晒されている。

そもそも不正はないのだし、攻撃は完全にヘイトでしかないし、私はcolaboに連帯している。

ただ、仁藤さんの「おじさんがキモすぎる」というような表現は結構言葉として強いな、と思っていた。

でも、仁藤さんたちが日頃レスキューしているのは、この映画に出てくるような、自分の性欲のためなら女性に何をしても構わないみたいな男性から被害を受けた少女たち。

10年以上そういうケースに日々向き合い続けている訳で、仁藤さんたちはこの映画のような男性たちが世の中に山のようにいるという認識でずっと生きていると思う。

だとしたら、ああいう言葉になるのも無理ないなあ、と思う。

私たちも映画を見ながら「ひえ〜、キ、キモい〜!」って言葉に出さずにはいられなかったもの。

 

とにかく、まずは自分のネットリテラシーをもっと高めなくっちゃ、と危機感を持った。

「ホワイト・ノイズ」

ホワイト・ノイズ の映画情報 - Yahoo!映画

2022年アメリカ/原題:White Noise/監督:ノア・バームバック/136分/2022年12/9〜日本公開

 

そりゃそうであろう。

今のアメリカにいてまともにものを考えられる人間なら、一体なんなんだこれは、どうしてこんな馬鹿げたことが誰にもまともに止められないまま進行し続けているのだ、何が本当のことか分からない、何もかもがあっという間に手垢にまみれていくようなこのカオスってなんなんだ、そう思わずにはいられないんだろう。

今の世界に対する混乱と軽蔑とやるせなさと開き直ったニヒリズムの気分が作品に横溢している。

 

ここに出てくる大人から子供まで、人々の全部が浮ついている。

行き場のないぎらぎらしたものを抱え、落ち着きなく呼吸は浅く、瞳孔が開いている。

死や不安を恐れて、なんとか金や人間の力でもって、「死んでも」そこから救われたい逃げ出したいと願い、同時にどこか遠くの破壊や破綻や死を高みから眺めることを浅ましいほどに欲する。

何が真実か倫理的か正しい智慧か、もうこんぐらがって何が何だかのカオスの中で、声の大きい人の言葉を真に受けて、わーっと右往左往してやみくもに走り回っている。

 

今の世界を生きる人々の典型的パターンを見せつけられているよう。

自分もしっかり同類だと感じる。

気の滅入ることだが、その通りだから仕方がない。

 

バームバック作品としては、一番やけっぱちに振り切れていて、思い切りよくやりたいようにやっていて、私は好きだった。

巨大なスーパー、びっしりとカラフルな商品が並んだ棚が象徴的に出てくる。

破れかぶれの資本主義。

でももう我々はそこに依って立つことでしか成立しないんだ。

破滅するその時まで、買って買って買いまくるのだ。

 

考えることが生きること

毎朝起きて、自分の体調を感じてみて、昨日よりは良くなっているのだけど、思った程回復できてないことに小さく驚く。

通常の病気の時のより、明らかに回復が遅い。なるほどこれがコロナなんだな。

それでも、綾戸智恵または伊藤沙莉にそっくりだったハスキーボイス(迫力があって結構気に入っていた)はだいぶ元に戻り、「大豆田とわ子のナレーション喋ってみて〜」とからかわれることもなくなった。

来週からヨガを再開しようと思っている。

 

それにしても、ここまで思考能力が長期的にダウンすることって本当に久々であった。

まともにものが考えられない、考えようとしても、散文的にふわーと思考がすぐ散り散りになってしまう。

それは自分にとってはとても心許なく、焦りに似た不安な思いにさせられる日々だった。

 

いつ頃からなんだろう、気がつけば、何事も自分の心が動いたことについていちいちしつこく考えては自分なりの落としどころを見つけてやっと次に行く、みたいな生き方になっている。

普段から、何に対しても初動の反応はいつも鈍く、その場で気の効いた言葉など何も浮かばない方だけれど、腑に落ちないことを何日でも長い時は何ヶ月でもつらつらと考え続ける。

本や映画やニュースや誰かの何気ない言葉などにはっとさせられたり、黙って行きつ戻りつ考えながら、雲みたいに漠然としていたあるアイデアが、だんだんと形を持ち始める。

そのプロセスが自分は何より好きで、懲りもせずいつも何かしらについて考え続ける人生。

だから、考えることをすぐやめて適当にふぁーと流すようなことをすると、自分はわりとすぐ、あんまり生きている甲斐がないみたいな気分になってくるみたいだ。

 

自分のような人は多数派ではないんだろうな、たぶん。

考えても答えの出ないようなことをいつまでもしつこく考えるよりは、何か気持ちを他に切り替えたり、寝ちゃったり、忘れて別のことをしたりして、前へ進む人の方が割合として多いのかなとなんとなく思う。

