みずうみ2023

暮らしの中で出会った言葉や考えの記録

658km、陽子の旅

ポスター画像

2022年/監督:熊切和嘉/113分/2023年7月28日〜公開

 

2023年の映画は上半期はとっても豊作、だけど下半期はそれほどでもなく。

とはいえ、映画館で映画を見る機会が一定期間以上空くとむずむずしてくる。

本作は、マストではなかったけど、ちょうど会う予定だった友達が付き合ってくれ、ロードムービー好きでもあるのでチョイスしてみた。

 

このタイミングで見られて良かったなあ。

前半、冗長気味に感じたけれど、心細く広々と孤独な空気感が、まさにロードムービーの味わいだった。

 

菊地凛子演じる陽子は、弱くいじらしい、ひしひしと今の時代の子であった。

長い間まともに人と会話を交わしていないので声が出にくくなっていて、身体中の関節がこわばっている。人への不信感と恐れが滲む、怒ったような怯えたような眼差し、鈍さ、頑なさ。

この人は長い年月まともに外の空気を吸わず、光にも当たらず、誰とも接さずに暮らしてきたのだということが、陽子をただ見ているだけでよく伝わった。

だからこそ何気ない、掛け値のない「人情」に本当に久しぶりに触れ、彼女の魂に再びゆっくり血が巡っていく、まさに生き返っていくさまに、胸が震えた。

 

陽子は、逃げられるところまで逃げて逃げまくって、なんとか人生に向き合わずに済ませようとする。

その結果、孤独などん詰まりの人生になっている。

誰しも嫌なことには向き合いたくなんかないし、傷つきたくないし、楽なのがいい。

でも、これまでは一人で生活しておれば、どこかで否応でも社会と関わらなければならなかった。

ところが、現代のインターネット世界では、リモートワークで、ウーバーがあって、トイレットペーパーまでアマゾンで買えてしまう、全てを家の中だけで完結することが可能な世界になっている。

様々な傷つきや事情を抱えて内にこもってしまった人が、モチベーションがその人の心の内に生まれなかったり、いろんな必然性にぶち当たることなく全てを回避できてしまった場合、一人でほぼ完全に引きこもって長期間生きていくことが可能な時代になった。

そしてコロナ禍を経て、そういう人は今、日本に限らず、世界中至るところの都会に思うよりずっとたくさん存在していることを思う。

 

陽子は、そのようにして、きっかけを逃して、20年がまるで空白の時間みたいにすっぽりと失われた人の一人だ。

それはなにげにおそろしいことだと思う。

 

長年の生き方の蓄積で、ひどいコミュ障みたいになっている陽子は、旅の途中、ある間違った選択をしてしまう。

それはあまりに痛ましいことだったけれど、そのことによって人生が本当に底をついたと思う。

私は、自分を含め、女という生き物には、そういうどん底から立ち上がっていく強さをむしろ男性よりも備えた生き物だという、どこか確信のような思いがある。

その時の陽子の動物的な感じも、自分には納得性のあるものだった。

 

陽子の最後の独白。

自分の言葉を獲得するということは、人間にとってとても大切なことだ。

取り返しがつかない、こんな私、と陽子は言う。

それに対して「そんなことはない」とか「何度でもやり直せる」とか簡単にいうのは、無責任な場当たり的なことだ。

実際、20年間は失われた。そして父は会わないまま死んだのだ。

 

私は、お父さんが大好きだった。

逃げて逃げて、お父さんなんか元々いないように思おうとして、洞穴みたいなところにどんどん潜っていく人生になった。

お父さんにもう一度会いたい。

その自分の気持ちを認めて、後悔で号泣して、雪の中をよろよろと立ち上がり、父の亡骸に会いに行く後ろ姿で658kmの陽子の旅は終わっていく。

 

灰色の空、荒れた雑草がぼうぼうの土地、雪はとめどなく降り積もり、お葬式の黒い枠の小さな看板が掲げられた古びた家。

そんな薄暗いところで一人ぼっちで泣き崩れている陽子の姿は、とても悲しいものだったのに、私はその姿に、彼女はようやく生き直すであろうことを確信したし、人間のしぶとさに励まされさえした。