みずうみ2023

暮らしの中で出会った言葉や考えの記録

夏が終わろうとしている

数日前の台風の後もまた暑さは戻ってきたけれど、でもやはり同じというわけではなく、早朝いつものように近所を歩くと、そこここに秋の気配を感じる。

台風の後は、蝉は不思議なくらい鳴かない。朝の町並みはしーんとしている。

暑くてとにかくしんどくて、なんとかしのぐように過ごしてきた8月だったけど、気がつけばもう終わろうとしていて、さびしさを覚える。

基本は暑さに負けて家にこもり気味で、いつも以上に地味な今年の夏だったなあ。

一度川遊びに行ったくらいで、その時も出がけにちょっと家族げんかをして、行きの車内では沈黙だったし。

でも川に着いてからは、みんな久々の自然の中でのびのびとし、冷たくてきれいな川の水に浸かってせいせいとした。

川べりで肉や野菜を焼いて一心に食べると、なんとなく「まいっか」という感じになった。

 

毎日を暮らす中で、澱のように溜まっていくものがある。

家族って基本は各種「まいっか」でいなしつつ、逸らしつつ、なんとかかんとか続けていく感じで、ちゃんと向き合っていないし、色々なし崩し。

だからこその切っても切れないしぶといもので、長年かけて体に溜め込んだ贅肉みたいに結局一生付き合っていくもんだみたいに思い込んでいるけれど、でもきっと一旦心を決めたら、ぱっと全部消えてなくなるんだろう。

そういう思いは心のどこかにいつもある。

それは怖いことだけど、同時に心の自由のよりどころでもある。

ここまでがっつりお母さん、奥さんの人生を続けてくると、個人としての私の領域なんて、もうおまけみたいな感覚になっていて。

全部やることやった後に、ようやく与えられるひとときのごほうびみたい。

まるで個人としての私は、ささやかで後ろめたげな何かの趣味みたい。

 

もちろん、何もかもは望めない。

人間て強欲な生き物で、ないものねだりをするものだ。

何かを選んだ以上、何かを諦める。どっちもは無理。

 

今見ているアメリカの古いドラマ「6 feet under」で、貞淑に母として妻として生きてきた姉が、久々に再会した自由奔放に生きる妹を羨んで罵る場面がある。

あなたは私よりも楽しんだ、私はあなたなんかよりずっと苦労してきたのだと。

すると妹はこう言う。

楽しんだ?

私が唯一愛した男は21歳の時に死んだ。

私の卵巣は機能していないから、子どもは欲しかったけど持てなかった。

私には芸術の才能だってない。でも私の周りには芸術家ばかりが集まる。

誰の人生だって厳しいの。

違う選択をしただけよ。

 

 

川遊びの時、浮き輪を腰に巻き付けたまま、岩場をちょこまかと動き回る末っ子は、いかにも夏休みの子どもらしくぴかぴかとしていて、眩しいような気持ちになった。

来週で4歳になる。もうすっかり骨格もしっかりしてきて、最近はおしゃべりがとても上手になり、いっちょ前の口ごたえをするようになった。

それでも眠る時には私にぴったりと体をくっつけて眠る。

その柔らかさに毎日うっとりして、飽きることがない。

本当にあっという間に育っていってしまうことがいやでも分かっているから。

幼児との暮らしは、あと数年のお楽しみ。

 

今手の中にあるものを大事に、同時に気楽な適当さでもって、軽やかに。

そして、バランスを取るということに注力することだ。