みずうみ2023

暮らしの中で出会った言葉や考えの記録

子育て仲間

娘氏は横浜で柔道教室、夫氏は雪国で仕事。

息子氏はさっきバイト先でのパーティから帰ってきて、これから寝て起きたら世話になった先輩の帰国前のコンサートとのこと。

末っ子は夜中熱を出してぐずって浅い眠りだった。朝には熱も下がって、朝焼いたチーズスコーンを周りを粉だらけにしながらもりもり食べ、昼前にまたこてんと寝てしまった。

ようやく、しばしひとりの時間。

 

保育園のお友達のパパさんから、「昨日一緒に遊んだ公園にまた今日も来てます、良かったら」とラインが来ていたけど、そういう訳でお断りのメッセージを送った。

このところ、毎週末会っている。保育園外での、唯一の末っ子の遊び仲間だ。

 

末っ子が高齢出産だったことと保育園通いのために、なかなか末っ子つながりのお友達ができないままにここまで来た。

上の子が小さい時は、なんだかんだでいろんな人と忙しいくらいに楽しく交流していたので、今回も自然とそういう風になるものかなと思っていたけれど、コロナのことも大きくあったし、そうはならなかった。

周囲のママさんたちと一回り年齢が離れているということは、なるほどわりと壁になるのだなあと実感することもたびたびあった。

上の子たちの時は全然何も意識せずに、幼児を全力で育て中のママの生活をどっぷりやっていたけれど、今はだいぶ違う心境の中にいる。

目下の懸念として、義父の急速な認知症の進行と、同時にがん治療がある。

今は新しい命を育むだけじゃなく、自分たちの親をいかにケアし、どう見送るかということが、精神的、実質的な生活の比重を大きく占めるようになってきてもいる。

今回はそうした状況や、自分の年齢的なことで、マジョリティーのサークルの外にいることを何かと実感する子育てである。

 

そんな中、保育園の帰りに「よかったら週末一緒に遊びませんか?ラインを交換してください」と少し緊張した面持ちで声をかけてくれたのが、末っ子の仲良しの男の子のパパだった。

パパはスペイン人で、ママはルーマニア人。私とはまた違う意味でマジョリティのサークルの外で子育てしている彼ら。

というか、話をしていて、私なんて彼らに比べたら楽なもんだと思う。

上の2歳半の下に5ヶ月の赤ちゃんもいるのだけど、コロナ禍で面会も立ち合いもできない、来日できないので両親のサポートも期待できない中、日本語しか通じない病院で一人で出産し、ここまであんまり知り合いもなく、夫婦ふたりで乗り切ってきた話を聞いて、それは相当な日々だったろうなとため息が出る思いだった。

 

子供を遊ばせながらする世間話は、子育てはもちろん、教育や政治や経済のことなども、自分とはまた違った枠組みに生きる人の話だけに、目からウロコなことが色々あって、面白いなあと思う。

彼らの目には、今の日本の円安不況は、自分たちの国に比べたらまだまだ全然ましだと感じるレベルみたいだ。

環境はもちろん大事だけど、簡単なパラダイスは世界中どこにもなくて、どこに住んでも、そこで一から生活を作り上げていく苦労は同じだなあとも感じる。

 

世の中のニュースは基本、悪いことやトラブルを伝えるものだから、自然と不正や腐敗や不足などを自分の中でクローズアップしてしまいがちで、恵まれていることはあんまり意識できない。

でも、彼らからよその国の話を聞いていると、自分の暮らしの便利で恵まれている部分を改めて気づかせてもらえる。

ニュースや本で見聞きしている彼らの国の話と、地べたのリアルな現実とは、やっぱりだいぶ異なるものだ。

自分の住んでいるエリアで当たり前のように受けられる医療の質や、各種病院のチョイスの多さとかはすごいことなんだよなあ〜とか思う。

 

与えられた環境の中で、できるだけ知恵を絞って楽しくやっていくということだよな、うん。

これからも家族ぐるみで協力しあって、大変な子育ての日々を少しでも楽しいものにしていけたらいいなと思っている。

エゴの取り扱い

まだまだ「イニシェリン島の精霊」のことを何かっちゅうと考えては話している。

やはり私はパードリック+ドミニク味が強めで、夫氏はコルム味が強めなんだろうなあと話していて感じる。

夫婦間には永遠のすれ違いが横たわっている。

なんとかやれるところまではやっていこう、という気持ち。

 

でも最終的には、本当に相手のことを好きで大事にしたいなら、「意味分かんないし、理不尽だし、自分は本当はこうしたいけれど、全部脇に置いてひとまず相手の言う通りにする」という対処になるのだろうなあ、つらくても孤独でも。口で言うのは簡単だけれども。

