昨夜、パリの息子氏に、フランスでは100万人規模のデモが起こっているみたいだけどだいじょぶー?と訊くと、「1日メトロがストで止まったけど、他は特に影響ないよ」と言っていた。フランスはデモやストが日本よりずっと身近。
息子氏は、語学学校、音楽院、アルバイトと3つのわらじを履いて忙しくやっており、自分の暮らしを軌道に乗せるまではまだまだ自分のことでせいいっぱい、周りのことはあまり見えていないという感じだ。
私としては、バイト先が仕事前に美味しい和食をたらふく食べさせてくれると聞いて、なにはともあれ、彼が週に3回まともなご飯を食べられていることにひと安心している。
それにしてもフランス政府の62歳から64歳への年金引き上げ案に反対する市民のデモ、あっという間に112万人か、すごいな。学校も7割が休校になったそう。
政府が撤回するまでデモを続けるという。
日本とは、デモクラシーに対する意識が全然違うんだなと改めて思わされる。
私たちの国では、デモなんてしても無駄だってすっかり思わされているけれど、もちろんそんなことはない。
日本のメディアは、デモを暴徒化、略奪、破壊と結びつけて報じがち。
だから、デモをすることは、あたかも暴挙で、恥ずべき逸脱で、犯罪に近いことのように思っている人も少なからずいる。
以前、特定機密保護法が決まりそうな時、これはさすがにあかんやろう、と思って国会前のデモにプラカードを持って家族で参加した。
そのことを何気なく周囲に言った時の反応は忘れられない。
気まずそうにスルーする人、サーっと引く人、冷笑的な相槌を打つ人。
学校で人権教育をしないことの「成果」の一つでもあるのだろうけれど、やはりこの国には、デモに対して何か重大な思い違いがあるのじゃなかろうか。
当たり前のことだが、デモは犯罪や暴力やなにか恥ずかしいこと、ではなくて、市民が権力の暴走を止めるために連帯して行なう、デモクラシーのための正当な手段だ。
日本では、皆大人しく諦めて従って、意思表示をしないでいることで、年金も含めた社会保障が目に見えてどんどん改悪されていき、汚職もフリー状態になっている。
デモを冷笑するって、誰目線で誰得なんだろう。
労働への意識も、日本とフランスではかなり違うんだなと感じた。
日本では「体が動く元気なうちは働いて社会の役に立つことが自分の生きがいにもなり、人生を生き生きとさせてくれる」というのが、人々の本音は色々だろうけれど、表向きの見解としてはそれが常識的とされてるっぽい。
でも、今、フランスの人たちは、余計に働きたいわけないだろう、いい加減にしろって堂々と怒っている。
斉藤幸平さんも「人間が働くことで地球環境が壊れているんだ」と著書で書いていた。
それはいささか極端な物言いかなとも思うけれど、でも、労働を美化しすぎたり、何よりも労働しないことを罪のように思う意識は、それこそ本当に罪深いと私は思う。
もちろん人それぞれいろんな事情があって、何歳だろうが仕事をしたい人もしたくない人も、働きたくても働けない人も、さまざまなケースがある。
「まだ働けるのだから、◯歳くらいまで働くのは普通で当然のことだよね」とかになると、それは違うよねと思う。
私は、もうしばらく前から、自分や夫の老いに伴う体の変化も感じて、夫も自分も50代はもう、がしがし働くフェイズではないでしょう、仕事はできるだけ自分の人生の時間をかける価値のあることをやって、気分としてはもう半分隠居でのんびり味わって生きていくでいいでしょ、というくらいの構えになっている。