こないだ元不登校の当事者に話を聞くテレビドキュメンタリーを家族で見ていたら、ある女の子がこんなことを話していた。
「学校なんて行かなくても全然大丈夫だよ」っていう人、多いじゃん。
そんなことなくね?って思ってたから。
高校を卒業する年齢になった時に、何にもしてなくて、急に大学行きたいって思っても、それなりに勉強しないと無理でしょ。
決める時になってから「やっとけば良かった」って思うのは、一番かわいそうで残酷なことだと思うから。
「やりたいことだけやってればいい」っていうのは、あぶないねぇ〜と思いながら。
好きなことをやるためには、嫌いなこともやらなければいけないってことに気付いたの。
その子は、小学校中学年から不登校になり、中学卒業までは不登校で通し、大学進学を見据えて通信制高校に通い始めたという。
彼女の言っていること、もちろん分かる。
なんのかんの言ってもリアルワールドは「そういうこと」になっているよね、って思う部分はある。
一方で、どこかで聞いてきたような、一見もっともらしい言葉に胸がざわざわした。
この違和感、なんなんだろうって投げかけた対話の中での、娘氏の言葉。
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【誰の人生も残酷なんだ】
何だろう・・・。幸せになろうとか、生きたいように生きようとかではなく、何かに駆り立てられるようにしてどこかへ行こうとしているようなムードが、画面の中の子供たちになんとなく漂っている。
誰の人生も残酷だよね。
だから誰の人生においても、その人のやってきたことを「それはそれだよね」と否定しないでおける段階が重要だと思っている。
例えば、私が今までこれを「してこなかった」、こういう人と「出会わなかった」、あるいは何かを「しておけば良かった」、というようなこと。
基本的に私は「しておけば良かった」とは全然思わない。
だって、できなかったから。
自分は常にどこかでは精一杯だった。
それなりに生きてきた。
そのことに対して「しておけばよかった」という言葉は出てこない。
だた、この人が言うような不安はよく理解できる。
大概学校行かなくても大丈夫だよとか言うのは、大学へ行ったような人たちだったりするから、よく知りもせずに適当なことを言うな、と彼女は言いたいんだろうと思う。
大丈夫とか言っておいて、いざ社会に出たら自分でなんとかしろって感じじゃない、って。
でも私は、今はそこを過ぎたような感じがある。
そんなに学校行ってる行ってないでこの人生変わるか?って気持ちになってきて。
不安がなくなったということではなくて、漠然とした「大学に行けない」みたいな感じがなくなった。
行きたい場所に行けば、いずれ会いたい人に会えるって思っている。
人は別に大学だけにいるわけじゃない。
この女の子は、まだ生きるっていうことと直結してないんだと思う。
大学に行けない自分はやばい。
就活をしない自分はやばい。
漠然としてて、自分が日々を生きるこれからを生きるってことがどういうことなのかという手触りが全然ない。
だけどただただ「それは大変にやばいことである」とは感じている。
私も、もっと大きなものに対する不安はある。
色んなところで戦争が起こっていることとか、憲法が変えられようとしていることとか、社会福祉がどんどん薄くなり、失われ続けていることとか。
そういう、「自分がこれから生きていけるんだろうか」という不安はある。
でも、多分それって誰でも持ってるというか、自分だけじゃ全然ないなと思う。
そういうちょっと大きいところに行った。
大学に行けないから不安、みたいなことではないというか。