そういう人にとっては、自分のような人は、さぞめんどくさく、うっとおしいだろうと思う。

ついつい、その自分のうっとおしさを忘れては、他人に嫌がられている。

息子氏はタイプが違ったが、うちは夫も娘氏も私と同じタイプ(でも、2人は私よりもっと穏便で、感じが良く、一般受けする)。

何にしても、一緒に暮らす人が自分と同じ、考えるのが好きな人たちであることは、本当に幸せなことだといつも思う。

 

行動範囲も交流範囲も狭く、子育て中心の小さな暮らしだが、生きている中で日々いろんなことを感じて、しょっちゅう感動したり怒ったりしていて、私の脳内は自分で思うより1人静かに常にフルスロットルで忙しい状態なのだなあ、と今回病気で頭がろくにはたらかなくなってみて実感した。

つくづく自分は頭でっかちで観念的な人なのだなあと自覚した次第。

 

また、今回考えることができないことでしんどかったのは、「考えきる」ことができないと、私は自分も他人も肯定的に受け取れないループに入ってくるらしいことだ。

他の誰かの言っていることの方がずっと正論で、自分がほとほと浅はかでみじめな存在に思えてくるし、誰も私のことなんて好きではないみたいに感じられて、なんか全てが嫌になってしまう瞬間があった。

今もそれを引きずってもがいている。 

負の感情に苛まれるサイクルは、生きていると定期的に巡ってくるものなので、自分なりに原因を考え、なんとか気分の底上げ対策をしつつ、静かに時が過ぎるのを身を縮めて待つのみ、という基本姿勢は、さすがにこの歳になればだいぶ確立している。

でも、この負のサイクルが自分の脳がまともに機能していないために起こっているという風には、これまであまり考えたことがなかった。

自分にいろんなアンラッキーなことが降りかかってきたり、嫌な人と関わったり、悪いことが積み重なるせいで起こると思っていた。

もちろんそれもあるんだろうけれど、結局沼に落ち込むかどうかは、起こったことの大小だけではなく、自分がある種の納得性まで自分の思考を持っていけるかどうかなんだと思う。私の場合。

今回長めの病気になってみて、そういうことが発見できた。

 

もう一つ、今回落ち込んで感じたこと。

人はどういうチョイスをしても、どの道を行ったとしても、必ず良い側面はあって、同時に悪い側面も生まれる。

全方位的に正解の完璧な選択など存在しない。

何を選んでも得るし、失う。

結局、自分がこうしたいと思うように、悔いなくできたかどうかしかない。

それによって派生する正負の側面を引き受けられるだけの納得性を、その選択に持つことができるか。

 

だから年取るごとに簡単に後悔するって欲深いと感じるようになったし、誰のことも簡単に羨ましいとか思わなくなっている。

得も損もないなと思う。

どんな選択もそれぞれの良さと悪さがあって、それらの選択によって派生するものを引き受けるしかない。自力でコントロールできることはそれほど多くはない。

 

「物事の良い面を見た方がいい」というのは、だから無理にポジティブなことだけ考えるということではない。

そうではなくて、悪い側面は現実にあり、気の持ちようでなくなったりもしないけれど、今の状況でなくては生まれ得なかった良い側面も同時にあるということを、思える諦観や謙虚さがあるかどうかなんだろうなと思う。

 

このところ、あまりにもいいことと悪いことが同時に起こり、嫌な人との関係が別の人と良い関係を呼び込んでいるように感じられたり、賢く見識を深めるほどにパートナーと心が離れていく知人の話を見聞きしたりして、そんなことを病気の頭でぼーっと考えていた。

 

まただんだんものが考えられるようになって嬉しい。

できるだけ心穏やかな気持ちでこの世から去れるように、これからも愚にもつかないことを一人こりこり考えながら生きていこうっと、と思う。

 

 

 

 

 

今日のつぶやき

◆三連休最後の日。コロナをまだ引きずっているけれど、だんだんと気力が日常モードに戻ってきた。

今回の病気の嵐では、近所に住む友達が何度もご飯を差し入れてくれたのが嬉しい思い出。

感染ると悪いから会わないほうがいいよ、と断ったのに、寒い中わざわざ届けにきてくれて、室外機の上にそっと置いといてくれた。

自分のような粗雑で徳の低い人間に、こんなに親切にしてくれる人がいることは、不思議なような、申し訳ないような気持ち。

どうあってもお返しなんてできないんだけど、いつも優しさをもらったことを忘れない。

 