それができないのは、相手への愛よりも、自己愛、エゴの方がまさっているということだ。

現実をそのままに受け入れることが、一番難しい。

 

哲学者の國分功一郎さんが、彼のとても面白い人生相談本「哲学の先生と人生の話をしよう」の中で、プラトンイデアについてこんな考えを述べている。

プラトンイデア論:この世に実在するあらゆるモノの本質はイデアである。私たちが肉体的・物質的に感じる対象や世界は、あくまで「イデア」の似像にすぎない。つまり、今目の前にある個々の事物はすべて「仮の姿」であるという考えのこと。)

やっぱりイデア界なんてなくて、単に個物が、個人が、一つの現実として存在しているだけなんです。

その現実を見据えている人は、その現実について話ができます。

でもそれを見据えていない人は、自分はどう思うかって話しかできなくなる。

つまり自分の話ばっかりすることになる。

 

でも、どうして目の前の現実を見る、受け入れることができないんでしょうか?

多分その理由は簡単で、その現実がイヤだからだと思うんです。

プラトンも目の前の現実がイヤで受け入れたくなかったんです。

こんなクソみたいなアテナイの現実とかイヤだと思って、現実の外に本当の世界を想定したのだと思います。

そして、そういうことは人間においてはよく起こることなんです。

 

自分は非要約的に物事を見る傾向があるという考えを、しばらく前のブログに綴った。自分の非合理的でおかしな考えも、それはそれとして持っていてもよかろうと思う反面、気をつけなくちゃいけないのは、現実から目を逸らすことだ、自分はどう思うかって話しかできなくなることだ。

それにつけても、コルムもパードリックも目の前の現実を受け入れられないからああなってんだよなー!と思う。

アリストテレスプラトンイデア論を批判したのは、紀元前350年あたりのことだ。

もう2000年以上前に哲学者はこの問題を喝破していたわけで、それで今のこの有様だ。やっぱり人間とはあんまり進歩しない残念な生き物なんだろうなと思わざるを得ない。

 

私もこれからも散々落とし穴に落っこち続けるだろう。その都度何度も思い出しながら、基本はどんだけめんどくさくても、「今回は自分はここの部分引くね、でも別のこういうケースの時は、申し訳ないけど自分のわがまま通させてね」という風に、いちいち気持ちを話し合ってネゴシエイトしていくというのが理想的なのだろう。

そんなこと、めんどくさくてやってられんわ!確かに。

でも、仮にも民主主義者を標榜するなら、やっぱりそこを目指すしかないのだろう。

 

ただ、話し合う前のコンセンサスは不可欠になると思う。

異なる意見を持つ者同士の対話とは、理解と納得をゴールにするのではなくて、そんなのはどうしたって不可能で、どちらかというと利害調整に近い、落としどころを見つけていくための場である、という共通理解が。

対話を、どちらがより正しいかを論争する場だと捉えている人が対話の場に一人でもいた時、安全な場はつくれなくなる。

「どの意見も等価とみなし、相手を変えようとはしない」という姿勢なくしては、収拾はつかない。

そこが一番難しくも肝要なところだ。

 

また、それをいちいち全部にやってる時間はさすがにないので、比較的重要度の低い人々に対しては、「やだな〜」と思ったらどんどん間合いを取って取って、別にそれほどやじゃないかも、と思えるところまで遠ざかるのが、平和的なひとつの方法であると思う。

 

考えれば考えるほど、所詮人間には無理なんだ、と思わざるを得ないし、マーティン・マクドナーだってそう思ってあの作品を作ったのだ。

現実とは、無理なんだ、なるようにしかならんのだ、という絶望。

それを納得した上で、自分がどういう流儀をとるかをじたばたと考えることが、せめても自分にできること。

 

これ以上関わると指を切り落とす…親友から告げられた恐るべき絶縁宣言! | ムビコレ | 映画・エンタメ情報サイト

 

「イニシェリン島の精霊」

ポスター画像

2022年イギリス/原題:The Banshees of Inisherin/監督・脚本:マーティン・マクドナー/114分

 

こんなにすごい物語を書く人がいるのかと感服しながら見た。

アイルランドのど田舎の孤島に住む地味な中年男が、ある日突然長年の付き合いだった友達に嫌われる。

そんな一見卑近な話と思いきや、こんなにも多層的で心を乱される、人間世界の怖さやままならない悲しみを、まるごとぎゅーっと圧縮したような物語だったとは。

自分には、まるで小宇宙みたいに全部が含まれているように感じられた。

謎めいていて、美しく洗練されてもいる。

古びた意味ありげなスノードームを両手のひらに乗せて目の前に差し出すみたいにして見せられたという感じ。圧倒された。

 