抱樸のインタビュー記事を読んでいても、この人こんだけ頑張って生きてきたのに、出来事一つで家がなくなって、それからずっと家ない、どうしようもない。
この人も大卒だけどずっと非正規で働いてきて、ついに切られて、首が回らなくなる。
そういう話がいっぱいある。
それって学校に行ってるとか行ってないとか関係なくて。
誰の人生にも残酷はあるじゃん。
家族が死んだり、病んだり、誰の人生にも起こること。
どんなに備えようとしたって無理なんだよ。
東日本大震災で人生が変わった人だっていっぱいいたじゃない。
インタビューの方に違和感を感じるのは、大学に行ってる行ってないに関係なく、生きるのはそれほどにしんどいことではある、ということ。
学歴とか関係なく、誰にとってもしんどい。
私は、学校に行っていようが行ってなかろうが、それなりに苦しんでた。どっちにしても。
それよりも、今の自分が何かを感じて生きていられていること、学校に行っていたら出会えなかった人に出会えたということ、そのことを良かったね、と思う。
【嫌いなことをやらないと好きなことができないって本当か?】
私はすごく違和感なんだよね。
「嫌いなことをやらないと好きなことができない」とか、そういう言い方がすごく納得できない。
うーん、何が納得できないんだろう?わかんないんだけど。
多分、もっともらしく聞こえるけど、「どこかの誰かの言葉」で、なんか、すごく、うざい。
しんどいこともある。それでも好きなことをやる。そういうのならまだ納得ができる。
嫌いなことをやらないと好きなことができないみたいなことじゃなくて。
番組の中で「普通になりたい」って言ってた中学生の男の子を見てても、十代は脆弱な時期だと思う。
そうは言ってもみんな子供。
自立して生きていけるのかと問われたらぐうの音も出ない。
そんな時期に、あたかも正しいことのように風当たりの強い言葉がSNSで飛び交っている。
その中で、それぞれの人が自分の真実をぎゅっと突き詰めていく。
だから不登校の一つの問題は、家庭だけになってしまう、ということだと私は思ってる。
親だけが子供の人生に責任を負うのは荷が重すぎる。分散されるべき。
いろんな人と関わって、いろんな人を見て。
不登校になると、親としか話さないことが長期間が続く。
学校が、勉強がっていうより、そういうことの方が問題だと思う。
関わる人、触れる価値観がそこまで限定されてしまうということ。
その状況でスマホが登場して、YouTuberやら誰かのいろんな言葉を鵜呑みにしていく。
自分にとって不快や違和感を持ち込む人は、どんどん排除する。
そのようにして、どこにも身動きが取れなくなってしまうというのが、不登校の問題の一つだと思う。
【経済的な余裕がなければ教育が受けられないということ】
N高、行っておけば良かったなって思うのは、とはいえ、あれだけの高い学費を払っていたということ。
本当は、教育っていうのは経済的な事情に関わらず与えられるべきもので、その時点でものすごくずれている。
N高って、すごい課金制じゃん。
払えば払うほどサービスが充実していくっていう。
ゲーム方式なわけ。
そこがまずあまりにでかい。
どんなにいい場所で、どんなに素敵な人に巡り逢えて、どんなに楽しかったとしても、それはある程度経済的な余裕がある人しか実現しないことなんだよ。
それはものすごく指摘されなければならないことだと思う。
教育が幅寄せされていく、限定されていくってことは、あってはならない。
私たちは学ぶってことを手放したくて学校に行かなくなったわけじゃない。
学びたくなかったわけではない。
なぜ学ぶ意欲のある人たちが、学ぶための場所であるはずの学校を放棄しようとしているのか?
