2022年アメリカ/原題:She Said/監督:マリア・シュラーダー/129分/2023年1月13日〜日本公開
監督はあの素晴らしい「アンオーソドックス」のマリア・シュラーダー。
「アンオーソドックス」で彼女は、NYのハシディック社会で生きる女性たちの袋小路みたいな人生の苦悩を、怖気立つような見事なリアルさで描いていた。
だから、#Me Tooという現象やハーヴェイ・ワインスタインという存在について、簡単な勧善懲悪ストーリーなどあり得ないし、きっと重層的に構造全体を描くだろうと思っていた。
予想以上に地味で抑制的だったけれど、それだけに物事の深刻さが伝わってくる作りだった。
終始辛抱強く無鉄砲さはなく、感情に安易に訴えない。分かりやすい勧善懲悪やカタルシスを一つも用いない。
いくらでもそれを挟み込む余地のあるセンセーショナルな題材なのに、最後まであえてそういう演出を選ばなかった。
それは、事実を辛抱強く積み上げて、積み上げて、裏取りをして、何度も確認をして、ようやくこのニュースを世に問うた記者たちのありようそのもの。
そして、そうだったからこそ、心の底のふつふつとした静かな怒りは、見ている間だけでなく見終わった今もずっと心の中で長くくすぶり続けている。
シスターフッドの物語でもある。
主演のキャリー・マリガンやゾーイ・カザン、彼女らの上司のパトリシア・クラークソンはめちゃ格好良かったし、この事件に関わる全ての女たちそれぞれが心に残る。
攻撃を受けたり、軽んじられたり、黙らされたりして彼女らは深く傷つき、自分を責め、やがてなんとかそこから自力で這い上がり、自らの人生を取り戻そうと踏ん張っている。
そこには、女を生きることの大変さを共有しているという、痛みと同時に暖かな、力強い連帯の感覚がある。
男憎しみたいな短絡に陥ることなく、女性をエンパワメントする。
率直でありながら、思慮深さと知性が貫かれていることが、この作品の素晴らしさだと思う。
もう記事を発表するという最終段階になって、ハーヴェイ自身がニューヨークタイムズ本社に弁護士を伴って乗り込んでくるというシーンがある。
終始後ろ姿だけで登場するハーヴェイは、大きな体躯を揺らしながらトランプ元大統領みたいに、性暴力を告発した女性たちを貶め、嘘つき呼ばわりし、自分は無実だとまくし立てる。
その彼の肩越しに、キャリー・マリガン演じるミーガン・トゥーイーが黙ってハーヴェイを眺めている顔が長く映し出される。
とても印象的な表情だ。眉を上げて軽蔑しているのでもない、怒っているのでもない。どちらかというと静かな微笑みにも似た、どのような感情も形容しがたい、中間的な表情。
性犯罪に限らず、今の世の中には、嘘や無理筋だと言っている本人も分かっていながら、大声で威圧的に、相手の発言を遮ってわめき立てれば、あたかもその人の言う通りに嘘も事実にねじ曲げられると思っているかのような社会的強者がいる。
そういう人々に対してまともな議論は成立しない。
揚げ足を取って、自分に都合の良い要素だけを拡大して、自分のことは棚に上げて相手を糾弾し、論点をずらし、都合の悪い質問には答えない。
ただ自分の主張を言い張るだけ。
どれほど論理破綻していようと、筋が通っていなかろうと、社会的なパワーをちらつかせながら、言い分を完璧に証明しろとか対案を出せと相手を脅して、相手を萎縮させて黙らせようとする。
そして、どのような形であれ、その場で相手を黙らせることに成功したら、「うっしゃ、俺の勝ち、俺が正しかった」ってことになる。
論破って、すごい能力みたいに言われるけど、実際に起こっていることって、そのレベルの愚かな行いだと思う。
そのように他人をねじ伏せてきた人は、ミーガンのあの眼差しを正視できるんだろうか。
言いたいだけ言わせ、脅したいだけ脅させたのち、彼女らは完璧に証拠と足元を固めて、堂々と記事を世に問うた。
その後、ハーヴェイ・ワインスタインは82人の女性に続々と訴えられ、懲役23年の実刑判決を受けることになる。
それにしても性暴力は、加害する側の意識の軽さと、被害を受けた側の深い傷のギャップがあまりにも大きい犯罪だと、作品を見ていて改めてひしひしと感じないわけにはいかなかった。
性暴力は、加害する男側にとっては「それくらいのこと」でしかない。
別に殺すわけでも、骨折させるわけでもないだろう?
「ほら、さっさと突っつかせろよ、すぐに終わるんだから。俺に恥をかかせるな」
ハーヴェイは部下の女性を押さえつけてそう言った。
暴行を受けた女性たちは、20年以上前のことにも関わらず、記者が電話口でハーヴェイの名を出しただけで泣き出す人もいるほど、長きにわたって深く傷つき続けている。
彼の所業は、女性たちの人生の形を不可逆的に変えてしまっていた。
それも、誇張でなく何百人という数の女性の人生を。
ハーヴェイは日常茶飯のように取っ替え引っ替え、手当たり次第に女性たちを性的に損ないながら王のように振舞って生きてきた。
死刑も含めてどんな罰も見合わない。あまりに残酷なことで、取り返しがつかない。
そして、作品で強く言及していたことは、何よりも深刻なのは、ハーヴェイが少なくとも10回以上、金と権力次第で検察や警察やメディアを買収して、腕利きの弁護士を雇って女性に秘密保持の書類にサインをさせ、被害者に金を握らせて完全に口封じをしてしてきたという事実。
誰もが事実から目をそらし口裏を合わせ、印象操作に加担してきた。
そのため、ハーヴェイ・ワインスタインは安心して何十年も性犯罪を続けた。
性犯罪は、身体的に大きく屈強な男性と小柄で力の弱い女性という身体的格差の上だけで起こるものではない。
経営者と彼から仕事を得る労働者という圧倒的な立場の違いもある。
とりわけショービジネスの世界は年端のいかない少女を含む、人生経験の浅い若い女性が激しい競争にさらされる業界。
俳優においては、容貌的魅力が仕事と直結するため、仕事関係者に美貌をアピールする必要性が生じることも多々あるだろう。
そのような中で、同時に性的な視線から自分の身を守らなくてはならない。
さらに、社会にいくらでも便宜を図れるほどの権力者と、後ろ盾のない個人という社会的パワーと経済の格差。
それら全てが合わさって起こっている。
権力と金で次第で隠蔽できるアンフェアなシステムの上に、権力者の犯罪が支えられている。根本的な問題はそこにある。
ただし、この作品はついに告発したメディアを正義として描くだけで、それまで長きに渡って、ハーヴェイの所業を知っていたのに、被害者の訴えがあったのに、記事化しないで沈黙してきたメディア業界の罪についてはほとんど触れられていない。
メディアもハーヴェイの犯罪にめちゃめちゃ加担してきたのだ。
自省って本当に難しい、、、。
正直、そこにはかなりのもやもやが残ったし、そこに踏み込まずに本当の解決はないだろうとも思う。
アメリカだけではない。
日本だって、伊藤詩織さんの事件が象徴的だが、民事で何度も有罪と判決が下された人物が、元首相に近い人物であったゆえに、直前で逮捕されず、不起訴になっている。
日本にも同じ構造があるのは明らか。
ミソジニーは、ジェンダー感覚で説明できる問題ではなく、社会構造の問題。
小さな個人にとっては、誰もが対岸の火事ではなく、ほんとうに明日は我が身なのだ。