こんなに誰かと語り合いたくなる映画もないってくらい、鑑賞後の我が家は盛り上がった。まる二日、何かあると蒸し返すみたいに喋り続けて飽きなかった。

それだけでもうほんとにすごい映画だと思う。

あんだけ長尺だった「アバター ウェイ・オブ・ウォーター」が、感想1分で終わったことを思えば(笑)。

見た人によって感想が全く異なる。

この映画をどう見るかは、その人の人生観みたいなものに結構直結していて、興味深いと同時に怖くもあるほどだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

(以下は思いのままに書いた感想。内容にたくさん言及しています)

マーティン・マクドナーは、前作の「スリー・ビルボーズ」同様、本作も燃えさかる人間のエゴが、人生の全てを台無しにする物語を描いた。

どうにも止めることができない、巨大な人間のエゴの物語。

やるしかないと思い詰めて、もう前後の見境も何も無くなって、全てを焼き尽くす。

全てが終わってからぽかんと我に返る。

後に残るは不毛の地。

そして一抹の納得感と、自省の念。

そんな人間の愚かしさを今回も存分に見せつけられたという感じ。

 

コルムについて。

知的で、ものを考える人間にとって、その傾向が深まるほどにエゴは避け難く増大していく。

人間は、何かをせずにはいられない生き物だし、エゴは、無意味に耐えられない。

そして、退屈は一見無害で平和なように見せて、人を殺すほどに蝕む恐ろしいものである。

 

コルムは、自分の人生が不本意である理由の一つを、パードリックのせいと考える。

パードリックと付き合うことで、自分は満足のいく表現ができず、何者にもなれず、いたずらに自分の人生の時間を浪費するのだと彼は言う。

パードリックを自らの人生から追いやることで、自分の人生はもっと充実するのだと。

論理的にものを考える人は、自分の現実が気に入らない時、不幸を探して集め出す。

時に、その矛先はそばにいる誰かに向けられる。そのようにして原因を体よく外部化する。

もちろん、誰かから命に関わる、度をこした加害を受けている場合は全く別の話。

けれど、そうではないコルムを含む多くの場合において、問題の本当の要因ややってきたことのツケも責任を自分の中には見ないで、自分は本当はこんなもんじゃない、本当はもっとやれるし、もっと才能がある、それを不当に誰かに奪われたって思っているのは、自己中心的で人として見苦しい態度に思える。

そのようにして、不幸の原因にされた側は、とても傷つくし、自分の何が悪かったのかと悶々と悩むことを避けられないのだから。

 

パードリックについて。

ある日突然、自分の親しく付き合ってきた友に「お前が我慢ならない。もう自分に関わるな」と言われることは、一見よくある人生のトラブルみたいなんだけれど、人生の地獄のうちでもかなり高ランクに入るきついことじゃないかと思う。

相手に対して何かやらかしてしまったのなら、それはそれで受け入れられる。

しかし、パードリックは何か間違った言動をした訳でもない。ただ普通に生きている自分自身を突然全否定される。

お前は退屈でつまらない人間だ、お前と関わるのは人生を浪費することだ、と。

 

そのように言われてたところで、パブが一軒しかないような小さな島ではしじゅう顔をつき合わせることを避けられない。

相手の姿を目に入れながら無視して生活し続けるって、相当なストレスだ。

むしろいつも相手のことを強く意識せざるを得ないだろう。

だからもちろん、コルムの振舞いは、パードリックにとってはとても身勝手で残酷なものだ。

 

一方で、コルムがこれほどの憤懣をパードリックにぶつけるには、相当積もり積もったものがあるはずで。

「それまでの日々」は作品には全く描かれていないので、想像するしかないけれど。

パードリックは自分の善良さを全く疑うということがない。

ただ自分がナイスであれば問題ないと考えている。

相手に迷惑だと言われてもその現実をそのままに受け入れることができず、構わないでくれと懇願する相手にしつこく絡み続ける。

 

そこでコルムは、これ以上自分につきまとうなら自分の指を切り落とす、楽器を弾く大事な指を、お前のせいで俺は失う、と宣言する。

ここまでいくと、コルムのエゴと倒錯的な狂気を感じないわけにはいかなくて、そこまで徹底して自分の不幸をパードリックに外部化するコルムには怒りを感じる。

けれど、相手がそこまで嫌がっているのに、自分を変えようとしない、相手への執着を当然のようにやめないパードリックの自覚のなさも、それはそれでエゴとしか言いようがなく、狂気じみた薄気味悪さをはらんでいる。