本質はそこにあると思う。
【富国強兵のための教育】
(夫氏)日本の近代教育の成り立ち自体が「教養を身につけて豊かに幸せに生きる」とかじゃないから。
理想的な建前を謳っていても、企業戦士を生み出すというか、国を豊かにする、役立つ「人材」になれ、という主目的がある。
シンガポールはまさしくそれを厳格にやったわけだよね。
(娘氏)その教育の実際に対して、ものすごく吐き違えている人が多いと思う。
つまり、「教育っていうものはあなたの人生を生き抜くための知識や幸福に生きるためのものを提供してくれる場所なのに、それをあなたがみすみす放棄したんだから、そこで起こってくる問題はあなたが引き受けるのは当然のことだよね」という自己責任論がある。
いや、あなただって相当苦しいでしょ、他人にそんな嫌味を言ってくるくらいなんだから、と思うけど。
むしろ、なぜあなたは苦しいんだと思う?と問いたい。
(夫氏)そうは言っても現実は「そうなっちゃってる」。
教育を本質的にしていく努力はすべきなんだけど、努力しつつも差し当たっての今を生きなきゃいけないというのがあって。
ダメなところばかりにフォーカスするのではなく、いかにうまくできることを朗らかにやっていくか。
怒りに絡めとられるのは簡単なんだ。
そして、こう言ってはなんだけど、ガザではないよ、ここは。
(娘氏)それはいつも思ってる。
自分は多くのものを与えられている。
「私は不幸」ってなりすぎるとき、実際に辛いのは辛いんだけど、今あるものを認識できなくなるがゆえにどんどんうわーってなっていくから。
毎日のお祈りの時は、今自分が何を持っているかという意識に引き戻すようにしている。
別に私は神は信じてないけどね。
【生きようとすることが社会への抵抗であり、社会活動】
最近社会活動をしなくなってみて思うのは、個人が生き抜こうとするっていうこと、それ自体が抵抗だと思う、ということ。
これはおかしいと思うとか、どこそこへ行きたいとか。
生き抜こうとすることそのものが、いろんなおかしいことへの抵抗になると思う。
だから、こういうことやこんなことに対しても言及しなきゃ、とかいうよりは、自分が生きようとするというのが今の私の答え。
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何年前からだろう、娘氏は、毎食ご飯を食べる前に1分間くらい手を合わせてお祈りをする。
外食でもどこでも必ずやるので、知らない人がさりげなく二度見していたりして、ちょっと気恥ずかしかったんだけど、自分が今持っているものを思い出すためにお祈りしているって聞いて、なるほどなーって思った。彼女らしい。
ちなみに親の私たちは、祈ってる娘を横目に普通にご飯をがっついている。
もう、不登校について話すってことからだいぶ遠ざかっていたので、久々に不登校や学校についていろんなことを考えた。
そして、娘氏が興味の赴くままに出かけた先で出会った、本当にいろいろな素敵な人たちとの関わりに改めて感謝した。
こうした出会いに助けられながら、かつてあんなに苦しめられた劣等感や不安や恐怖を少しずつ軽くし、彼女なりに経験値を増やしてきたんだなあ。
特別立派なロールモデルとかじゃなく、学校へ行ってなくて普通に社会の中で楽しそうに生きている一般の人が意外にたくさんいるってことを雑多な出会いの中で知ったこと、それ自体も彼女にとって大いなるエンパワーだったと思う。
映像は、不登校の子供たちの姿を通して、今社会にあるものを浮き彫りにしていた。
何を目指して生きればいいのかを、私たちは見失っている。
80年代にあったような根拠のない楽観は、今はどこにも見当たらない。
そんな中でも私たちはなんとか生きていかなきゃいけない。
「自分のやりたいように生き抜こうとすることそのものが社会活動なんだ」って、高島鈴さんの受け売りではあるが(母は知っている、笑)、とてもいい思想だと思った。
「好きなことをするためには嫌いなことをしなくてはいけない」という資本主義の受け売りよりはずっといい。
資本主義は、人が好きなことだけやっているのは、罪であり、怠惰であり、自分勝手である、とあらゆるコンテンツを使って繰り返し繰り返し刷り込み、人間を労働の奴隷にしてきた。
やりたくないことを引き受けてこそ真っ当な大人だ、地に足ついた生き方だ、なんて呪いを若者たちがどうか真に受けませんように、と思う。
てか、そんな時代はもう、終わりはじめているんじゃないだろうか。
全ての人が自分に正直に、誠実に、幸せに生きようとすることが、社会を1ミリずつ変革していく。
そこにおいては、役に立たない人も不要な人も、誰ひとりいない。
嫌いなこともしなくては〜なんて考えるより、ずっとわくわくするよなあ。