この数日、特に心に残った二つの語りについて。
ひとつは、ロシア軍事の専門家、小泉悠さんがウクライナ戦争について語ったこのインタビュー。
私は1人の人間として、また1人の子供を持つ親として見た場合に「やっぱりこんなことするロシアは許せん」という気持ちがまず先に立ちます。
子どもを育てる中で生まれた視点かもしれませんが、ロシアにも言い分があることは分かるし、軍事戦略や地政学的に思惑があることは分かる。
しかし、「今ウクライナでやってるようなことをやる権利は、あなた方には絶対ないですよ」と。
この超大国の秩序構想に同調する人は、無意識のうちに「日本は超大国だ」という前提で話している気がするんですよ。
戦前の大日本帝国のときのように、世界ビッグ5の中に日本が入っているという前提で物を言ってる気がするんですね。
でも実際の日本の立場は、どちらかというとウクライナに近いんです。
もしロシアのウクライナ侵略が成功して、国際社会がウクライナを見捨てた場合には、日本だって同じことが起こりうるということです。
「それで本当にいいんですか?」と思うんです。
もう一つは、2日放映の100分de名著「フェミニズム論」での、社会学者上間陽子さんの言葉。
私はやっぱり、身体を使って起きることっていうのは、甘く見ないほうがいいとずっと思っています。
セックスワークをしている子たちに話を聞かせてもらって、短期間であったら「それは自由意志であった」という語りが出てくることもあるんですね。
でも、5年、7年、10年ってなっていった時に、語り直されることってあるんですね。
その時に身体を拠点にして引き受けたことっていうのは、違う語り口にやっぱりなっていくんですね。
なので、そういうことについてはやっぱり邪険にはできないし、「他人の身体を使って自分の自由を実現する」っていうことに対する怯えっていうのは、やはり捨てることはできないのではないかと思います。
どちらにも共通するのは、彼らが「一人ひとりの人間」という目線からあらゆる物事の意味を考え、その是非を問うているということ。
そして、言葉をごまかしなく注意深く使っていることだ。
そこには、当事者性と言葉のもつ印象やイメージによって事実の姿を見失わないという決意を伴う基本的態度がある。
こういう人たちの言葉は、重い。
もちろん、人はあらゆることの当事者になることはできない。
けれど、「もしこれが自分や自分の家族の身の上に実際に起こったことならば」と想像することはできる。
つらい、厳しい、困っている、と訴える人々から、目を背けるのではなく、その人の訴えに黙って耳を傾けることはできる。
「明日は我が身で、いつでも私だって同じような不幸に見舞われることが起こりうるのだ」という姿勢で接すること以外に、他人に対してできることはない。
今、この国の平和が脅かされていて、人権が蹂躙されている人たちがいて、貧困に苦しんでいる人たちがいる。それらを話題にした私に、ある人が
「私はそういうことには意識を向けないようにしているの。」と言った。
それも一つの見識なのだろう。
そんな不吉なことを考えるな、縁起でもない。日本には昔からそういう考え方がある。
でも、耳を塞ぎ、目を塞ぎ、怒らず、知ろうともせず、全部誰かに任せっきりで、今、「新たな戦前」を迎えているのだなあとは思う。
さて、お迎えの時間までひと休みしよう。