自分が正しい、無垢であると信じている人が、相手が何を望んでいるかを全く考慮しないで自分の親切を押し付けることの加害性が非常によく描かれている。

「良い人」の悪気のない善意が、時にこれほどの暴力性を帯びる。

 

また、パードリックは、もういい歳の中年男だが、自分で自分の生活を立てられなくて、聡明な妹シボーンに身の回りの世話を焼いてもらっている。

妹にも優しい良い兄だが、自分が彼女の人生の自由を奪っていることを、想像もしていない。まるで当然のことみたいに受け入れている。

良い人であるということに安心しきっていることで、彼は自分が依存的であることの自覚もなく、他者への想像力もなく、自立して生きるという気持ちも欠如したまま、つまり人として未熟な状態にとどまっている。

それらは、「良い人」という一点において、免罪されることだろうか?

 

シボーンについて。

「俺はもっと意味のある、価値あることをしたい。あんたなら俺の気持ちがわかるはずだ」と言われたコルムを、シボーンはくだらない虚栄心だと言下に否定する。

1920年代の抑圧的なアイルランド社会に生きる自立した女にとっては、中年の危機にもがく男の苦悩は、地に足つかない甘えにさえ感じられる。

言っていることは理解できるが、もう何から話せばいいのやら、という絶句が見てとれる。

一度は自分の能力を活かせる仕事に就くことを諦め、「女の人生」を受け入れて、兄の世話をしながら島で生きていくと心に決めたシボーンだが、結局最後は、兄とコルムとの諍いにうんざりし、意地悪で内向きな島の人間社会のしょうもなさに愛想をつかすように、全てを断ち切って島を出る。

彼女は、環境を変えることで、ようやく誰にも干渉されず、自分のやりたいことをやって生きる人生を手に入れる。

 

ドミニクについて。

そして島の若者、知的障害があって皆に馬鹿にされているドミニクがいる。彼は警官である父親に身体的、性的虐待を受けている。

ドミニクは、心根の優しいパードリックになついている。そしてシボーンに恋している。

他の皆が単純な男だと侮っているパードリックの美点を高く評価し、そして「大人たち」の小賢しさ意地悪さをドミニクはじっと見つめている。

しかし、パードリックが嫉妬のあまり底意地の悪い振舞いをしたことにドミニクは深く失望し、去る。シボーンへの愛も受け入れられず、あとに残るのは虐待する最低な父親との生活しかない。それで多分、ドミニクは絶望してしまったんだと思う。

 

この残酷で厳しい社会では、良い人や純粋な人が、そのままに生きることができない。

彼らは時に殴打され、罵られ、排除され、利用される。

醜い人間社会に幅寄せをされて居場所をなくし、自信をなくし、自分を惨めに思って死にたいと思う。

しかし、実はドミニクの愛は、シボーンの命を救い、パードリックや最低な父親にさえも寄り添っている。

でもそんなことは、愛を向けられている当人ですらも大して気に留めないし、感謝されることもない。

 

コルムとパードリックの「友情」について。

皮肉なのは、これだけ徹底してパードリックを排除しても尚、コルムはパードリックに対して深いところで友情を感じ続けていることだ。

コルムは、パードリックが何を大事に思い、何を大切にして生きている人なのかということを、深く理解している。

それが、社会の常識とどれだけずれていようが、その重要性については留保なく尊重するのがいざという時の態度にあらわれている。

コルムはパードリックを本当には嫌ってなんていない。彼はむしろ友に甘えきっている。甘えて、持て余したエゴを友に押し付けて、なんとか自分だけ楽になりたい。

そんな自分の身勝手さに無意識的に気付いてもいるが、それでも尚、どこかでコルムはパードリックに許してもらえるとどこまでもたかをくくっている。

一方、パードリックは鈍い。友を愛し、その幸せを願う善意はあるが、相手を察し、理解しようという思考回路には欠け、相手の何も見ていないし、何も気付かない。

どっちがいいとか悪いとかじゃなくて、それがその人の性質なのであって、絶望的にいかんともしがたい。

 

しかし、妹とロバのジェニーを失って、パードリックはほんとうにほんとうにコルムに対して怒る。

パードリックは、日時を予告して、迷いなくコルムの家に火を付ける。

燃え尽きた家を背に、コルムは「これでおあいこだな」と言う。

コルムはどこかすっきりとした表情をしている。彼はいろんなものを台無しにして、全部もやし尽くして、やっと彼のエゴは気が済んだのだ。

「あいこではない。ジェニーは死に、お前は死んでいない」

パードリックは冷たく言い放つ。

「終わらない争いがある。終わらない方がいいものもある」

砂浜の向こうでは、アイルランド内戦が続いている。

コルムが犬の世話をしてくれてありがとう、と去り際に声をかけると、

「Anytime」とパードリックは言う。

その、皮肉で複雑な表情。単純で気のいい男はもういない。

 