◆明日の朝、末っ子を保育園に送り込んだら、ようやく1月が始まるという感じ。うー待ち遠しい。

明後日は今年初の不登校の会。

今年は、どこであれ誰かと対峙する場では、黙ってしっかり人の話に耳を傾ける一年にしようと思っている。

意見や分析や判断は極力なしでいく。

聞いてほしい人は本当にいっぱい、いっぱいいる。

誰もが聞いてもらえてないフラストレーションを抱えている。

人の話を聞く、そのために時間を割くことのできる人は、相対的に少なすぎると思う。

だから、私は自分の意見はここに書く、あとは家族に話すくらいにして、リアル世界では主に聴く側に回ろうと思う。

 

◆希望を感じたニュース。大阪府知事選に辰巳孝太郎さんが出馬して「大阪の子供達の未来にカジノはいりません」と言ったこと。

米下院トップのハキーム・ジェフリーズが毅然と民主主義を語ったこと。最高裁判事クラレンス・トーマスに、あなたはなぜ法の下の自由と平等を憎むのか?とまっすぐに訊いたこと。

日頃、公の場所で語る人々の訳知り顔の言葉や、責任を回避する言葉があまりにもゲスいので、皆心が折れそうになっている。

だから、公の場所でdecencyを示す人たちの存在が、今とても大切なものになっていると思う。

 

年末年始の映画(古い映画)

あと一息で病気が抜けていく、という感覚がある。今日一日、安静に過ごそう。

年末、身動きが取れず配信を見るくらいしかないので、U-NEXTに加入してみた。月額お高めだが、見たかった古い映画などが充実している。

もう、人生も残り少ないので、今年からは新しい作品ばかりを熱心に見るのではなく、これまで見た素晴らしい映画をもう一度見返すこともしていこうと思ってる。

 

年末年始見て良かった作品。(古い作品編)

 

「ナイト・オン・ザ・プラネット」

ナイト・オン・ザ・プラネット」チラシビジュアル - ジム・ジャームッシュ特集上映が地方でも開催、Tシャツの販売も決定 [画像ギャラリー 16/29]  - 映画ナタリー

1992年アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、日本合作/原題:Night on Earth/監督:ジム・ジャームッシュ/129分

 

オールタイムベストのひとつを娘氏にも見せたくて。

この作品は、旅しているような気持ちを味わえるから、私にとっては一種のロードムービー

「旅の気持ち」とは、心細く、自由で広々としていて、どんな奇妙なことでも起こりうる、という感覚のこと。

 

若い頃は、LAのウィノナ・ライダージーナ・ローランズのパート、NYのヘルメットとヨーヨーのパートが、楽しくて可愛らしくて何しろお気に入りだったけれど、今回、パリやヘルシンキのエピソードも、なんかすごく沁みて良くって、自分も年を取ったんだなあと感じた。

そして、ヘルシンキ編のタクシーの運転手はアキで、酔っ払いはミカなのだった。

初めて見た頃は、カウリスマキ兄弟のことなんて何も知らずに見ていた。

 

恋人たちの予感

恋人たちの予感(When Harry Met Sally…):フェイクオーガズムするサリーが食べていたモノ – Hedgehog Note

1989年アメリカ/原題:When Harry Met Sally.../監督:ロブ・ライナー/96分

年に一回くらい無性に見たくなる。これぞラブコメディの金字塔みたいな映画だけれど、やっぱり大好き。ラストの愛の告白も、何度見ても最高だなあ。

この頃のメグ・ライアンは、なーんて可愛いんだろう。

それにしても、元恋人が結婚して、ショックでハリーを家に呼んだ時に、「(結婚しないままに)40歳になっちゃう〜〜〜〜」と大泣きするシーンが、配信でまるっとカットされていてびっくりした。

すごく重要なシーンなのに、なんでだろう。こういうの良くないと思う。

 

「浮き雲」

دانلود فیلم Drifting Clouds 1996 - دیبا مووی

1996年フィンランド/原題:Kauas pilvet karkaavat/監督:アキ・カウリスマキ/96分

 

大好きなカウリスマキの古い作品も、まとめて見直そうと思っている。

この映画の中に漂っている雰囲気や世相って、今の日本に酷似している。

シャレにならない、というか全く他人事ではなく、友よ、という感じなのである。

このユーモラスさに救われつつも、苦笑いしかない。

 

作品では、主人公がついに雇われる生き方を止め、自分で商売を立ち上げることで、人生の活路が開かれていくのだけど、主に資金面での最初の一歩の難しさと、でもそこを越えれば、それまでこつこつ生きてきたこと、共にやってきた仲間が全部大きな価値となって返ってくるという流れが、とても示唆的。