みずうみ2023

暮らしの中で出会った言葉や考えの記録

「シビル・ウォー アメリカ最後の日」

 

2024年アメリカ/原題:Civil War/監督:アレックス・ガーランド/106分/2024年10月4日〜日本公開

「もし今アメリカが2つに分断され、内戦が起きたら」というコピーの印象から、今のアメリカの分断がどこまでも深まっていき、ついに内戦に発展する、という仮定のドキュメント的な作品かと思って見に行ったんだけど、全然違った。

すでに内戦状態にあり、大統領の首を取るべく、D .C.のホワイトハウスに迫らんとする民兵と共に首都を目指す戦場カメラマンの目を通して、戦争状態に陥ったアメリカの社会と人々の姿を描いている。

 

アメリカの人々ほどではないにせよ、日本で暮らす私も、感覚的にはアメリカのように戦争からは遠く守られているという感覚の中で生きている。

けれど、この作品は戦争が日常の地続きに起こりうるのだという可能性をリアルに感じさせて怖い。

普段、ソフィスティケイトされた社会で秩序を守って暮らしていても、一旦戦争状態に陥るや、そんなものは簡単に吹っ飛び、人間の理性はあっという間に不確かになり、暴力性は野放図になる。

 

オフショア・バランシングの国、アメリカ。

直接的にせよ間接的にせよ、常にどこかと戦争しているが、国中が戦場化するのはいつも相手国だけで、自国は破壊されず、一般国民が死ぬこともない。

戦争はどこか遠いところで起こっていることであんまり想像もできないし、ともあれ自分たちは安全だとすっかり信じきっている。

そんな自分たちにとって慣れきった日常が、突然圧倒的な暴力下に置かれ、全く常識が通用しなくなる。

この作品の持つ奇妙なリアルさに、戦慄するアメリカ人は少なくないことだろう。

 

 

作品の基本構造は、ハリウッドの王道的なスタイルにのっとっている。

消えゆく世代、現役世代、未来を担う世代の三世代の呉越同舟ロードムービーで、ジャーナリストの業や葛藤といった人間ドラマをしっかり描く一方、緻密に構成された戦闘シーンは完成度高いエンタメ感。

ハリウッドの大作らしく、押さえるところはしっかり押さえて作られているが、ベタさはなく、ハードボイルドでクールな印象が貫かれている。

さすがA24というか。

クールな印象は音によってもたらされているところも大きかったなと思う。

音楽の使い方がすごく斬新で、センスが良かったのが印象的。

戦争空間がもたらす暴力的な音響の臨場感も際立っていた。

 

この作品では、対立するそれぞれの勢力のイデオロギーがどんなものかは明確に描かれない。

けれどもそれは政治に対する忖度とは思わない。

本質は、「戦争状態が人間をどのように変容させるのか」にあると思うからだ。

作中に登場するスナイパーは「相手は誰か知らない、俺は殺そうとしてくる奴を殺すだけだ」と言う。

あるいは、ジャーナリストの一行が遺体を大量遺棄中の民兵に捕らえられ、「お前はどのアメリカ人だ」と問われる、アメリカ人でないメンバーはその場で平気で射殺される。

そこには正義も不正義もない。ただ「殺すべきかどうか」という極めて単純化された思考だけがある。

戦争とは、避けがたく「そういうこと」になっていくものである、という強烈なメッセージ。

 

私たちにとって、戦争写真って、やはりマグナムフォトの印象がとても強い。

だからこそ、若いジャーナリストの卵、ジェシーは父親から譲り受けたフィルムカメラで撮影するという設定になっているのだろう。

ジェシーが撮るモノクロのフィルム写真に、何度も強い既視感を感じた。

そうか、ロバート・キャパのあの有名な一枚は、こんな状況で、こういう空気感の中で撮られたものなのか、と想像する。

そして、この写真はベトナムで撮られたものではない、アメリカ国内で撮られたものである。

 

映画のラストカットは、ジェシーが撮った、兵士たちの爽やかな満面の笑顔が勢揃いした記念写真。

その誇らしげな笑顔たちの中央に、血まみれで撃ち殺されたアメリカ大統領の死体が横たわっている。

そこには、吐き気をもよおすような既視感がある。

 

こういう反戦映画があるのか、と思った。

アメリカのカウンターカルチャーの矜持を感じる作品だった。