みずうみ2023

暮らしの中で出会った言葉や考えの記録

自分ごととして考える、言葉を正確に使うこと

この数日、特に心に残った二つの語りについて。

ひとつは、ロシア軍事の専門家、小泉悠さんがウクライナ戦争について語ったこのインタビュー。

私は1人の人間として、また1人の子供を持つ親として見た場合に「やっぱりこんなことするロシアは許せん」という気持ちがまず先に立ちます。

子どもを育てる中で生まれた視点かもしれませんが、ロシアにも言い分があることは分かるし、軍事戦略や地政学的に思惑があることは分かる。

しかし、「今ウクライナでやってるようなことをやる権利は、あなた方には絶対ないですよ」と。

この超大国の秩序構想に同調する人は、無意識のうちに「日本は超大国だ」という前提で話している気がするんですよ。

戦前の大日本帝国のときのように、世界ビッグ5の中に日本が入っているという前提で物を言ってる気がするんですね。

でも実際の日本の立場は、どちらかというとウクライナに近いんです。

もしロシアのウクライナ侵略が成功して、国際社会がウクライナを見捨てた場合には、日本だって同じことが起こりうるということです。

「それで本当にいいんですか?」と思うんです。

 

もう一つは、2日放映の100分de名著「フェミニズム論」での、社会学者上間陽子さんの言葉。

私はやっぱり、身体を使って起きることっていうのは、甘く見ないほうがいいとずっと思っています。

セックスワークをしている子たちに話を聞かせてもらって、短期間であったら「それは自由意志であった」という語りが出てくることもあるんですね。

でも、5年、7年、10年ってなっていった時に、語り直されることってあるんですね。

その時に身体を拠点にして引き受けたことっていうのは、違う語り口にやっぱりなっていくんですね。

なので、そういうことについてはやっぱり邪険にはできないし、「他人の身体を使って自分の自由を実現する」っていうことに対する怯えっていうのは、やはり捨てることはできないのではないかと思います。

 

どちらにも共通するのは、彼らが「一人ひとりの人間」という目線からあらゆる物事の意味を考え、その是非を問うているということ。

そして、言葉をごまかしなく注意深く使っていることだ。

そこには、当事者性と言葉のもつ印象やイメージによって事実の姿を見失わないという決意を伴う基本的態度がある。

こういう人たちの言葉は、重い。

 

もちろん、人はあらゆることの当事者になることはできない。

けれど、「もしこれが自分や自分の家族の身の上に実際に起こったことならば」と想像することはできる。

つらい、厳しい、困っている、と訴える人々から、目を背けるのではなく、その人の訴えに黙って耳を傾けることはできる。

明日は我が身で、いつでも私だって同じような不幸に見舞われることが起こりうるのだ」という姿勢で接すること以外に、他人に対してできることはない。

 

今、この国の平和が脅かされていて、人権が蹂躙されている人たちがいて、貧困に苦しんでいる人たちがいる。それらを話題にした私に、ある人が

「私はそういうことには意識を向けないようにしているの。」と言った。

 

それも一つの見識なのだろう。

そんな不吉なことを考えるな、縁起でもない。日本には昔からそういう考え方がある。

でも、耳を塞ぎ、目を塞ぎ、怒らず、知ろうともせず、全部誰かに任せっきりで、今、「新たな戦前」を迎えているのだなあとは思う。

 

さて、お迎えの時間までひと休みしよう。

 

 

新年考 料理について

末っ子のウイルス性腸炎を移され、ようやく治ったほっとしたと思ったら、立て続けに夫からコロナを移されるという、泣きっ面に蜂みたいな年末年始である。

今回ばかりは、よほど日頃の行いが悪いのかもしれないと真剣に悩んだ。

我が家の病気の波はクリスマスイブから始まって、今日は1/5だから、なんと、もう2週間近くみんなして順繰りにふせっているのか。

 

けれど考えてみると、義実家にも行かず、幼児の世話は家人に丸投げしてただこんこんと眠り、目覚めてもろくに立ち上がれないのでベッドの中でだらだらと本を読んだり、古い映画を見たりして、こんな「贅沢な正月休み」は結婚して以来なかった!とも言える。

料理も完全に放棄した。ひたすらぬくぬくごろごろと過ごすなんて、コロナに罹らなければあり得ないことだ。

飽きるほど何もせずに休んだのは、まじで20年ぶりとかかもしれない。

それにしても、ここまでならないと休むことが許されないと思う、この心とはなんなんだろうな。

 