二人の老いつつある男は、牢獄みたいな島から一歩も出ずに、陰鬱な思いを抱えて生きていく。

パードリックはただただ妹に帰ってきてほしいと願いながらベッドに横たわる。

妹を失った家は、動物たちに侵食され、タ・プロームみたいにどんどん自然に押し流されるようにしてやがて家ごと飲み込んでいくように感じられた。

人間のどうしようもなさの前に立ち尽くすようなラスト。

 

 

他にも、死神みたいな老女マコーミックの投げかける謎や、閉塞感を絶妙に表現した平板な音楽、雄大な自然を捉えた撮影、バリー・コーガンの天才的な巧さなどなど、論点は尽きず、書ききれない。

今年のベスト作品の一つになること間違いなし。

 

 

 

 

 

子らそれぞれ

娘氏、今日初出勤。

世の中でいろんな人と関わりながら修行する日々が始まる。

不登校になってからまる3年。

今思えば高校に入ったのは余計な遠回りだったなあと思う。

入学式の写真の娘氏の顔も暗かった。

ま、やってみて分かることはあるから、結果オーライだ。

今朝の彼女はてきぱきと身支度をし、自分で昼食のサンドイッチもこしらえて、楽しみそうに晴れ晴れと家を出て行ったから、私はふつふつと嬉しい気持ち。

これからも色々行きつ戻りつあると思うし、肩すかしを喰らうこともあると思うけれど、今日は門出を見送るような気持ちで通りへ消える姿を見送った。

 

海の向こうにいる息子氏からも、朝、元気そうなLINEが届いていた。

ビデオ通話の時に少し寂しそうな感じも見えるけれど、基本はのびのびせいせいとして今の暮らしを楽しんでいるみたいだから、こちらも良かったなと思う。

そして末っ子は今日も保育園に着くなり、私のぱーっと足元から走り去って、こちらは見向きもせず、仲良しの子とおもちゃの取り合いをしながら機嫌良く遊びだしていた。

 

これ以上は特に何も思いつかないなという満たされた気持ちの今朝だった。

自分は今日も全然かわりばえのない一日。あくせく動き回っているうちに、すぐに日が暮れていくんだろう。そしてこれからも死ぬまでだいたいそんな感じだろう。

3人いる子供達が今日、それぞれに満足そうであることがただただ嬉しい。

自分みたいな者が、自分のことなんてどうでもいいと思えることが、本当に幸せだし、ありがたい。

 

親は子を育ててきたと言うけれど 勝手に赤い畑のトマト 俵万智

 

 

「ネット右翼になった父」

ネット右翼になった父 (講談社現代新書) | 鈴木 大介 |本 | 通販 | Amazon

鈴木大介著/講談社/2023年

 

「脳が壊れた」や「発達系女子とモラハラ男」の鈴木大介さんの新作。

今回も鈴木さんでしかない一冊だと思った。

それは、鈴木さんは何を書いても、犯人探しに終わるのではなくて、結局自分自身を省みることに行き着く、「Man In The Mirror」のひとだという点。

If you wanna make the world a better place,
Take a look at yourself and then make a change.

 

そして、彼の書くものはいつも予定調和にとどまることがない。今回も、予想外の展開だった。

 

本作においては、個人的にはちょっと首を傾げたくなるような「理解」もあったけれど、これも最終結論ということではなくて、また時間が経つごとに絶えず変容を続けて行くのだろうなという感触を持ちつつ読んだ。

 

鈴木さんの本の凄さは、書き手はもちろん、読む者も他人事にさせないところだと思う。

けして正論で追い詰めるというのではなく、でも安全な高みから正しい者のていで眺めることを許さない強い当事者性がある。

今回も「このお父さんは、そして大介さんも、ああ自分だあ〜〜」と時折天を仰ぎ、溜め息つきながら読んだ。

すごく不快で、認めがたい。でももっと知りたいし、ここまで来たら目を逸らすことができない、という感じだった。

 

人はそれぞれ、複雑な背景や人生の歴史や個別の経験を持つのに、特徴的な「ある特定の要素」をもってして、誰かに簡単に烙印を押す、もうあらかた分かったような気分になって、勝手に仕分けするということを、気付けば自分もやっている。

