みずうみ2023

暮らしの中で出会った言葉や考えの記録

要約的/非要約的なものの見方について

仕事ができる、合理的な頭のいい人って皆要約力に長けているよね、と何かの折にふっと夫が言う。

オリラジのあっちゃんのYouTube大学とかってまさにそれで、とにかくコンパクトに要旨を項目別に伝えてくれる。

見る人はそもそもの文献や資料にあたらなくていいし、ポイントをかいつまんでもれなく教えてくれたら、「全部分かった」という手応えを簡単に得ることができる。

時間も手間暇も節約できて得をした気分になれるし、便利だから、とても人気があるのはうなずける。

夫も、本や映画などを見ていても「この作品の伝えようとしているテーマ、作者の言いたいコアってなんだろう」となんとなく思いながら見る傾向があると言う。「だからって細部が不要とはけして思わない。2時間の映画の中で無駄なシーンてひとつもないわけだから」

 

それらを聞いていて、なるほどーだから自分はいつだって「的外れ」だったのか!と目からウロコであった。

ブログにも人知れずこりこりと書き綴っているが、普段から映画やドラマの感想について、あんまり共感をされないし、「え、そこ?」って言われることが何に依らず全般的に多い人生である。

以前フリーランスでインタビューライターをしていた時にも、「どうしてそういうまとめになったのか」と言われたことが2回あって、そのうちのひとつはインタビュイーが同業(ルポライター)の方だったので、その時は結構悶々と考え込んでしまった。

 

インタビューライター、向いてなかったんだと思う。インタビューはやっぱり要約力がものをいう仕事だから。だからやめて良かった。

もっとも、(個人の属性や個性を前面に出さないタイプの)ライター業は、どれだけ続けようがギャラは上がらないのに、クライアントの要望は即請け負って、待遇は据置でややこしい条件ばかりが付加されていくという状況があって、長く続けるほどに割りに合わない気持ちがつのり、そのうちくたびれてギブアップしたのだったが。

取材やインタビューでいろんな人に会って深い話ができるのは楽しかったし、きっちり仕事をやれば案件はあるが、当時は何しろ雪かき仕事で展望がない、という気持ちだった。

さらに自分は「流行と情報」に興味が持てなくて、仕事だから当然書きたいことを自由に書けるでもない。

そんなわけで、今は子を育てながら、一円もお金にはならないが、自分のペースで自由に文章を書けることが楽しく、今に満足している。

書きたいことはいーっぱいあるのに、書く時間がなかなか取れないのが悩みだけど。

お金をいただいて継続的に書ける実力もないと悟れたし、この頃は加齢でこの先集中力も衰える一方なんだろうなということも見えるし、どんな文章にも責任はあるが、「ただ」だから許される緩さはやはりある。

これからも、気楽に好きなことを書いていく。

 

話が逸れたが、物事の核心をびしっとつかむ、選択と集中の要約力は重要なものだし、あればいいなと思うものの、やっぱり私は要約にそれほど興味がないみたい。

なるほどーだからハウツー本やビジネス書を読むことができないのだな、と分かる。

読んで一瞬分かったような気になっても、すぐに全部忘れる。

全部網羅してまとめてあるはずなのに、自分の感覚的には手応えがどこかスカスカなのだ。

世の中の主流が効率と要約を重視し、要約できない人間は一生合理的で仕事のできるワールドには入っていけないことも分かっている。

しかし、私はまあ、人生残り少なくもあるので、なるだけ人に迷惑をかけない範囲で、自分が楽しくやれるスタイルでこっそり好きにやっていきたいな、と半ば諦めの境地である。

 

ものを見聞きする時、人と話す時、私は言語化できない全体のムードをただ浴びるように感じながら、同時に細部をじっと見ている気がする。

だから、ストーリーやストラクチャーがはっきりしない物語が苦手という意見を聞いたりするけど、私は全く気にならない。

むしろ、ストーリーや「これが私が伝えたいテーマだ」という作り手の意図は、もちろん一定受け取りながら見ているものの、あんまり意識はしない。

それよりは、作り手も気付かないで滲み出ちゃってるもの、当人が意識化していないある種の偏りやこだわりなんかの方にずっと興味をそそられる。

無作為的な言動から立ち現れる感情や、美しさや醜さに釘付けになる。

全体のムードもやはりどうにもコントロールできない、作り手の世界の見え方がやその人のありようが否応無く滲み出るものだからこそ面白く感じる。

人生は孤独だから「この人に見えている世界は自分ととても似ている」という共通したヴィジョンを作り手から感じた時には、たまらなく愛着を感じる。

だから、私にとっては昔のウォン・カーウァイピーター・グリーナウェイグザヴィエ・ドランの作品には、作品の良し悪しを越えた愛着がある。

 

そしてやはり、いろんな人がきっとそうであろうけれど、いろんな表現は自分の人生の生きづらさを助けてくれるためにある。

その時々の自分の興味や感じている謎や、悩みなどと重ね合わせて、ものを見聞きしている。

その中で、何かの思想が引っかかったり、具体的な工夫を知ったり、誰かが解決/解明していたりすることにぶちあたるたび、ふつふつと喜びがこみ上げる。

だから私はそういえばいつも、メインテーマは時に堂々スルーして、いつも自分にとって必要だったり、気付きのあった要素を拡大して話したり書いたりしている。

本筋とは全然関係のない箇所にめっちゃ感動していたり、逆に価値を置かれている部分を、自明のことみたいにさらっと流してもう見えないみたいになる。

とても個人的で、身勝手な楽しみ方なのだなあと改めて思う。

これでは当然、独りよがりで的外れにもなるはず。

 

でも、自分も他人も、各々で全然構わないよねと開き直ってもいる。

自分も他人も同じようなものだと錯覚して、自分の正しさを他人に押し付けるのだけがいけない。

普段、大体相手はこんなことを考えているかな〜とあたりをつけて、人は人とやりとりしているが、蓋を開けてみれば、人は皆、相当てんで勝手なばらばらなことを考え、思っているものだと思う。

そこには多数派の考えと少数派の考えなどもあるだろうが、当たり前だが多数派の考えは、数が多いだけで本質的な正しさとは全く関係がない。

今の世の中では、多様性とかよく言うけれど、実際は、自分とは違う考えや感想をもつ人や、自分のやり方に特に興味も評価もしない人に対して心穏やかでいられない人が少なからずいるなと感じる。

人は人、と放っておくのはなかなか難しいことみたいだ。

少なくとも、その人がそのように感じたことはその人にとっての真実で、それを他人が否定する権利は誰にもない。でも、自分もただ考えを口にしただけで全否定されるような目にも遭うし、他者のそういう振る舞いを見かけることもまあまあある。

誰しもついついやってしまう類のことではある。

自分もやっちゃう。あとで振り返ると、無知で傲慢だからできたことだって分かるから、そのたび見苦しさに恥じ入ることになる。

なるべくそうはならんようにいつも気をつけなくっちゃなーと思っている。