私が稼働していないと、我が家のQOLが一気に下降することも実感した。

主婦って存在もやってることも平凡で当たり前。だから、ここまで主婦が家族の生活の質を決定づける存在だとは自分自身なかなか実感できない。

でも、こうしてまともな食べ物に何日もありつけないということが起こると、日々の食卓を整えることは、ささやかだけど偉大なことなんだと痛感する。

 

これまで自分は家族のために食事をこしらえている、という気持ちで日々料理に接してきたが、自分自身を生かすためにも料理を作ってきたという当たり前のことに、今頃になってようやく気付きもした。

私はこれまで家庭の料理を担うことについて、当然で、無休で、無給で、多くの時間を奪われ、ほとんどリアクションも得られないといったことについて、もちろん他の主婦の方々と同じように、日常の中で淡々と受け止め、あんまり考え詰めないようにしてきたわけだが、心の底では自分で思うより不本意で辛かったと思う。

自分がそう思うことを不当だとは思わないけれど、そこから生まれる恩着せがましい思いは純粋に不毛だ。

2023年は、ひとつ「自分の身体と楽しみのために料理を作る」という意識を持ってみようと思う。

 

今回びっくりしたのは、夫がこの究極の状況になってもほとんど食べ物をこしらえることをしないで、あくまで買って済ませ続けてきたということ。家にはいろんな食材があったにも関わらず。

1週間以上、コンビニやスーパーの揚げ物とかテイクアウトなどが続いたら、普通心底嫌になりそうなものだけれど、彼は別段平気みたいなのだ。

そうだった、この人は母親が一切料理をせず、父親の買ってきたものを食べて育った家の子供だった、ということを思い出す。

一緒に暮らし始めて20年経つけれど、やはり人は色々違うんだよなあ、当たり前のことだけど、と思う。

 

私の人生は私がこの先老いたり病んだりして料理ができなくなってしまったと同時に、今ある食生活の豊かさは失われるのだ・・・ということを、今回リアルにはっきり認識した。

その時まではなるたけ元気で滋養のある料理を日々作って行こう、と思う。

そして、作ろうと思えば自分でも作れるが自分では一切料理をしないっていうのは、勿体無いというか、やっぱり人間生きていく上で片手落ちなものじゃないかしら、と思った。

稲垣えみ子さんも著書で書いていたが、料理をするスキルがあるということは、生きる基本技術を手にするということ。料理をせず誰かにまるっとやってもらうのは、実はラッキーでもなんでもない。生きる技術を他者に委ねているということに他ならない。

 

とはいえ、誰もが生きるために食べていく必要があるけれど、ある種の人は料理に楽しみや喜びを見出し、ある種の人はいつまでも苦手意識を持つ。

どうせなら、できるだけ料理と良い関係を築いてゆけたらハッピーだ。

私の場合、決まりごとだらけの「和食の教科書」みたいな本を、若い頃読まなきゃ良かったなー!という後悔がある。

もちろん必要としている人はたくさんいるし、正論なんですけどね、辰巳芳子さんとか。

でも、私は全然真に受けなくていいやつだったと思う。

主婦たるもの、完璧な出汁を取らなくては、という呪いとか。

料理を必要以上に難しく考えたり、自分なんてだめだめだ、自分は料理が下手なのだ、って思い込んだりした分、個人的には害の方が大きかった。

自分なんてへたくそだ、今日もうまくできなかったって落ち込むんではなく、変な実験料理を自由に楽しく作ってハッピーな方がよほど良かった。

土井先生の「一汁一菜」の考えなどと先に出会っていたら、だいぶ苦手意識も違ったろう。

 

年末に、本格的なフランス菓子のレシピでお菓子作りをした時に、できたお菓子を食べた娘氏が、美味しすぎて負担感がある、と言っていた。

そんな毎日がご馳走である必要はないよね、と娘氏はよく言う。

美味しすぎるもの、リッチすぎるものを毎日食べたくない。

その感覚も、料理を作って行く上では大事なポイントだなと思う。

夫とはそこの感覚がなかなか共有できない。

 

これまで、男二人に濃い味のファミレスぽいご馳走メニューみたいなもの(ハンバーグ、ビーフシチュー、グラタンなど)を頻繁に求められるままに作ってきて、それは自分の身体には必ずしも合っていなかった。

息子氏も家を出ていなくなったことだし、夫も年だし、今年は、もうちょっと身体に負担のない食事を中心に回していきたい。

美味しすぎない、体が喜ぶものを、落ち着いて調理していただく。適度にサボって自分に優しくしながら。

できるだけ身体感覚を生き生きとさせた状態で暮らしたい。

「"Sr." ロバート・ダウニー・シニアの生涯」

ロバート・ダウニー・Jr.も出演、ロバート・ダウニー・シニア ...

