みずうみ2023

暮らしの中で出会った言葉や考えの記録

「アレンvsファロー」

2021年アメリカ/原題:Allen v. Farrow/監督:カーヴィ・ディック、エイミー・ジーリンング/全4エピソード各話56〜73分

 

新年早々大変なものを見てしまい、いささかぐったりしている。

ウディサイドが誰も取材に応じなかったので、いわゆる「中立的」な視点を持つとは確かに言い難いけれど、それでも長年のウディファンを自認する人が見ても考えを改める他ない、有無を言わさぬ内容だった。

「ミアがスン・イーとウディの関係に嫉妬して、子供たちを洗脳して幼児虐待があったと告発をさせた」というウディ側のメッセージを、ちゃんと第一次情報にもあたらずに、私はなんとなく信じてきた。

ろくにちゃんと知ろうとしてこなかった。それは、加害に加担してきたこととおんなじだ。

人は知ろうとしなかったものとは無関係でいられます。

見ること、知ることを他者から強要されると気が滅入って絶望するし、居心地が悪いものです。

そこから逃げて、元いた場所に戻る方が楽です。(雑誌記者)

人間は信じたいことを信じる生き物で、いい加減なものだ。

自分がひどく不確かなものだということをいつも忘れてはいけないんだと思う。

 

ミアは嫉妬に狂った哀れな老女なんかではなかった。

彼女は完璧ではないのかもしれない。

でも、自分のことは二の次に置いて、子供たちのことを第一に考えるという心映えにおいては毅然として一点の曇りもなかった。

彼女は芯のある頼り甲斐のあるお母さんで、地に足つけてしっかり生きている、後ろ暗いところなど何もないただのちゃんとした人だった。

ラストのミアとディランの言葉少ななやりとりの中に、互いへの深い愛情と思いやりの心が溢れていて、涙が出た。

 

ミアは、ただ賑やかな大家族のお母さんになりたかっただけだった。

それなのに自分のパートナーが小児性愛者であることに気付けなかったために、他ならぬ娘が性暴力にさらされることになった。

刑事訴追を逃れるために親権の裁判まで起こされ、家族はずたずたにされ、長期間中傷にさらされ、アメリカ国内での女優の仕事を干された。

分からない。ただ怖いのです。あの人が怖い。

真実に対して忠実であろうとしない人は、何でもします。

何でもする人は、恐ろしい人です。(ミア・ファロー

どう考えてもアンフェアで、不当なことだと思う。

 

けれどウディには、ミアと子供たちが長い時間をかけて築いてきた暮らしと家族としての結びつきまで奪うことはできない。

そして、ウディがどれだけ彼女の仕事の機会を奪おうとも、ミアはキャリアとかお金とかの前に、子どもたちとの落ち着いた暮らしを守るのが第一で、子どもらに対して恥ずかしくない人であろうと心に決めているので、清々しい。

大変な時期もあったけど、ミアは温かな血の通ったファミリーを築き、けして不幸ではない。

普通にちゃんと生きてるって、すごく強いことなんだ。

 

今後、ウディ・アレンの映画をまた見ることができるだろうか、自分でもよく分からない。

小児性愛も、ミアへのモラハラもあまりに人格を疑う内容だったから。

でも、最も分からないのは、どうしてあんなにも粋で人間の心の機微を描く映画を作ることのできる人が、幼い者や弱い立場にある者に対して、欲望のままに力でねじふせ、どれだけ傷つけようが顧みずに平気でいられるんだろう?どうしてそんなひどい行いを続けながら、人の心を動かす物語を書き続けることができたんだろう?ということだ。

純粋に分からない。

 

#me too以降、映画人の告発は枚挙にいとまがない。

人は皆完璧ではないし、作り手が清廉潔癖であることを求めているわけではないけれど、ウディのケースのように、普通に犯罪レベルな話も多すぎて、作り手と映画とをそれぞれどう考えればいいのか。とても答えが出ない。

 

いずれにしても、大きく茂る木が地中に同じくらい根を張り巡らせているように、目に見える芸術が創造力に富んだものであればあるほど、その作り手が抱える心の闇や欠落もおそらくまた大きいのだろう、ということは、一つの避けがたい前提なのかもしれない。