だからこそ、このような「分断」に私は苦しめられている。

地獄は、自分自身が生み出しているんだということが、苦しいくらいよく分かる本だった。

 

なるたけ長いものには巻かれず、自分自身で考えて決めている、つもりでも、こんなにも誤認しているし、見たいように見ている。

究極的には、結局誰もが、さまざまな思い込みや歪みから自由になることはできないとも思う。

それでも、所詮負け戦と分かっていても、人は一人では生きられないから、他者とできるだけ和やかに共存していくために、自分自身心穏やかであるために、諦めず挑み続けるしかないのが、人間世界なんだなあ。

本当にめんどくさく、しんどいことだ。

でも、その中であっぷあっぷひたすらにもがいていると、時たま予想もしない形で、人の清潔さや優しさや赦しに心が温められることもある。

 

故・渡辺京二さんの言葉。

自分が、この世の中で自分でありたい、妄想に支配されたくないという同じ思いの仲間がいる。

それが、小さな国である。

自分が自分でありたいという自分と、同じく自分が自分でありたい人たちで作った仲間が小さな国になっていく。

そういうものをしっかり作るということが、ぼくの思う革命なのさ。

 

この本を読んで一層、自分が自分であることの大事さを思った。

最近、スマホとの付き合い方もずっと考えながら、あれこれ工夫をしている最中。

自分を何者かに乗っ取られぬよう、しっかり地に足をつけて、三歩進んで二歩下がる〜。

要約的/非要約的なものの見方について

仕事ができる、合理的な頭のいい人って皆要約力に長けているよね、と何かの折にふっと夫が言う。

オリラジのあっちゃんのYouTube大学とかってまさにそれで、とにかくコンパクトに要旨を項目別に伝えてくれる。

見る人はそもそもの文献や資料にあたらなくていいし、ポイントをかいつまんでもれなく教えてくれたら、「全部分かった」という手応えを簡単に得ることができる。

時間も手間暇も節約できて得をした気分になれるし、便利だから、とても人気があるのはうなずける。

夫も、本や映画などを見ていても「この作品の伝えようとしているテーマ、作者の言いたいコアってなんだろう」となんとなく思いながら見る傾向があると言う。「だからって細部が不要とはけして思わない。2時間の映画の中で無駄なシーンてひとつもないわけだから」

 

それらを聞いていて、なるほどーだから自分はいつだって「的外れ」だったのか!と目からウロコであった。

ブログにも人知れずこりこりと書き綴っているが、普段から映画やドラマの感想について、あんまり共感をされないし、「え、そこ?」って言われることが何に依らず全般的に多い人生である。

以前フリーランスでインタビューライターをしていた時にも、「どうしてそういうまとめになったのか」と言われたことが2回あって、そのうちのひとつはインタビュイーが同業(ルポライター)の方だったので、その時は結構悶々と考え込んでしまった。

 

インタビューライター、向いてなかったんだと思う。インタビューはやっぱり要約力がものをいう仕事だから。だからやめて良かった。

もっとも、(個人の属性や個性を前面に出さないタイプの)ライター業は、どれだけ続けようがギャラは上がらないのに、クライアントの要望は即請け負って、待遇は据置でややこしい条件ばかりが付加されていくという状況があって、長く続けるほどに割りに合わない気持ちがつのり、そのうちくたびれてギブアップしたのだったが。

取材やインタビューでいろんな人に会って深い話ができるのは楽しかったし、きっちり仕事をやれば案件はあるが、当時は何しろ雪かき仕事で展望がない、という気持ちだった。

さらに自分は「流行と情報」に興味が持てなくて、仕事だから当然書きたいことを自由に書けるでもない。

そんなわけで、今は子を育てながら、一円もお金にはならないが、自分のペースで自由に文章を書けることが楽しく、今に満足している。

書きたいことはいーっぱいあるのに、書く時間がなかなか取れないのが悩みだけど。

お金をいただいて継続的に書ける実力もないと悟れたし、この頃は加齢でこの先集中力も衰える一方なんだろうなということも見えるし、どんな文章にも責任はあるが、「ただ」だから許される緩さはやはりある。

これからも、気楽に好きなことを書いていく。

 

話が逸れたが、物事の核心をびしっとつかむ、選択と集中の要約力は重要なものだし、あればいいなと思うものの、やっぱり私は要約にそれほど興味がないみたい。

なるほどーだからハウツー本やビジネス書を読むことができないのだな、と分かる。

読んで一瞬分かったような気になっても、すぐに全部忘れる。

全部網羅してまとめてあるはずなのに、自分の感覚的には手応えがどこかスカスカなのだ。

世の中の主流が効率と要約を重視し、要約できない人間は一生合理的で仕事のできるワールドには入っていけないことも分かっている。

しかし、私はまあ、人生残り少なくもあるので、なるだけ人に迷惑をかけない範囲で、自分が楽しくやれるスタイルでこっそり好きにやっていきたいな、と半ば諦めの境地である。

