このところ、朝起きるのは毎日4時台。まだ外は暗い。
よく起き抜けに近所を寝巻きのままふらっと一周歩くのだけど、今朝は家の外の通りに出たら、まだ明るさを残した大きな満月が低い位置にあり、正面から目が合った。
寒いし、さすがに早すぎたかなと思いながらも、朝の通りを歩きのは気持ちが広々するから、ぷらぷらと歩いた。
こんな時間でも、まだ薄暗い大通りをスーツ姿で早足に行く人がちらほらいる。勤勉なのだなあといつも尊敬する。
最近は、朝目覚めたと同時に、喘息の具合を確認するのが癖みたいになっている。
毎日少しずつましになっている、でも昔みたいに「あ、病気抜けたー」という爽快感はなかなか得られない。本当に今回の不調はしつこい。
治りの悪さはやはり年のせいなのかねえ〜とつい気弱になるけど、よしっ、なんとか心身の調子を整えて今日もあげてこう、と思い直してえいやっと体を起こし、一日を始める。
体の無理がきかない年齢になってくると、気の持ちようだけで突破していく、体のことはぞんざいに扱って頭だけで生きていくみたいなことが、もう全然できなくなっていく。
欲張って、テンションの高さにまかせて負荷をかければすぐさましっぺ返しがくる。
心と身体が密接に関わり合っていて、その両輪でしか何ごとも動いていかない。
だから、あれこれとはやる気持ちはあっても、こらえて、身体の都合に沿うように、身体の様子を伺いながらやる、という順番になっていく。
若い時期の、キラキラとした刹那をでたらめに駆け抜けていくような奔放な日々は、自由で爽快で、素敵な時期だったなと思う。
今を生きるってそういうことだと思ってきたし。
でも、弱く衰えたゆえに、以前よりは少しは自分の身体と周囲に耳を澄まられるようになった今の状態を、私はそれほど嫌いじゃない。
これもこれで今を生きてるって感じだ。
そりゃあ体調はもうちょっと良くあって欲しいし、体重も落としたいなあと思うけど、何があっても、最終的には「まあしょうがないかー、自分はこんなもんだし」という開き直り感に着地できるように少しずつなってきた。
自分はエゴの塊であるので、自分を情けなく思ったり恥ずかしく思ったりして、気持ちがずーんと沈み込んでしまうようなことはしょっちゅうだけど、捨てる神あれば拾う神ありなのが、まじで救われる。
理由も分からず切り捨てられてしまうようなこともあれば、理由も分からず親切に気にかけてくれる人もいる。
きつかったり悲しかったりする状況に接した時は、また同じシチュエーションになったとしても、やっぱりそのように言い、動くだろうと思えるほどに、自分が納得できる選択をできていたら、もうそれが自分の精一杯で、それ以上できることはないし、自分の責任でもない。
他人には他人の事情があるだけだ、と割り切る。
いつも見苦しくじたばたしたり、後悔したりしてばかりだけれど、なるべく「戦わず、前に進む」ようにしていきたい。
今は「思いがけず利他」(中島岳志著)を読んでいる。
この本は、まず分かりやすいのがすごい。
こんなに深く哲学的なことを、ここまで平易に語ることができるんだということに感服する。
中島先生の授業を受けている生徒になった気分で読んでいる。
ただ、一見柔らかい語り口だけれど、中身はハードである。
利他の本質を考えることは、自らのエゴや偽善性と向き合うことと同義でもあるからだ。
それでもここにあるのはすごく大事なことだという確かな手応えがあるので、恥じ入りうろたえつつ、時折本を閉じて空を仰ぎながらもじりじり読み進めている。
今の自分にはすごく必要な本だと思う。
まさに今の自分は「どう自力を少しでも手放してゆけるか」にかかっている。
そういう、自分にとっては奇跡的と思えるくらいのグッドタイミングで偶然手に取るような本との出会いが読書の醍醐味だし、今年はとりわけ読書の秋に相応しい出合いに恵まれているようで、ほくほくである。
2021年/中島岳志著/ミシマ社