まだまだ「イニシェリン島の精霊」のことを何かっちゅうと考えては話している。
やはり私はパードリック+ドミニク味が強めで、夫氏はコルム味が強めなんだろうなあと話していて感じる。
夫婦間には永遠のすれ違いが横たわっている。
なんとかやれるところまではやっていこう、という気持ち。
でも最終的には、本当に相手のことを好きで大事にしたいなら、「意味分かんないし、理不尽だし、自分は本当はこうしたいけれど、全部脇に置いてひとまず相手の言う通りにする」という対処になるのだろうなあ、つらくても孤独でも。口で言うのは簡単だけれども。
それができないのは、相手への愛よりも、自己愛、エゴの方がまさっているということだ。
現実をそのままに受け入れることが、一番難しい。
哲学者の國分功一郎さんが、彼のとても面白い人生相談本「哲学の先生と人生の話をしよう」の中で、プラトンのイデアについてこんな考えを述べている。
(プラトンのイデア論:この世に実在するあらゆるモノの本質はイデアである。私たちが肉体的・物質的に感じる対象や世界は、あくまで「イデア」の似像にすぎない。つまり、今目の前にある個々の事物はすべて「仮の姿」であるという考えのこと。)
やっぱりイデア界なんてなくて、単に個物が、個人が、一つの現実として存在しているだけなんです。
その現実を見据えている人は、その現実について話ができます。
でもそれを見据えていない人は、自分はどう思うかって話しかできなくなる。
つまり自分の話ばっかりすることになる。
でも、どうして目の前の現実を見る、受け入れることができないんでしょうか?
多分その理由は簡単で、その現実がイヤだからだと思うんです。
プラトンも目の前の現実がイヤで受け入れたくなかったんです。
こんなクソみたいなアテナイの現実とかイヤだと思って、現実の外に本当の世界を想定したのだと思います。
そして、そういうことは人間においてはよく起こることなんです。
自分は非要約的に物事を見る傾向があるという考えを、しばらく前のブログに綴った。自分の非合理的でおかしな考えも、それはそれとして持っていてもよかろうと思う反面、気をつけなくちゃいけないのは、現実から目を逸らすことだ、自分はどう思うかって話しかできなくなることだ。
それにつけても、コルムもパードリックも目の前の現実を受け入れられないからああなってんだよなー!と思う。
アリストテレスがプラトンのイデア論を批判したのは、紀元前350年あたりのことだ。
もう2000年以上前に哲学者はこの問題を喝破していたわけで、それで今のこの有様だ。やっぱり人間とはあんまり進歩しない残念な生き物なんだろうなと思わざるを得ない。
私もこれからも散々落とし穴に落っこち続けるだろう。その都度何度も思い出しながら、基本はどんだけめんどくさくても、「今回は自分はここの部分引くね、でも別のこういうケースの時は、申し訳ないけど自分のわがまま通させてね」という風に、いちいち気持ちを話し合ってネゴシエイトしていくというのが理想的なのだろう。
そんなこと、めんどくさくてやってられんわ!確かに。
でも、仮にも民主主義者を標榜するなら、やっぱりそこを目指すしかないのだろう。
ただ、話し合う前のコンセンサスは不可欠になると思う。
異なる意見を持つ者同士の対話とは、理解と納得をゴールにするのではなくて、そんなのはどうしたって不可能で、どちらかというと利害調整に近い、落としどころを見つけていくための場である、という共通理解が。
対話を、どちらがより正しいかを論争する場だと捉えている人が対話の場に一人でもいた時、安全な場はつくれなくなる。
「どの意見も等価とみなし、相手を変えようとはしない」という姿勢なくしては、収拾はつかない。
そこが一番難しくも肝要なところだ。
また、それをいちいち全部にやってる時間はさすがにないので、比較的重要度の低い人々に対しては、「やだな〜」と思ったらどんどん間合いを取って取って、別にそれほどやじゃないかも、と思えるところまで遠ざかるのが、平和的なひとつの方法であると思う。
考えれば考えるほど、所詮人間には無理なんだ、と思わざるを得ないし、マーティン・マクドナーだってそう思ってあの作品を作ったのだ。
現実とは、無理なんだ、なるようにしかならんのだ、という絶望。
それを納得した上で、自分がどういう流儀をとるかをじたばたと考えることが、せめても自分にできること。