 

ものを見聞きする時、人と話す時、私は言語化できない全体のムードをただ浴びるように感じながら、同時に細部をじっと見ている気がする。

だから、ストーリーやストラクチャーがはっきりしない物語が苦手という意見を聞いたりするけど、私は全く気にならない。

むしろ、ストーリーや「これが私が伝えたいテーマだ」という作り手の意図は、もちろん一定受け取りながら見ているものの、あんまり意識はしない。

それよりは、作り手も気付かないで滲み出ちゃってるもの、当人が意識化していないある種の偏りやこだわりなんかの方にずっと興味をそそられる。

無作為的な言動から立ち現れる感情や、美しさや醜さに釘付けになる。

全体のムードもやはりどうにもコントロールできない、作り手の世界の見え方がやその人のありようが否応無く滲み出るものだからこそ面白く感じる。

人生は孤独だから「この人に見えている世界は自分ととても似ている」という共通したヴィジョンを作り手から感じた時には、たまらなく愛着を感じる。

だから、私にとっては昔のウォン・カーウァイピーター・グリーナウェイグザヴィエ・ドランの作品には、作品の良し悪しを越えた愛着がある。

 

そしてやはり、いろんな人がきっとそうであろうけれど、いろんな表現は自分の人生の生きづらさを助けてくれるためにある。

その時々の自分の興味や感じている謎や、悩みなどと重ね合わせて、ものを見聞きしている。

その中で、何かの思想が引っかかったり、具体的な工夫を知ったり、誰かが解決/解明していたりすることにぶちあたるたび、ふつふつと喜びがこみ上げる。

だから私はそういえばいつも、メインテーマは時に堂々スルーして、いつも自分にとって必要だったり、気付きのあった要素を拡大して話したり書いたりしている。

本筋とは全然関係のない箇所にめっちゃ感動していたり、逆に価値を置かれている部分を、自明のことみたいにさらっと流してもう見えないみたいになる。

とても個人的で、身勝手な楽しみ方なのだなあと改めて思う。

これでは当然、独りよがりで的外れにもなるはず。

 

でも、自分も他人も、各々で全然構わないよねと開き直ってもいる。

自分も他人も同じようなものだと錯覚して、自分の正しさを他人に押し付けるのだけがいけない。

普段、大体相手はこんなことを考えているかな〜とあたりをつけて、人は人とやりとりしているが、蓋を開けてみれば、人は皆、相当てんで勝手なばらばらなことを考え、思っているものだと思う。

そこには多数派の考えと少数派の考えなどもあるだろうが、当たり前だが多数派の考えは、数が多いだけで本質的な正しさとは全く関係がない。

今の世の中では、多様性とかよく言うけれど、実際は、自分とは違う考えや感想をもつ人や、自分のやり方に特に興味も評価もしない人に対して心穏やかでいられない人が少なからずいるなと感じる。

人は人、と放っておくのはなかなか難しいことみたいだ。

少なくとも、その人がそのように感じたことはその人にとっての真実で、それを他人が否定する権利は誰にもない。でも、自分もただ考えを口にしただけで全否定されるような目にも遭うし、他者のそういう振る舞いを見かけることもまあまあある。

誰しもついついやってしまう類のことではある。

自分もやっちゃう。あとで振り返ると、無知で傲慢だからできたことだって分かるから、そのたび見苦しさに恥じ入ることになる。

なるべくそうはならんようにいつも気をつけなくっちゃなーと思っている。

スマホ/ネット依存からどう離れるか

「疲れたー、落ち込んだー、って一回止まると、そこからもう一度やる気を出してえいやって起き上がるのが一番難しい」と、娘氏が言う。

「部活のシャトルランで、がーっと走って一旦止まったら最後、もう二度と気力が湧いてこなくて走り出せないみたいな」

「若いのにさ、何かこう、ひとりでにむくむくっと、何かやりたい!ってなったりってしないの?」と、私が訊くと、

スマホと動画とゲームがあるとそうはならない。スマホはね、大切なものをたくさん奪う。パーマカルチャー農園に住んだことでそのことに気付けたのに、最近まただんだん見るようになってきてしまった。あー自己嫌悪」と、頭を抱える。

 

