みずうみ2023

暮らしの中で出会った言葉や考えの記録

考えることが生きること

毎朝起きて、自分の体調を感じてみて、昨日よりは良くなっているのだけど、思った程回復できてないことに小さく驚く。

通常の病気の時のより、明らかに回復が遅い。なるほどこれがコロナなんだな。

それでも、綾戸智恵または伊藤沙莉にそっくりだったハスキーボイス(迫力があって結構気に入っていた)はだいぶ元に戻り、「大豆田とわ子のナレーション喋ってみて〜」とからかわれることもなくなった。

来週からヨガを再開しようと思っている。

 

それにしても、ここまで思考能力が長期的にダウンすることって本当に久々であった。

まともにものが考えられない、考えようとしても、散文的にふわーと思考がすぐ散り散りになってしまう。

それは自分にとってはとても心許なく、焦りに似た不安な思いにさせられる日々だった。

 

いつ頃からなんだろう、気がつけば、何事も自分の心が動いたことについていちいちしつこく考えては自分なりの落としどころを見つけてやっと次に行く、みたいな生き方になっている。

普段から、何に対しても初動の反応はいつも鈍く、その場で気の効いた言葉など何も浮かばない方だけれど、腑に落ちないことを何日でも長い時は何ヶ月でもつらつらと考え続ける。

本や映画やニュースや誰かの何気ない言葉などにはっとさせられたり、黙って行きつ戻りつ考えながら、雲みたいに漠然としていたあるアイデアが、だんだんと形を持ち始める。

そのプロセスが自分は何より好きで、懲りもせずいつも何かしらについて考え続ける人生。

だから、考えることをすぐやめて適当にふぁーと流すようなことをすると、自分はわりとすぐ、あんまり生きている甲斐がないみたいな気分になってくるみたいだ。

 

自分のような人は多数派ではないんだろうな、たぶん。

考えても答えの出ないようなことをいつまでもしつこく考えるよりは、何か気持ちを他に切り替えたり、寝ちゃったり、忘れて別のことをしたりして、前へ進む人の方が割合として多いのかなとなんとなく思う。

そういう人にとっては、自分のような人は、さぞめんどくさく、うっとおしいだろうと思う。

ついつい、その自分のうっとおしさを忘れては、他人に嫌がられている。

息子氏はタイプが違ったが、うちは夫も娘氏も私と同じタイプ(でも、2人は私よりもっと穏便で、感じが良く、一般受けする)。

何にしても、一緒に暮らす人が自分と同じ、考えるのが好きな人たちであることは、本当に幸せなことだといつも思う。

 

行動範囲も交流範囲も狭く、子育て中心の小さな暮らしだが、生きている中で日々いろんなことを感じて、しょっちゅう感動したり怒ったりしていて、私の脳内は自分で思うより1人静かに常にフルスロットルで忙しい状態なのだなあ、と今回病気で頭がろくにはたらかなくなってみて実感した。

つくづく自分は頭でっかちで観念的な人なのだなあと自覚した次第。

 

また、今回考えることができないことでしんどかったのは、「考えきる」ことができないと、私は自分も他人も肯定的に受け取れないループに入ってくるらしいことだ。

他の誰かの言っていることの方がずっと正論で、自分がほとほと浅はかでみじめな存在に思えてくるし、誰も私のことなんて好きではないみたいに感じられて、なんか全てが嫌になってしまう瞬間があった。

今もそれを引きずってもがいている。 

負の感情に苛まれるサイクルは、生きていると定期的に巡ってくるものなので、自分なりに原因を考え、なんとか気分の底上げ対策をしつつ、静かに時が過ぎるのを身を縮めて待つのみ、という基本姿勢は、さすがにこの歳になればだいぶ確立している。

でも、この負のサイクルが自分の脳がまともに機能していないために起こっているという風には、これまであまり考えたことがなかった。

自分にいろんなアンラッキーなことが降りかかってきたり、嫌な人と関わったり、悪いことが積み重なるせいで起こると思っていた。

もちろんそれもあるんだろうけれど、結局沼に落ち込むかどうかは、起こったことの大小だけではなく、自分がある種の納得性まで自分の思考を持っていけるかどうかなんだと思う。私の場合。

今回長めの病気になってみて、そういうことが発見できた。

 

もう一つ、今回落ち込んで感じたこと。

人はどういうチョイスをしても、どの道を行ったとしても、必ず良い側面はあって、同時に悪い側面も生まれる。

全方位的に正解の完璧な選択など存在しない。

何を選んでも得るし、失う。

結局、自分がこうしたいと思うように、悔いなくできたかどうかしかない。

それによって派生する正負の側面を引き受けられるだけの納得性を、その選択に持つことができるか。

 

だから年取るごとに簡単に後悔するって欲深いと感じるようになったし、誰のことも簡単に羨ましいとか思わなくなっている。

得も損もないなと思う。

どんな選択もそれぞれの良さと悪さがあって、それらの選択によって派生するものを引き受けるしかない。自力でコントロールできることはそれほど多くはない。

 

「物事の良い面を見た方がいい」というのは、だから無理にポジティブなことだけ考えるということではない。

そうではなくて、悪い側面は現実にあり、気の持ちようでなくなったりもしないけれど、今の状況でなくては生まれ得なかった良い側面も同時にあるということを、思える諦観や謙虚さがあるかどうかなんだろうなと思う。

 

このところ、あまりにもいいことと悪いことが同時に起こり、嫌な人との関係が別の人と良い関係を呼び込んでいるように感じられたり、賢く見識を深めるほどにパートナーと心が離れていく知人の話を見聞きしたりして、そんなことを病気の頭でぼーっと考えていた。

 

まただんだんものが考えられるようになって嬉しい。

できるだけ心穏やかな気持ちでこの世から去れるように、これからも愚にもつかないことを一人こりこり考えながら生きていこうっと、と思う。