2022年アメリカ/原題:Sr./監督:クリス・スミス/90分/2022年12/2〜配信

ロバート・ダウニー・Jr.は好きな俳優。すごく上手い人なのに、技量を堪能できるような作品にあんまり出なくて、もったいないことだと常々思っている。

それでもあのこじらせぶりを含めた存在感はやっぱりチャーミングで、彼のインタビューなどを見つけると、ついいそいそと見入ってしまう。

この父子のドキュメンタリーもすごく楽しみに見た。

シニアの作品は見たことないけど、独特で個性の強い作品をいくつも作った変わり者の映画監督であることは知っていた。

 

シニアは、最初おじいさんだからこんなに泰然としているのかと思ったが、昔の映像を見ても若い頃から超然とした人だった。

誰にどう思われるとか、売れる売れないとかに頓着せず、「面白いじゃん」だけでどんどん突き進む。自由で、超個性的。モラルの感覚もどこかぶっ壊れている。

いきがったり鬼才ぶったりとか一切ないのに、やばいくらいにロックな人である。

この父親は、息子にとってはたまらない存在だろうなと思う。

あまりに格好良すぎて、あまりに唯一無二すぎて、近づけないし超えられないってなるだろう。

ポール・トーマス・アンダーソンがシニアにかけねなしのリスペクト(というか普通に大ファン)を捧げているさまにもにっこりしたが、それにもJr.はひがんで「父は息子がPTAだったらと思っていたに違いない」と言っていた。

 

ロバート・ダウニー・Jr.は、映画の現場でパパと一緒にいられるから、たまたま才能もあって、パパや大人たちに褒められるのが嬉しくて、子役として映画の世界に入り、そのまま俳優人生になった。

彼の、成功や名誉みたいなものに頓着しない独特の飄々とした雰囲気、すごく容貌にも才能にも恵まれているのにどこか自分を低く見てるようなあの雰囲気が、この映画を見てると少し分かるような気がした。

これは、息子から父へのラブレターみたいな映画。

 

「アレンvsファロー」

2021年アメリカ/原題:Allen v. Farrow/監督:カーヴィ・ディック、エイミー・ジーリンング/全4エピソード各話56〜73分

 

新年早々大変なものを見てしまい、いささかぐったりしている。

ウディサイドが誰も取材に応じなかったので、いわゆる「中立的」な視点を持つとは確かに言い難いけれど、それでも長年のウディファンを自認する人が見ても考えを改める他ない、有無を言わさぬ内容だった。

「ミアがスン・イーとウディの関係に嫉妬して、子供たちを洗脳して幼児虐待があったと告発をさせた」というウディ側のメッセージを、ちゃんと第一次情報にもあたらずに、私はなんとなく信じてきた。

ろくにちゃんと知ろうとしてこなかった。それは、加害に加担してきたこととおんなじだ。

人は知ろうとしなかったものとは無関係でいられます。

見ること、知ることを他者から強要されると気が滅入って絶望するし、居心地が悪いものです。

そこから逃げて、元いた場所に戻る方が楽です。(雑誌記者)

人間は信じたいことを信じる生き物で、いい加減なものだ。

自分がひどく不確かなものだということをいつも忘れてはいけないんだと思う。

 

ミアは嫉妬に狂った哀れな老女なんかではなかった。

彼女は完璧ではないのかもしれない。

でも、自分のことは二の次に置いて、子供たちのことを第一に考えるという心映えにおいては毅然として一点の曇りもなかった。

彼女は芯のある頼り甲斐のあるお母さんで、地に足つけてしっかり生きている、後ろ暗いところなど何もないただのちゃんとした人だった。

ラストのミアとディランの言葉少ななやりとりの中に、互いへの深い愛情と思いやりの心が溢れていて、涙が出た。

 

ミアは、ただ賑やかな大家族のお母さんになりたかっただけだった。

それなのに自分のパートナーが小児性愛者であることに気付けなかったために、他ならぬ娘が性暴力にさらされることになった。

刑事訴追を逃れるために親権の裁判まで起こされ、家族はずたずたにされ、長期間中傷にさらされ、アメリカ国内での女優の仕事を干された。

分からない。ただ怖いのです。あの人が怖い。

真実に対して忠実であろうとしない人は、何でもします。

何でもする人は、恐ろしい人です。(ミア・ファロー

どう考えてもアンフェアで、不当なことだと思う。

 

けれどウディには、ミアと子供たちが長い時間をかけて築いてきた暮らしと家族としての結びつきまで奪うことはできない。

そして、ウディがどれだけ彼女の仕事の機会を奪おうとも、ミアはキャリアとかお金とかの前に、子どもたちとの落ち着いた暮らしを守るのが第一で、子どもらに対して恥ずかしくない人であろうと心に決めているので、清々しい。