娘氏曰く、

スマホと動画とゲームは、「退屈」を片っ端から埋めていくツールなんだということが、暮らすための実作業がたくさんある暮らしの中でよく分かった。

退屈を感じるのが人は苦痛で不安だから、退屈の片鱗を感じると、反射的にスマホを手に取る。

そうすると、退屈は一瞬にして消えてくれる。

でも、それと同時に、何かを考えたり、計画したり、想像したりする脳の余白も一瞬で消える。

人は手持ち無沙汰なぽかんとした時間があるからこそ、「いっちょあそこへ行ってみるか」とか「これ作ってみるか」とか「誰々に久しぶりに連絡してみるか」とかなる。

スマホを見るのと引き換えに、あらゆるアイデアや何かを始めようという気力が失われてしまうんだよ。

引きこもってた時期、ベッドの上で一日中過ごせたのは、スマホと動画とゲームがあったから。それがなかったらあんな狭い場所でとても一日中じっとしてはいられなかった。

今思えば、あんな風にして何日でも生きられてしまうってことが問題だったと思う」

 

とりあえず、全てを傍に置いて、瞬時に没頭する。

漠然とした苦痛と不安から無思考的な空白の時間に逃げ込む。

気がつけば、自分を含めた多くの大人や子供が、1日のうち相当な時間を、そのような空白の時間に費やしている。

その時間は、テック企業による巧妙なアルゴリズムの投下によってどんどん引き伸ばされ続けている。

そのことが有限な人生の時間をどれほど無為に奪っているのか。

改めて考えるとおそろしい。

私もスマホやネットに関しては本当に後手後手で、特に末っ子のいる週末は「家の中でスマホ、動画を何となく見続けているうちに、1日が終わった。妙に疲れてぐったりしている」みたいなことが多々ある。

これは本腰入れて考えなくては。

 

そんな時に出会ったこの本。

著:四角大輔/ダイヤモンド社/2022年

 

ビジネス書やハウツー本の類を、普段ほとんど読まない自分だけに、なんとはなく読みづらい。でも、色々参考になることが書いてあって勉強になる。

とりあえずデジタル情報対策についてのパートを読んでいるところ。

*人間のモチベーションの原動力になる脳内物質「ドーパミン」は、やる気や達成感や集中力の源で、とても重要なもの。でも供給過剰になると、今まで考えていた事、やっていたことを忘れて自分を見失い、どうでもいいことについのめり込んでしまう

スマホや動画やゲームは、ドーパミンを過剰に供給する。そうするとスマホ、動画、ゲームに膨大な時間を費やし、夢中になって脳がぐったり疲れ果て、もう何もする余力も残らない。「本当にやりたかったこと」がなんだったか忘れてしまうし、「やるべき事」をする気力も消えてしまう。

スマホを使うほど脳は深刻なダメージを受ける。特に子供は顕著に脳の発達を阻害する。

SNSを使いすぎると、リアルな人生以上の比較、競争、嫉妬に晒されるため、自尊心が維持できない。孤独で自分はだめだと感じがち。

ただし、受け身でSNSを使うと不安とストレスは高まるが、自分が発信する、明確な目的を持って使うなど、主体的にSNSを使えば、逆にメンタルに良い影響がある

⇨脳へのダメージやブルーライトなどの弊害やデメリット要素を把握する。

⇨「なんとなく使う」が中毒への道。しっかり意志を持って、道具として使いこなす。テクノロジー=悪ではない。

分厚い本に色々細かいスキルは書いてあるけれど、とどのつまり、大方針は一つだけ。スマホやネットやゲームを使う時のポイントとは、一方的に押し付けられる情報を全て塞ぎ、自分から発信するあるいは主体的に目的を持って自らアクセスする情報だけに限定していくということに尽きる。

あとは、その方針に従って自分が使っているアプリやプラットフォームを精査していくといいと思う。

まずはそこをコントロールできなくては、一律に時間制限とか、意志の力だけでは到底無理。

 

とにかく、ページを開いてなんとなく目に入った何かを、ちょっとだけと軽い気持ちで見始めてしまったら負けなのだ。永遠に終わらないスクロール沼。

「息を止めて海に潜るような緊張感をもって、当初の目的を忘れないように集中して」SNSを開くって、何を大げさなって思うかもしれないけど、全然大げさではない。

我々の脳は日々ハッキングされているのだ、まじで。

「なんとなく」を侮ってはいけん。

自分の脳が乗っ取られないようにするためには、それなりの気合いと覚悟が必要なのだ。

テクノロジーはとても便利なものだけど、ぼーっとしてると自分の人生の時間を奪いにかかるとても怖いものでもあるということが、気付くの遅すぎではあるんだけど、ようやく身にしみて実感できたのは良かった。