大変な時期もあったけど、ミアは温かな血の通ったファミリーを築き、けして不幸ではない。

普通にちゃんと生きてるって、すごく強いことなんだ。

 

今後、ウディ・アレンの映画をまた見ることができるだろうか、自分でもよく分からない。

小児性愛も、ミアへのモラハラもあまりに人格を疑う内容だったから。

でも、最も分からないのは、どうしてあんなにも粋で人間の心の機微を描く映画を作ることのできる人が、幼い者や弱い立場にある者に対して、欲望のままに力でねじふせ、どれだけ傷つけようが顧みずに平気でいられるんだろう?どうしてそんなひどい行いを続けながら、人の心を動かす物語を書き続けることができたんだろう?ということだ。

純粋に分からない。

 

#me too以降、映画人の告発は枚挙にいとまがない。

人は皆完璧ではないし、作り手が清廉潔癖であることを求めているわけではないけれど、ウディのケースのように、普通に犯罪レベルな話も多すぎて、作り手と映画とをそれぞれどう考えればいいのか。とても答えが出ない。

 

いずれにしても、大きく茂る木が地中に同じくらい根を張り巡らせているように、目に見える芸術が創造力に富んだものであればあるほど、その作り手が抱える心の闇や欠落もおそらくまた大きいのだろう、ということは、一つの避けがたい前提なのかもしれない。

世界を言祝ぐ言葉を紡ぐ

みんな病気で動けなかったので、家事をすることもできず、本当に久しぶりにぼへーっと途中から最後まで紅白歌合戦を見る大晦日になった。

「このがんばってなんとか盛り上げようとしてなかなか盛り上がれない感じが一周回って年末感ある」と娘氏。

個人的には、けん玉チャレンジの三山ひろしはかなりの年末感を感じさせてくれたと思う。あの最後の決め顔の福々しさと安定感は縁起物レベルだった。

藤井風の規格外感。一瞬にしてワールドに連れていかれる。スターの世界は気苦労が多そうだけど、これからも軽やかな存在であって欲しい。

 

そして今年も星野源が良かった。朗らかに、淡々と、自分の持ち場を全うし、丁寧に歌を届けようという姿勢。

衰えぬ才能の持ち主だなと感心するばかりだけど、「喜劇」も名曲だなあ。リラックスしたメロウさのある明るみ。昨年何度もよく聴いた。

最高にベタな紅白という場所から、この歌詞に歌を乗せて全国津々浦々のお茶の間に届けることの素敵さにじーんと胸がしびれた。

ある種の人々が言葉を軽んじ、壊し、台無しにする一方で、一見平凡にも思える易しい言葉を、詩と歌の力で輝かせる人がいる。

閉じて鈍くなっている心をもこじ開ける魅力を持つ言葉の力で、世界を言祝ぐ、そういう言葉を自分も紡いでいこう。源さんを見習って。

というのを今年の目標の一つにしようと考えた2022年の大晦日であった。

言霊ってやはり確かにあるし、言葉は鏡だ。発した言葉は自分自身に深く影響を及ぼす。

言葉は誰もが使える魔法であり呪いなんだとしたら、どうせなら善き魔法を使っていきたい。

 

争い合って壊れかかったこのお茶目な星で 生まれ落ちた日からよそ者

涙枯れ果てた 帰りゆく場所は夢の中

こぼれ落ちた先で出会った ただ秘密を抱え普通のふりをしたあなたと

探し諦めた 私の居場所は作るものだった

 

あの日交わした 血に勝るもの 心からの契約を

手を繋ぎ帰ろうか 今日は何食べようか

「こんなことがあった」って君と話したかったんだ

いつの日も 君となら喜劇よ

踊る軋むベッドで 笑い転げたままで ふざけた生活は続くさ

 

劣ってると言われ育った このいかれた星で 普通のふりをして気づいた

誰が決めつけた 私の光はただ此処にあった 

あの日ほどけた淡い呪いに心からのさよならを

 

顔上げて帰ろうか 咲き誇る花々 

「こんな綺麗なんだ」って君と話したかったんだ

どんな日も 君といる奇跡を 命繋ぐキッチンで伝えきれないままで 

ふざけた生活は続く

 

永遠を探そうか できるだけ暮らそうか 

どんなことがあったって君と話したかったんだ 

いつまでも君となら喜劇よ

分かち合えた日々に 笑い転げた先に ふざけた生活は続くさ

(「喜劇」作詞・作曲:星野源